赤子が私の腕に抱かれ、私の胸の音を聞く。小さな顔、小さな手、小さな足を優しく撫でる。まるで真綿のようである。頬に触れる。全てが天使のようにかわいい。
こんなにも愛おしく、かわいいものだったとは、不思議な感情である。生まれる子らは全部天使っだたことに気づく。
羽のない天使は、これから親の愛情、まわりの愛情に育まれ、羽が生えていくだろう。
三歳のあーちゃんは「ババ!ぼくの妹だからね。ママに返して」と頬にキスをする。
日日是好日
孫から送られてきた
カメラ日記
たくさんの想いでの中に
ババと孫の城山登りがあった。
涼しいうちにと登りはじめたが
「暑いよ、もう帰ろう。
もう帰る」と何度も孫は言いました。
その度に「あきらめないで、もう少しだから頑張ろう」とババはなかば脅迫めいた言い方をする。
ようやく頂上に着く。
秋葉公園、原信、ババのうちへの道路、遠くには守門山が見える。
少しだけ喜ぶ。
そこへ大きなオニヤンマが登場
あれっと言う間に飛んでいってしまった。
水筒の水を分け合って
一休み。
かと思うと帰ろうコールが始まった。
城山の裏から近道を下りる。
待っていたのはパパとママ。
孫にとって暑くて疲れた城山登りだったけれど
夏の想い出のひとつになって
絵のカメラ日記に収められていた。
日日是好日
来年は70歳を迎える。夫と二人暮らし。子供一人。孫一人。
私の人生の宝物である。
そして、その宝物と並行して色々な人に出会って、別れて、の繰り返し。
この日は、ピアノレッスン仲間のお友達とミュージカル「生きる」を観ました。黒澤明映画と重ねながら、そして亡き父や母、お友達のことを思いながらの鑑賞でした。一度の人生をどう生きるか、主人公演ずる市村正親さんの後半のブランコシーンは映画と同じく心に響く。
命短し恋せよおとめの歌詞とメロディに涙が頬を伝う。癌と宣告された絶望感。絶望感の中で、彼は区民の要望である「公園」作りに取り組み、それをやり遂げる。命の限り誰かのために頑張る主人公と子供の絆が描かれていた。自分の子供がブランコに乗った時の笑顔が忘れられないからこそ公園を作りたかった主人公の想いが伝わり涙が止まらなくなった。ブランコに揺れて彼は天に召されて逝った。
親の気持ちは若い息子には伝わらない。私もそうだった。親がこの世にいなくなって初めて親に感謝した。死は親の心と子供の心を通わせることにもなる。
役者の素晴らしさとセリフに合わせた生の演奏の迫力はすごい。特にバイオリンとテンパニーは素晴らしく心に響いてグッときた。
映画とはまた一味違う。役者と演奏者と観客がひとつになるライブ感がたまらなく好きだ。特にカーテンコールに寄せる拍手は素晴らしいの連打だ。立ち上がる観客のひとりになる。
帰りの新幹線では舞台の素晴らしさはもちろんだが、夫を亡くした友達とこれからの人生をどう生きるかを夢中で話し合う。苦しいこと辛いこといっぱいいっぱいあったけど、今日こうして新幹線で東京まできて観劇できることに二人とも感謝だね。の結論だった。
ゴンドラの唄を伴奏して、妹に歌ってもらおうかと思った。映画ももう一度。
日日是好日
孫たち家族が一ヶ月半我が家に滞在している間、私の自由はほとんどなかった 。
娘家族は勝手気まままである。私は朝から山ほどの洗濯にリビングの片づけ朝食準備に追われる。
そこで途中から起きる時間を早めて4時前にした。洗濯や電気釜のスイッチを入れる。孫や娘たちがちらかした後片付けはYoutubeをつけてピアノ課題曲を聴きながらである。「歌の翼に」はブーニンが一番好きだ。
それからは何がいいかなと探す映画。今回探した映画は「かもめ食堂」私の個人的分析によるのだが美人揃いでない方が女性には関心度が高くなる。主人公サチエ(小林聡美)はフィンランドでかもめ食堂をはじめる。そこに集まる奇妙な出逢いみどり(片桐はいり)、まさ子(もたいまさこ)と個性派女優の3人は絶対にいい人に違いないと言う安心感が生まれるのだ。この背景や脚本は誰が書いたかは調べていなかったが目線からして、絶対女性と思った。
この映画の中で一番感動したのは人に握ってもらう「おにぎり」は極上だと言うことだ。手のひらにあるパワーがおにぎりに伝わり、おにぎりから食べる人のハートに響く。なるほど納得、だから母ちゃんのおにぎりの味は忘れられない。籾殻で炊いたご飯(まんま)の香りだけでも美味しい味だ。おにぎりは昔握り飯と言った。真ん中に梅干しがひとつ入っていた。海苔1枚で包むおにぎりはでっかい。
孫もおにぎりが大好きだ。私はまんまるで小さなおにぎりをおやつにだすと、ペロリと食べる。私が母ちゃんに作ってもらったおにぎりとはだいぶ違う、中身も梅干しからいくらに代わっているけれど、にぎることは同じだ。
豆撰の栃尾寿司も「にぎる」これだと思った。肉厚の甘塩っぱい味も母ちゃんの味がヒントだった。
日日是好日
真正面に海が広がっている。ベランダの白い椅子に腰掛けて寄せる波を見つめる孫は大喜びである。「ババ素敵だよ。こう言う感じが好きなんだ。世界で一番だよ」と興奮は止まらない。踊ったり跳ねたりしている。「早く海に行こう、ババもだよ」
短パンに着替えて砂浜に行くと色々な貝殻がある。海は綺麗だけどイタリアにはこんなにたくさんの貝殻はないよ。と娘と孫は貝殻拾いに夢中だ。浜辺にはたくさんの廃棄物もある。ガラスの破片まで角が取れてまるで宝石のようにも見える。
佐渡のむこうを見つめると北朝鮮の木船が浮かぶ。この平和の中で拉致された人たちと拉致する人が交差する。人間の死は病や事故が多い、死んだ人への愛情や感謝、残念な気持ちは大きいが、覚悟や諦め、仕方ないと日に日に悲しみは薄れていく。けれど、拉致に関しては生きているかもしれない。いや生きているはずと思う被害者家族にとっての憤りは果てしなく続いているのだと思うと、みな子ちゃんのお母さんの顔が浮かぶ。戦争も拉致も何も解決していないのだから。
雲に隠れて夕陽が沈む絶景はみられなかったが雲の切れ間からお日様が海を照らし砂浜に顔を描いてくれる。妹が歌う「浜辺のうた」を私は伴奏する。孫は浜辺を歩き浜辺に城を築く。
いよいよクライマックスだ。孫はすすんでビールやお皿を運ぶ。炭を起こしお肉にエビ、シジミ、豆撰の栃尾の油揚げ、夫製作のナス、ピーマン、などなどに孫は「めっちゃ美味しい」を連発。日本の家族と一緒のバーベキューは最高のようだ。終盤に近づくと地面にムカデが出没!田舎育ちの娘は、簡単に捕まえて、火の中に。「ママどうして、可哀想だよ。逃がしてやればよかったのに」と大泣き。ここで般若心経を唱え一件落着。
4:40分いつもよりよく眠り1時間遅い起床。ベランダに出るとまだ薄暗く西の空にまんまるく光っている、月である。昨日の夜見た位置と随分違う。東の空は赤く染まっていた。あいにく太陽は雲に隠れて見えない。昔話「ねずみのよめいり」を思い出す。そして地球が回っていること月が地球を回っていること。イタリアとの距離と時差などを考えていると、やっぱり宇宙から地球を見たら模型でなく本物を感じるだろうと思った。あたりが明るくなると孫も起きてきて、女3人で貝殻拾い。自分の手のひらサイズの貝殻を見つけて耳に当てる孫。「海の声がする」と私の耳に貝殻を当てる。海の声が確かに聞こえた。親子3代こんなに幸せな時を聴かせてくれてありがとうございます。と私は思った。辛いことも苦しいこともお金がなくて困ったこと。貝殻から聞こえる声は「よく頑張ったね」と言っていた。
しばらくすると娘は砂浜に投げ出されているプラスチック拾い。夫は砂場に降りる階段の草刈り。
どれくらいの効果があるのだろうか。父娘はよく似ているものだ。
日日是好日