2015年1月31日土曜日

「親が70歳を過ぎたら読む本」を読んで

先日、「とちパル」でご講演なさった村田裕之先生の著書
「親が70歳を過ぎたら読む本」を拝読。
まずこの本を読むに一番いい年齢はタイトルの、親が70歳を過ぎたらの
通りです。
つまり、40代後半から是非読んでもらいたい、読みたい本です。
私の生存している親は義父母に実母の3人です。
私が還暦を過ぎましたので、この3人は平均年齢88歳です。
要介護が必要、要介護まではいかなくても、介助は必要となった3人。
この人たちに「遺言書」についての説明や老人ホーム入所についての
理解を求めるには少し高齢になり過ぎました。
しかし、私たち60歳63歳の夫婦のこれからには
必要なことがたくさん書かれています。
私たちには娘がひとりおりますが、遠い国に嫁いでいます。
おそらく、日本での永住は考えにくいようです。
今、私たち夫婦が元気なうちに、娘に負担や迷惑が極力かからないように
遺言書を作成しておくべきだと痛感しました。
後半の章に読み進むと、先日のご講演の内容がさらに
繰り返され、頭の中に入ります。
そして、認知症を予防することが今、今日から大切とあらためて感じました。
健康をいつまで保てるかではなく、健康を維持する努力が大切、
その努力が娘のため、大きく言えば国のためになるのかと思いました。
さあ、今日は私の休日、通勤で歩くこともなかったので
半年以上やらなかった(腰を痛めていたため)カービーダンスで筋トレをしなくっちゃあ。


2015年1月30日金曜日

新しい脳細胞をつくるため

 
先日の村田裕之先生のお話を元に
実践してみました。
以前からやっていた「簡単計算問題」をいつものように・・・・・・。
でも、採点はスタッフのMさんからやってもらいました。
「おばあちゃん100点だね。すごいね」と誉めてもらう。
親子間では効き目が薄いらしい、他人から誉めてもらう事が
より効果がありますと村田先生に教わりました。
これは大成功です。いつもより母の顔が和らいでいました。
その他、筋トレもやってみました。
3人で片足を高く上げます。腿と床が水平になるように
私が声を出し10数えます。次に母が声を出し10数えます。
そしてMさんと片足ずつ繰り返します。
3人でする簡単筋トレは母にとって面白かったようです。
母はもちろん片手は椅子につかまってやりました。
そして最後に私は「昨日ね、講演会でお話を聞いてきたんだよ、100歳の人が
毎日1個ずつ英語の単語覚えるんだって、100歳だよ」
母は笑いながら「そんげんことできねえこって」と言いました。
そうだな、今の母には無理、そこでアルファベットから入ることにしました。
大きな紙に大きく書いた「A」の文字をまずMさんから読んでもらいました。
次に母に聞きます。母はちょっと得意顔で「えー」と読みます。
3回ほど繰り返しました。
この方法は保育園のお遊戯会でセリフを簡単に覚える私なりの
テクニックでした。
私が席をはずした時にMさんは母に「おばあちゃんAは知っていたんだよね」と
尋ねると、大きくうなずいたそうです。
さて、今日は「B」を覚える番です。どうなるやら?

2015年1月29日木曜日

大人の休日倶楽部から

 
2015年2月号の表紙は
大人の肖像/女優 石田ゆり子
ぺ-ジをめくると、表紙の石田ゆり子さんが横向ポーズから、正面ポーズに
変わっています。これがなかなかステキなポーズ。
 タイトルに「好きなことの先にはすてきな出会いが」と書かれていました。
このタイトルが気に入った私は
早速読んでみました。
1冊の本との出会いが人生を変えることも・・・・・・。
読み始めると
先日話題になっていた新作映画 「悼む人」につながりました。
天童荒太さんの原作を読み、感動し、もし映画化されるなら
ぜひ、かかわりたいとお手紙を書いたそうです。
その結果、ヒロインの奈義倖世を演じることになったと書きつづられていました。
また、文章を書くことも大好きで
書いているうちに自分がみえてくるとありましたと書き進められていていました。

読み終えて、とても、まっすぐで人の気持ちを感じる女優さんだと思いました。
私より15歳も若いのに、「しっかりと自分をみつめ、人を思いやる
ステキな人」に出会ったような気分になりました。
そして、このエッセーから
「悼む人」は何が何でも観たいと思いました。
公開は2月14日・・・・・・http://www.itamu.jp/
忘れないようにしよう。



2015年1月28日水曜日

懐かしい人と再会したような気持ち


FBのお友達で世界を飛び回り、たくさんの著書をお書きになられている村田裕之さんのご講演 を昨日お聞きしてきました。
テーマは「スマート・エイジングという生き方」
自分らしく元気にいきいきと過ごす7つの秘訣について、
画像を取り入れながらのご講演は、とてもわかりやすく、聞く人をあきさせない素晴らしいご講演でした。
今、私が抱えている、数々の問題に対する処方箋をいただきました。
脳細胞のある部分は病によって 死滅してしまうけれど、新しい細胞をつくることが可能である事例に「あきらめない努力」の必要性を強く感じてきました。
 そして、今後私が健康年齢を保ち加齢を楽しみに変えていくべきかという大きなテーマもいただきました。
今私たちに必要なのは最高の設備を整えた姥すて山に入ることではなく、私たちが加齢していく課程で私たち自身が脳トレ、筋トレを考え自分で行動し、認知症の予防 をする。
さて、何歳まで健康年齢を保つ事が出来るか?
人のために生きることは自分のため である。
まだまだ私もがんばれることありそうだなと思わせてくれた1時間半はあっという間に過ぎました。
村田さんとはじめてお会いしたのですが、栃尾でお生まれになり
刈谷田川を渡り、雁木を歩き、秋葉神社の階段を駆け上った
共通点からでしょうか
栃尾人の匂いが私の心まで届いてくる、不思議な想いを感じました。
ふるさとは遠きにありて思ふものも一つ
ふるさとをたづねて思ふものも一つ
不思議な想いは懐かしい人に思えてなりませんでした。
そして、村田さんからいただいた「親が70歳を過ぎたら読む本」と今アマゾンから 届いた「海辺のカフカ」を読破することを当面の目標にしました。


たくさんの著書 、たくさんのメッセージがつまっております。
http://bb.hiroyukimurata.jp/




2015年1月26日月曜日

24時間時計は時計ではありません。

母と私は枕を並べて寝ます。
母は毎日ベットに入ると、同じことを聞きます。
ひとつ、ひとつ私はいつものように同じように応えます。
時々、心の中では「また、始まった。もういい加減にしてよね」と
思っています。
 昨日も、1から10まで同じことを繰り返し聞くのです。
その中の一つ、部屋にかけてある時計を見ては
「今は何時だ?」と聞くのです。部屋の時計は娘が東京に
住んでいた時のものです。24時間時計です。
そして針は
もう何年も止まっているのです。
母はこの長い針と短い針を見て不思議でたまらないのです。
この時計の説明もいつものように、繰り返し何回も説明しました。
でも、この説明は、面倒なので
夕べはついに
「これはね、時計じゃあないんだよ」と言い切った私。
母は
「そうか?時計じゃあないか・・・・・・。」
その先の質問がこないうちに
「もう、10時だよ、ねましょう!」と私は照明を消しました。

 写真は母84歳義母90歳仲良く、相撲観戦



2015年1月25日日曜日

久しぶりの温泉

 母と夫と一昨年の秋から、遠のいていた、日帰り温泉に行きました。
温泉ならあったかく、母の髪を洗うにも寒くなく良いと思い立ちでかけました。
温泉に着くと、大勢の人で賑やかでした。
まずはお風呂に入り、広い湯船に浸かり、体を温めていると、
一歳にならない赤ちゃんが窓側で、母親に支えられ、タッチタッチをしていました。
寒くならないように母親はお湯をかけていいます。
しばらくすると、抱っこされて、私たちのそばにやってきました。
その赤ちゃんをみて、母は微笑みを浮かべます。その笑顔見つめる母の瞳は、
心から可愛いと表現するのです。
私は母の緩んだ顔をみて笑います。
母の背中を流し、母の髪を洗いました。母の背中は丸まっています。
母の髪は猫っ毛で、さらに薄くなっていました。
 お昼ご飯は一口しか食べなくなり、食が細くなっています。
生きることへ反発しはじめたのかとふと、思ってしまい、
強制的にもっと食べるように強い口調になる。
そしてあきらめの気持ちになっていきます。
それでも、温泉は良かった。あの赤ちゃんは天使でした。
母に大きな笑みをプレゼントしてくれました。
忘れないひと時をありがとう。
 栃尾に向かう車の中から見える守門岳の峰の美しかったこと・・・。
デジカメを持っていかなかったのが悔やまれました。

2015年1月21日水曜日

難しかったけど面白かった「生まれ出づる悩み」

有島武郎作品2冊目に挑戦してみました。
おそらくFBのお友達に進められなければ挑戦しなかったでしょう。
でも、読み始めるとなんだか先が知りたくなりました。
本の中に登場してくる「私」は有島武郎であり、「君」は画家を目指しているのに喘ぐ漁夫。
私の頭の中は糸巻きが絡んで、糸口が見つからない状態になりました。
私と君は同一人物に思えてならなかったからです。
どこからどこまでが本当なのか、どこからが想像なのかわからない。
画家になりたい君を、私は勝手に青木繁の「海の幸」に想い描いていました。
読み進むと怖い場面が出てきます。夢と死は隣り合わせにすんでいるような
場面です。私は心の中で「死んではいけません」と「だから有島武郎は自殺したのか」
とこの2つの呪文を繰り返していました。
夢や希望の裏には孤独と 守らなければならない生活がある。
男ならなおさらの時代でしょう。
女の私でさえ理想と現実の葛藤の連続。
60年の人生を振り返ると、苦しき事ばかり。
でも、今は穏やな気持ちになれる余裕が少し感じられます。
それはきっと
それを乗り越えてきた道のりが想い出に変わってきたからかもしれません。
60歳にして、なんだか難しい本を手にして、自分なりに想像して理解している
自分を楽しんでいるようです。
いくつになっても、「想い」と「考える」ことを失わないようにしたいものです。
そして、まだまだこの先の人生には苦しい事がたくさん待っているかもしれない
でも、その道を歩き、乗り越え、また「想い出」に変えていこうかな?と思いました。


2015年1月19日月曜日

母にはじまり、母に終わった一週間

妹が無事にイタリアから帰ってきました。
一週間前に母を預かり、朝昼晩と一日中母と行動を共にしたのは
私がもの心がついてから、初めての経験でした。
母に育てられた記憶のない私です。
私が3歳になる前に妹M子が生まれました。M子が生まれたことで
私は母から離され、祖母に育てられたのです。
祖母は私の母になりました。その妹M子は生後数ヶ月でこの世から消えてなくなりました。
母が歌う童謡のことをFBのお友達が書かれていました。
「しゃぼん玉のうた」を・・・このうたは母が妹M子を思い出して
洗濯をしながら、着物の洗い張りをしながら良く歌っていたことを
今日思い出しました。

その私が母と一緒に食事をし母と一緒にお風呂に入り
母と一緒に眠るのです。
この一週間は長くもあり短くもあり、不思議な時間でした。
何故なら、母はもはや母ではなく子供になっていたからです。
私がそばにいないと「ひとりは嫌だ」と訴えるのです。
私が起さなければ母はいつまでもベットに入っているのです。
母にごはんを食べさせ、母の着替えを手伝い、母の髪をとかし・・・・・。
この一週間は、本当に母は子供になっていました。
今日から母は妹の子供に戻ります。私と母の因縁が、
わだかまりが消えた一週間だったかもしれません。
少しほっとしています。
そして、いつも母を見てくれている妹夫婦に感謝です。

2015年1月18日日曜日

3人の平均年齢は88歳

義父90歳。
義母90歳。
実母84歳。
平均したら88歳。
今朝、3人が役所さん主演「山本五十六」を観ている。
昨日は山村聡さん主演映画「トラ・トラ・トラ」です。
平均年齢88歳の3人にとって戦争は嫌いである。
しかし戦争を経験してきた、この3人の老人には
戦艦、兵服、戦闘機、爆弾の時代は怖さと懐かしさが入り混じったものようです。
しかし、上映時間が長いこと、おまけに内容は難しく
途中で観る事を拒否しました。
私と夫はなんとか最後まで観て
「1970年でしょ。私は15歳で、この映画を観る事はなかったわ・・・
・・・変よね。この映画アメリカ優遇映画みたい。ロッキード事件のころかしら?」と私の感想。
そして今朝、もっとわかりやすく、ちょっと日本寄りの映画を再度披露するとなったわけです。
果たして、平均年齢88歳のご老人には理解できたかどうか?
義父の認知症が少しづつ始まり・・・夫は辛いのでしょう。戦争経験者である父親に
しっかりしてくださいと言っても無駄だから、せめてこの映画を観て
父親の認知症の歯止めになればとビデオをまわしたのではないかと思います。

雪がとけ
水仙が咲くころになれば
家から出られますよ、3人さん もう少しです。
待ちましょうね。






2015年1月16日金曜日

アマゾンから届いた本

数日前にネットで注文した本が届きました。
いつものように、厳重に包まれ、外箱を開けるとダンボールに
はさまれた小冊にちょっとビックリ、拍子抜けの感じ。
何故なら、作者「有島武郎」の本です。
中学生か高校生かは思い出せないが教科書に載っている作家です。
聞いた事はあるが、読んだことは一度もない。
裏覚えに「或る女」とかあったような、かすかな記憶です。
FBのお友達のおすすめ?本ならば読んでみましょうと
購入したわけです。
そして開けたら、なんと短編・・・・・これなら読めそう・・・・・。
ページ数が少ないと、心に負担がない。
読み始めた本は「小さき者へ」
書き出しからして、何やら遺書めいていました。読み進むと
妻の出産の描写が読み手をドキドキ、ハラハラさせます。
ああ、この妻は、赤ちゃんを産んで
ひとり別世界に行くのだろうかと思わせる書き方でした。
他の方が読んだらそうでもないのかもしれませんが・・・私は
勝手に想像し、話を自分で作っていたからです。
すると、私の話は崩れ、赤ちゃんは無事に生まれたのです。
葡萄酒を盥の中にあけろと命じた産婆、暫くしてかすかな産声が響く場面に
小説の中で安堵し、一人娘の誕生を思い起こさせてくれました。
ひとつの命の誕生は、はじめて耳にするうぶ声は私の鍵をかけられていたオルゴールの
蓋が突然開き、奏ではじめ、小説と重なって聞こえました。
それから、妻の病気
妻の病気について、またまた重複していました。
母とたづねた病院、祖母は私に行ってはいけないと言った病院。
病棟に入る時にきつい消毒の臭いと白衣を着せられたような記憶。
母の妹に会うために、当時食べることがほとんどなかった肉を
「肉は血になるそうだから、食べてね、治るからね」と母は叔母に肉を渡していました。
遠い記憶は確かなのかどうかわかりませんが本のページをめくるたびに
その病棟が浮かんできました。
「おばちゃんは良い薬が出来て、治るんだよ」と母が教えてくれたような気がします。
ストレプトマイシンだったのでしょうか?そのおかげで叔母は元気です。
今も70歳を越えているのに元気で、氷川きよしの おっかけをやっています。
話がそれましたが
小説の中では妻の流すあつい涙が私の頬をつたう。
この小説は有島武郎から小さき者へ書き残した遺言状かもしれないが
私は同じ母として母の気持ちが伝わって、大きく心を揺さぶられたようでした。
残された子供たちは 有島武郎のこの小説から母を想うのでしょうか
残された子供たちには母の気持ちは
十分に伝わっているのではないでしょうか。
だれでもみんな、生まれた時に母はいます。生まれてすぐに母が他界しても
大きくなってから母が他界しても・・・子を想う母の気持ち変わらないと思いました。

少し早いけど、この小説の母へ送ります。さくらんぼの花を!








2015年1月15日木曜日

中年夫婦の離婚の理由





 長年連れ添った夫婦が熟年離婚する話は

良く耳にします。
自分のやれなかった人生をもう一度チャレンジしようと
思うのでしょうか
その気持ちが全く理解できないわけではありません。
それよりも、熟年離婚の理由に
「老人介護」問題が入っていることに
心が痛みます。
妹夫婦と同居している母を一週間だけ預かることになり
まだ数日しか過ぎていないのに、
妹の気持ちがようやくわかりました。
妹が口癖のように、仕事と家事の両立は出来ないと言っていた
その本当の意味がわかったような気がします。
仕事と家事の間に「母の介護」が入っていたのです。

 もちろん、私にも義父、義母が90歳で健在ですが、
近い将来、母のようになるでしょう。

縁があって夫婦になり、夫婦には両親がいる
当たり前のこと・・・・・・。
同居にしろ別居にしろ「介護」の2文字は多かれ少なかれ
経験することでしょう。
その経験が離婚の理由になる
長寿国の日本にとって、大きな大きな問題となることでしょう。

 眠る母を見る、動きの悪い義父、耳の遠くなった義母を見る。
大変な経験です。
この経験をいかし、自分の老後を考えなければと思う朝でした。


写真は先日静岡久能山への入り口で見つけました。


2015年1月14日水曜日

笑えることをみつけなければ

朝一番にキッチンに立つのはもちろん私です。
お米をといで、昨日予約済みの洗濯機から
乾燥済みの洗濯物をたたむ。
今朝のおかずは、シーチキンとお豆腐の麻婆豆腐に決める。
母が泊っているから、母は柔らかいものしか食べられなから、
それに決めました。
お味噌汁はいつものように煮干でだしをとり
白菜、ニンジン、タマネギ、ごぼうをいれ
酒かすを少し入れる。
母はとろろいもが大好きだから、とろろいもをすりました。
しばらくすると、義父登場。
最近「おはよう」と声をかけなくなりました。
私の方から「おはようございます」と大きな声で挨拶。
「おはよう」と応える。
お風呂の掃除を終えたころ
義母が登場。こちらも耳が遠くなり
私は大きな声で「おはようございます」
「おはよう」と義母が応える。
いつものように4人で朝食を済ませ、みかんを配る私。
まだ、娘のベットで眠っている母・・・・・。
私は仕事に行かなければ・・・・・母の様子を見に行くと
トイレに行こうとしています。
トイレに行き部屋に戻り
「まだ寝ている」と母は言う。
「そうね、ちょっと豆撰に行くから、寝ていてね」

朝早い豆撰の仕事です。社長と男性スタッフ2人は作業中。
次々に出社してくるスタッフに
昨日のこと今日の指示をして、机に向かう私。
伝票を整え、今、ブログを書き終えて、家に戻ります。
母に朝食を食べさせ、着替えをさせて・・・・・・。

お日様が出ています。今日のお昼は母が笑えるように
御寿司を食べにいきましょうか・・・・・・。

2015年1月13日火曜日

夢みたいだという妹



 ミラノに無事到着した妹、妹の娘と息子について娘からメールが届きました。
妹は風邪を引いていたので、とても心配していましたが
飛行時間が長かったので、熱も下がり
お腹の調子も少し良くなったらしい。
娘に今日の予定を聞くと、ミラノの大聖堂を見学、最後の晩餐見学をゆっくり楽しみ、
ミラノ料理の夕食を娘夫婦と楽しむとのこと・・・・・・。
妹たちはヨーロッパは初めての旅行です。
娘から「夢みたいだと言っていたよ」とメールを読み
仕事と母の面倒で疲れきっている妹を想い、目頭が熱くなりました。
また、娘も「精一杯のおもてなしをします」と言ってくれました。
良い妹と良い娘に感謝しています。

写真は2年前、娘の結婚式の時お訪れた大聖堂の写真です。



2015年1月12日月曜日

は、は、春なんだ!

あら?食品倉庫から
こんなに芽が出てしまった我が家のジャガイモ君達。
春はまだ遠いのに、ジャガイモ君はみんな仲良く芽を出してしまいました。
義母は芽かき作業です。
スーパーではお目にかかれない。
何故なら芽止めされているから
安心、安全なものは芽もでます。腐りもします。
それが当たり前なのに、当たり前が「変、ダメ」に変わってしまったのはいつからでしょうか?
ハム、ソーセージ、パンも甘酒も今では腐らないものが多い。
私たちの身体は死んでも腐りにくいらしい・・・。








2015年1月11日日曜日

アルツハイマーの症状

何回、同じことを聞くのでしょうか
何回、お菓子の袋を開くのでしょうか
動物の名前も忘れたようです
童謡を歌うと少し思い出し口ずさみます。
でも、すぐに飽きてしまいます。
今日は頭の中がもやもやしているようです
何回も同じことをいいます。
そして、そのたびに私も同じことを答えます。
母は大きな声を出すでもなく、同じ事を聞くのです。
私は同じことを答えるたびに声が少し大きくなります。

今日は調子が悪いのです。
頭の自転車パンクしているのです。

顔のしわはお猿さんのようです。
長く生きてきたからですね。
手のひらをさわると
少し冷たい
爪をきりましょう
この指で書いた日記
この指で生けた花


机の上に飾られている写真をみて
これはお父さん、お父さんは若い時はいい男だったという
いい男と結婚できて良かったのと私がいう
母は、ははははっと笑う




もったいないの意味

商工会さんのくじ引きが1月3日までありました。
くじを1本引くのに5000円分の買い物スタンプが必要です。
その1本のくじ引き権利を得た義母は
11日の今朝になって「その、広告は大事だから、くじ引きに行ってほしい」と
夫に依頼。
夫も私も心の中で1本のくじ引きのため並ばなければならないこと
駐車場がない場所であること
などを考えたら、くじ引きにはいけないと思っていました。
それに、今日は11日で期限がとっくに過ぎたことを夫は義母に話す。
義母は黙って何も話さない。
期限があったことに気がつかなかった自分、
もったいない事をしてしまったと思う気持ち、
夫の冷たい言葉にやり場のない怒り。
この3点が義母に沈黙を与えたのです。
大正14年生まれの義母にしてみれば5000円の買い物をして、その見返りが
「くじ引き」だったのです。沈黙する気持ちもわからなくもないのですが・・・・・・。
夫から豆撰に送ってもらう車中で私は
「ばあちゃんにとっては手間はただなのよね。私たちの手間もお金なのにね」と
またまた、冷たい言葉を発する私。
世代により「もったいない」の気持ちがにかなり変化があるようです。
さて、どっちがもったいないのか?
ちなみに、このスタンプでくじは引けませんがスタンプとして利用できることを
知り、安堵する私はもったいない世代です。

2015年1月9日金曜日

珍道中静岡最終編


 前回からのつづき
さて、我が家の新家族4人で過ごす、最後の晩餐会が近づいてきました。つまり、娘夫婦はミラノへ戻るわけです。
 その、最後の晩餐会は娘が見つけた「自然食品を使っています」と書かれていた居酒屋。
タクシーを飛ばし、お店前に到着。
ががーん、7時だというのに「準備中です」と店主らしき人に断られてしまいました。
豪華なお昼も逃し、さらに最後の晩餐会も・・・・・・。
 仕方なく、たどり着いたところは、なんと新潟のお店だった。なんでそうなるの・・?
それでも最後の晩餐会にふさわしい品数の多さ、〆鯖、鯵のたたき、牡蠣、枝豆・・・並んだ皿数は豪華絢爛、まるで王宮料理の皿の数。そして、4人はお腹いっぱいになり、満足。晩餐会は無事終了。

 次の日は晴れの予想です。
朝早くから富士山を見ることで意見は一致。

 8時半にホテルを出てタクシーに乗り込み運転手さんに質問
「今日はどうでしょうか?富士山みれますか?」
「もう少し走ったらすぐわかります・・・・・・ああ、残念だね。この正面に富士が見えるはずなんだけど、雲で・・・おとといまでは素晴らしかったんだけどね・・・・・・」
運転手さんと協議の結果「三保の松原を先に行って、東照宮を廻っているうちに、頭くらいはみえるかもしれないね????」

 そして、三保の松原へ、何にも見えません。どこにも富士山はありません。
「ここのこの場所の松の向こうに富士が見えるはずなのよ、だから、もうイメージしてよ」と見えないものを見るように、強制する私。でもみんなは裸の王様の気分に はなれないようででした。3人は無口になりタクシーへ乗る。そこへ戻って来た夫。カメラに写っている三保の松原と富士山の絶景を私たちに見せびらかせる。(前回ブログ)
外人婿殿は「どこで?」とタクシーから降りようとする・・・。
待て!待ってくだされ婿殿。「そこに大きなパネルがあった」とつぶやく夫。3人は「あっそう」と笑い声に混じり冷たい視線を夫に向ける。

 仕方ない、仕方ない、いざ久能山へ出陣。
1159段ある階段を上り、東照宮を参拝。
一回りして出口を抜け「どうして家康のお墓がなかったの?」と私の質問に夫は案内図を見て「一番奥にあるって書いてあるぞ」ああ、そこまで行かずに下山してきた4人はなんという「アホ」もちろん、4人はもう一度上りました。汗だくになりました。
 高台にあるお墓と私は対面し、家康さんにどうしてこの地に埋葬をするように依頼したのか聞いてみました。
答えは、「戦のない世を見続けたいから」と・・・・・・。これは私の願望。
そして、帰り際、娘夫婦に「家康は正室を切り捨て、後に秀吉の妹を正室にしたんだよ」と説明すると、外人婿殿は娘に「切られないように」と一言。3人で爆笑。
やれやれ・・・。


 それから、日本平へ、はじめて体験するロープウエイにちょっと不安な表情の婿殿。
日本平に到着、せっせと見晴らしの良い場所目掛けて駆け上がる。
どこどこどこ??????
雄大な霊峰の影も形も「ない」ではありませんか。
「お昼を食べ終わったころには見えるから、お昼先に食べましょ」と近くのレストランへ。

 食べ終わったころ娘が「運転手さんが言ったよね、新しくてステキなホテルにレストランがあるって・・・・・」
私は3度目の落胆に声も出ず・・・・・・。
4人で再度富士を拝見するために・・・・・。
少しだけ見えました。興奮しているのはもう一組の、それも外人さん。その興奮している声に私たちも右習い。「見える、見えたよね」と興奮と安堵の声。
記念写真をとり、今度はコーヒーを飲み待つことに。
これが最後のチャンスです。駆け足で上ると、富士の頭が雲の上に出ていました。 その美しかったこと。

 これにて、静岡紀行は終了させていただきます。幕。

 珍道中にはもう一つ落ちがありました。
「おい、どうした新しいカメラは?」と夫が婿殿に尋ねる。娘が先に答えました。「電池切れ・・」
私たちと一緒に行動するうちに、私たちに似てきたようでした。おしまい。

2015年1月8日木曜日

静岡の旅2



先回からのつづきとなります。 
さて、東御門の見学は無事終了しましたが
雨はさらにひどく降り続きました。
そこで、思いだしたのです。
私の大好きな亡き叔母の嫁ぎ先が小出の御茶屋であること。
そして、ここは静岡、小出のお茶問屋のさらに大きなお茶問屋さんがあるはず
叔父に電話をかけると
「俺が話しておくから、そこからタクシーですぐだから行って見ればいい」
というわけで、あるお茶問屋の老舗へ4人は向かったのです。
叔父が電話をしてくれていたので、すんなりと問屋さんへ。

私たちは美味しいお茶を1杯ご馳走になり、
工場と大きな冷蔵冷凍倉庫の見学とあいなりました。
 「本当はもう1杯いただきたかったよね」と娘とひそひそ話しながら
エアー室へ

「異物混入の問題が一番神経を尖らせています。
お茶の葉には虫もごみもいっぱいつきますから大変です」と
機械による異物の駆除、さらに最終段階は目視が一番効果的と話されました。
お茶の選別機は大豆の選別機に似ています。
お茶の機械化、コンピューター化がこれほど進歩しているとは思いもせず
びっくりしました。
お茶の葉は大きな機械につめられて
3階立ての建物から2階の機械に自動的に落とされ、選別される作業工程は
酒作りのようでした。数種類のお茶に分かれ、それぞれをおおきな袋に詰める。
手作業はほとんど見られませんでした。
また、豆撰の何倍もある、広い大きなマイナス30度の冷凍庫はすごかった。
鮮度が勝負なのは豆撰の冷凍ボックス栃尾の油揚げと同じでした。
見学終了し外にでるとポカポカ気分になりました。

さてここで、大きな疑問が残りました。
ニュースでも大騒ぎ?商品に異物混入騒動。
確かに異物があることは100%許せない国です。
異物混入問題は大きく取り上げられるのに、東北の放射能もれ、
それによる子供たちの病は許せるのでしょうか?
命に関わる事は報道も抑えられ、命に別状ないことは大きく取り上げられ
下請け機関を苦しめている。
何だか?疑問?
さて、御茶屋見学も終了、駅まで車で送っていただき、
雨も上がり、商店街をぐるりと散策し、美味しいおすすめ居酒屋さんの本を購入し
一旦ホテルへ。
娘に本を渡し夕食の場所を選んでと依頼し
少しホテルで休憩する事に・・・・・・。
ここからがまた珍道中の始まりとなりました。
そして、このページ写真の真実へとつづきます。


静岡の旅1

娘夫婦と私たち夫婦の1泊小旅行は
「富士山をみる」ことでした。
6日の朝早くに上越新幹線に、次は東海新幹線へ。乗り継ぎ時間がなかったので
あわてて、電車に乗り継ぐ。「10号車 だぞ。」と後ろで叫ぶ夫、私は後ろを振り返ることなく
スタスタと3号車から10号車目指して歩きました。
10号車に入って、初めて切符を取り出すと
何と7号車と書いてある。振り返ると後方部隊は着いてこない。
夫だけが私を目掛けてかけて来る。
どうしてこうなるの?

東京から横浜を過ぎたころから「雨模様」でした。
天気予報は良くあたります。
静岡に到着と同時に雨の出迎えにがっかりです。
駅前のホテルに荷物を預かっていただき、観光案内へ。
市内観光のバスが30分置きに出ているとのこと。
時間を確認して、予定していた自社農園をもつ、フレンチのお店でランチを
しましょうと、
でも、待て、電話で予約をしましょうかと言う事になり電話をする。
「・・・・・・・・8日までお休みとなります。」
栃尾にいるうちから調べておいた、フレンチは
一瞬のうちに消えてしまいました。
仕方なく駅ビルに入り・・・・・・キョロキョロ。
娘婿殿は「お好み焼き」が食べたいと言う事で
フレンチからお好み焼きに方向転換。
私のお財布だけが声をたてずに、密かにニッカと笑っていました。
お好み焼きのテーブルに手鏡がかけてあり
いち早く、疑問を投げかけた外人婿殿、
あおのりが歯にくっついているかどうか見るためと説明書きがあり
私たち老夫婦も納得。
食事を終えると婿殿は娘に鏡を「どうぞ」
昼食はこれにて、一件落着。
市内観光バスに乗り込むことになりました。
雨足は早くなりましたが、第一目的地で下車「東御門」へ。
御門の中に入れるはずだったのに
夫は、「何もない、門だけだ。」と言い張る。そうかな?
雨は降り続き、寒さも倍増、とても駿府城公園どころではありません。
タクシーを呼んで帰りましょうと・・・
その時、門の天井からガサゴトと音がしました。
早速、雨にもマケズ、風にもマケズ、宮沢賢治になり階段を上る。
靴はびしょびしょです。
でも、良かった英語版と日本語版のテープがなんと「ただ」です 。
4人は揃って耳にかけ、御門の中へ、ここでも私の財布は微笑む。
なるほどと聞きながら歩く・・・・・。つづく

2015年1月5日月曜日

聞かない、言わない時代。

戦後70年を迎える栃尾
油揚げの歴史からみたらわずか70年
私が生まれる10年前のこと
長岡の空が赤く染まり、爆弾投下の事実を知らない
私の祖母は「きれいにみえた」と
生前に語ったことがありました。
祖母にしたら、爆弾投下、ましてや広島、長崎の惨事を知るよしも
なかったことでしょう。
戦後15年、私は五才位、戦争記憶が始まります。
戦争について両親も祖母も語ることは
ほとんどありませんでした。
鉄瓶と火鉢が没収されたこと
人種差別があったこと
戦争の傷跡をひきずり、路上で托鉢していた人がいたこと
それ以上教えられることもなく、小学校へ進む。
誰も、戦争をしていた日本について話さない、聞かない。
中学校に進んでも
本当の歴史を学ぶ事はありませんでした。
年号とタイトルと人物の名前を暗記するのが勉強だったのですから
日本の教育は先進国とはほど遠いものだったのかもしれません。
もっとも、勉強が嫌いな私です、自分から調べたりする事はありえませんでした。
だから、私の記憶はあてになりません。
ただ、ついこの間、おきてはならない福島のメルトダウンも
私が子供だった戦後のように誰も話さない、聞かない時代が来ないことを願っています。
新しい年を迎え、やたら戦後70年の記事が目に入りました。
私なりの戦後をちょっと思い出してみました。
それからビスケット、キャラメル、こっぺぱんは最高のおやつの時代。
カレーライスにはまるちゃんのソーセージが入っていました。
練り菓子、粉菓子、中華饅頭の引き出物は豪華絢爛のおやつ。

漬物には、旨味成分?味の素がかけられていました。
ああ、私の記憶は食べ物ばかり・・・・・・。




2015年1月4日日曜日

認知症母は大女優

イタリアに住む娘夫婦と妹の家族で夕べは食事会でした。

年末は忙しくて母の相手はしていられませんでした。
母の認知症はその日、お天気に左右されることが多いようです。
比較的お天気の良い日は、気分も爽快になり
言葉も出てきます。
深々と雪の降る日や雨の日は
行動しません。一日布団の中で過ごします。
私の名前すら間違うことも度々あります。
さて?1年ぶりに会う孫の事は覚えているだろうかと
一抹の不安を抱きながら
「ばあちゃんだあれ?」と聞く。
「kだこて、そんげんことわかるこて」と
照れ笑いが顔に映し出されます。
続いて、
「オバアチャン、オメデトウゴザイマス」と外人婿殿は母に挨拶。
すると母は私に「なんてゆうてる?」と聞き返しました。
私「聞こえてるじゃない、ばあちゃん日本語だよ。あけましておめでとうございます」

母「あけましておめでとう」と苦笑いをしながらの挨拶。
外人が発した言葉だから外国語だと思ってしまったようです。
この会話を見ていると、母は認知症のふりをする大女優に思えてしまいました。

2015年1月2日金曜日

餃子の旅から6世紀の時代へ

初めての地「宇都宮」へ
雪の降る栃尾からの脱出を新しい家族4人で試みる。
宇都宮と言えば「餃子」です。
ネットで調べたり、友人にお聞きして
あるお店をめがけて突入する、キョロキョロしていると
親切な初老夫婦が「どこをさがしていますか」と優しく声をかけてくれる
なんて日本人は親切なのでしょうと宇都宮の人に感動!
その有名なお店の通りまで、道案内していただきました。
そして、いざいざ・・・・・・。
ガガーン・・・「本日は休業」の立て札。
親切な夫婦はそういこともありかと
ドンキの地下にもあることを事前に聞かせてくれていました。
そこに行くと、長蛇の列、並びました。
たくさんのお店の餃子をいただくことができるお店でした。
味はそれぞれの嗜好ですので・・・・・・。
ここで、早速想った事は「栃尾油揚げ14店の味」を味合うことが出来たら
栃尾の町おこしができるだろうにと・・・・・・。
さて次は二荒山神社へお参り、人人人人の山。
それからタクシーに乗り」大谷石資料館へ
wt私たちは、6世紀へタイムトラベル。
大正8年から昭和61年まで
大谷石を掘り出し巨大な地下空洞が出来上がったようです。
広い空洞に灯される光が大谷石の深みを写しだし
神秘の世界へ導いてくれました。
手で触れる石は石なのに冷たさがない。
むしろ、温かさを感じました。
トムハンクスの『ダ・ヴィンチ・コード』と重ねて謎の迷路に
入ったような気持ちになりました。
ここで、私の脳裏には数々の有名人のコンサートや映画撮影が浮かび上がり
楽しい空間と楽しい想像の世界がはじまりました。

2015年1月1日木曜日

1月1日の朝一番散歩

元旦の朝は、あんこもちと雑煮、なますに塩サケ。
4人の老父婦2組の朝食からはじまりました。
8年もこのスタイルは変わることありません。
それでも、今年は2階に娘夫婦が寝ていることは嬉しいことです。
朝食をすませ、ひとりで雪の中を歩きました。
だれも踏みしめていない雪道・・・・・・。
長くつに雪が入り、足が冷たくなりました。
こんな状況は何十年ぶりでしょうか
母がかんじきで踏みしめる道つけ・・・その後ろを歩く私。
雪の壁はまるでお城の城壁で、真っ白できれいです。
母は書が好きな人でした。
「愛し合い信じあい心豊かな日々」と短冊に書いてくれた
8年前。娘がドイツに行くときに書いてくれました。
同じものを私も一枚もらいました。
でも、今の母は何も覚えていません。
足跡のない雪道を歩くと、母の記憶が消えていくように
私の道もいつか消えるのかと思うと、少し哀しくなりメガネがくもりました。
いろいろな事を考えて歩いている帰り道・・・・・・。
あら?我が家を通り過ぎました。
新年早々のおおぼけに一人笑ってしまいました。

焦らずに、少し立ち止まって歩こうかな

還暦までは馬のごとく走って走って来ました。目の前の人参を追いかけて来ました。今年歩く道は二度と歩けないのですから、少しゆっくりとのんびりと立ち止まって歩きましょうか?少しは友達、家族、のことを考えて歩きましょう!生きている限りが嬉しいことであり感謝出来ることですから、苦しい時、悲しい時は、今日の今を思い出しましょう。