2015年6月30日火曜日

世界と栃尾の変わりゆく姿





自転車で走る。少し風が冷たい。
昔の街の面影も少なくシャッター通りになりつつある雁木通り。
栃尾のバス停に並ぶ学生たちのわきを通り過ぎる。

この子らも、高校を卒業したらこの街からでていくのだろうか
ふと、さみしさがこみあげてくる。

世界のニュースは
私には到底理解できないことばかり。
それどころか
今日をどう乗り越えるかが一番の問題である。
ちっぽけな考えかもしれないが
普通の人が生活する、生きていくには
ごく当たり前のことである。

だからこそ、日本を背負っている政治家さん、官僚さんは
広い心と優しいまなざしで、国の舵取りをしてほしい。
私たち普通の人は、なかなか世界を見渡せないのです。
私たち普通の人は一日一日少ないお給料でも
喜んでもらえる人のために必死に働いているのです。

それぞれの役割を一生懸命果たしながら
子育てをして
家族を守っているのです。

それぞれの人生の役割が
利権ばかりにとらわれない
社会になってほしいと自転車を走らせ
豆撰に到着しました。


2015年6月29日月曜日

さとしくんのお母さん

自転車で刈谷田川沿いを走る
金沢橋を過ぎるとさとしくんの家が見える
今日はさとしくんのお母さんに出会った
「毎日、この道を通るんですか?」
「ええ、雨が降らなければ・・・・・・。」
「あなたのお母さんは幸せですね、姉妹に見てもらって」
「いいえ、本当は施設にやってもいいとおもっているんです。
でも、妹ががんばっているから・・・・・・」
「夜出歩くわけでないし、ひとりでも食べることも、トイレに行くことできるのだから
おうちの方がいいわよ」
「そうですね」と私とさとしくんのお母さんの立ち話。
話の内容は認知症の母のこと。
「じゃあ、行ってきます」と
ふたたび、ペダルをこぐ。
こぎながら、
叔母が生きていたらさとしくんのお母さんと同じ年。
さとしくんのお母さんに出会うとなんだかうれしくなる。
叔母とおしゃべりしているような不思議な気持ちになる。

叔母の71歳の誕生日がもうすぐやってくる。

ゾウムシの想い出



いつものように夫は畑にでかけました。
私は、いつものように朝食をつくりはじめ、
しばらくすると娘が二階から降りてきました。
久しぶりにアメリカにいる娘の夫 と会話をしました。

今回は事情があって娘一人の帰国です。滞在期間は約2か月です。
義理の息子の元気な声をききホッとする義母の私。
しばらくすると、夫が「ゾウムシを捕まえてきたぞ」と
私のところへ飛んで戻ってきました。話す声はいつもの声ではありません。
娘を育てていた頃に戻った声です。
明るく、元気な声。
それには私たち親子の想い出がこのゾウムシにあったからです。
「私の飼っていたゾウムシは黒かったよ」と娘。

娘、小学校1年生の参観日に仕事で休めない私の代わりに夫は参観日にでかけました。
その日の授業参観に参加した父兄さんは数人、そして男性は夫一人だったそうです。
娘は先生の話などまったく聞かず
筆箱の中にひっそりと飼っていたゾウムシに夢中だったそうです。
それを見つけた先生は
「何回、言ってもわからんやつがいる」と娘に注意したそうです。
注意された娘の父は夫です。
夫の体裁のない、ばつの悪い気持ちはわかります。
ところが、そこでこの話は終わらなかったのです。
教室の授業から課外授業に移動し、写生に移ったのです。
そこでも、娘の画用紙は真っ白で、何も描かない。
筆箱から取り出した、ゾウムシと遊んでいたそうです。
それを見つけた先生はゾウムシを取り上げてしまったそうです。

その日の夕飯で夫の一撃
「二度と参観日にはいかない」と・・・・・・。

今思う、この時、娘はゾウムシの姿形を良く観察していたのです。
だから、娘は絵が上手なのかもしれません。

2015年6月27日土曜日

向かい風の中を走る

豆撰から家に帰る。
風が自転車をこぐ私に向かってくる。
自転車が揺れる。
いつもの倍以上の力で自転車をこぐ。
信号は赤。
止まったらこげなくなりそう。
スタンドを通り抜け、近道する。
刈谷田川沿いを
走らせる。
雨が顔に当たる。
何も考えず、ただただこぐ。
ももが痛かった。
座禅と一緒だ。頭の中は、考えることをやめている。

2015年6月25日木曜日

愛を積む人

北海道の大自然をバックに
自然の真ん中に建てられた小さな家。
その家を囲み積み上げられていく石塀。
物語が自然にとけこみ温かいものが頬をながれていく
心が優しくなる映画でした。
濃い顔の佐藤浩市さんの顔が穏やかに感じられる。
妻で夫をのこし、石塀から見上げる空に去ってしまう
悲しく、辛い、役を上品に演じる樋口可南子さん。
石を積み上げていく中で
関っていく若いふたりのあどけない、純な愛が
とてもさわやかな感じであった。
若い娘を演じる杉崎花さんの朗らかさもとても新鮮な感じだった。
死と直面する映画なのに
心が温まるのは、大自然と石塀と妻の夫へ残したお手紙かもしれない。
自分だったら、どうするのだろうかと
ふと想う。この映画を観る前の
私は、命の限りを知ったら、夫に娘に友人に、
わがまま放題のことをいい
そのわがままを叶えてほしいと願ったでしょう、
でも、この映画を観終わってみると、
私もなるべく樋口可南子さん演じる妻のように
生きて、最後を迎えられたらいいなと涙があふれました。





2015年6月23日火曜日

ホタルのプレゼント

三日月の明かりを頼りに、我が家から、栃尾大橋に向けて歩く。
道の右手は菅畑に通ずる小高い森。
森の上は、菅畑の田んぼが続いていて、川が通っている。
その川のあたりから森に通ってくるのだろうか。
ぽあん、ぽあーんと小さなあかりがついたり消えたりする。
森に見えるあかりは幻想的で美しい。
アメリカから一時帰国の娘は一足早く、このあかりを
探しに出かけた。その後を追いかける私たち夫婦。
あかりを追いかけて歩いていると……。
もしかしたらホタルは大きなプレゼントを
持ってきてくれたのではと思う。
娘と過ごす時間のプレゼントだ。
しばらくあかりを観賞して家に帰る。その途中、
道路に落ちていたあかりを
三日月が知らせる。
そっと、手のひらにのせる、明るくなったり、暗くなったりを繰り返す。
かわいそうに思い、田んぼの畦草に離そうとしたら
ずっこけて、ころんだ。
さっきまでのロマンチックな幻想的な気分まで転んでしまった。

2015年6月22日月曜日

届いた本に込められた想い

先週はある方から、一冊の本を手渡された。手渡されことには大きな意味がある。
私がどんな感想持つだろうかと彼は思ったに違いない。その想いが感じられたから、
いつものペースの倍以上の速さで読破した。そして簡単な感想のメールを送った。
そのお返事には、大きな想いが感じられた。
そして昨日の出来事。段ボールにぎっしり詰まった本が送られてきた。一冊一冊手にとってみる。どの本も古本とは思えない。送ってくれた人は、これらの本を大切に扱っていたことがわかる。本を読み、感性を磨き、時には本に助けを求め、本に励まされていたのではないかと感じられる。その大切な想いを送ってきたようだ。
この想いを感じながら、ゆっくりと読ませてもらうことにしよう。
彼ら2人が私に想いを伝えようとしている。
私は、仕事しかできない、ただのおばさんだ。ただのおばさんに
想いを届けてくれてありがとうと言いたい。
そして、彼らの想いは私の大切な想いに変わっていくであろう。

豆撰からのおしらせ

2015年6月18日木曜日

ちいさな訪問者




テレビから流れるいやなニュース
またかとテレビから目を離し
本を読む
あと少しで読み終わりそうだ
布団の中
そろそろ、朝食支度5時を時計が知らせる
起き上がると
夫が「たんぼの笹藪でみつけたアマガエルの写真があるぞ。
もうひとつ、忘れな草のところで遊んでいた鳥だ。名前がわからない。」
この小さな訪問者の写真をみて心が笑う。
夫は優しい人である。

2015年6月17日水曜日

風をきって走るとよみがえってきました。



自転車通勤にきり替えて2日目。
「いきはよいよい、かえりはこわい・・・・・。」
と言うのは、平から豆撰まで緩い下り坂。つまり帰りは上り坂となるわけです。
スイスイと風をきり走る私はジブリ映画の場面を思い浮かべ走りました。
40年ぶりの自転車運転にはちょっぴり怖さがありました。
何しろ、娘が高校生?いえ中学生の頃に買い与えたママチャリです。
部分部分に錆びがあり、こんな古い自転車見たことがありません。
それでも夫は、「自転車通勤ができるかどうかわからないのに
新しい自転車を買うのか?」と娘の次の持ち主だった夫の弁。
空気を入れブレーキ等を点検
何だか知らないけど、ひとつ部品がないからと
わざわざ部品を買って、修理してくれました。
自転車の乗り心地はまずまず。
さて、問題の帰りです。背中にリュックをかつぎ、
上りには腿を使う、ふだん動かしていない筋肉が目を覚ましました。
少し、辛かったけれど、なんとかベダルをこぎ、少しハンドルがゆらゆらしたけど
無事に自宅に帰還したわけです。
そして、今日はその2日目・・・
幼馴染の友達は子供用の自転車を乗り回していました。
私は自転車を買ってほしかったけど、父にねだることができませんでした。
自転車に乗っている友達がとても羨ましかったことを思い出しながら、
自転車をこいでいました。小学校4年生くらいになると、
叔母の自転車に乗れる背の高さになったのです。
「やったあ」と思いました。
その当時、道路は舗装されていません。もちろん練習場として夜こっそりと使った
越後交通さんの空き地も舗装されていません。
亡き父が自転車の後ろをおさえています。わたしは4年生とはいえ、
サドルにお尻を下ろすと、足は地面につきません。
何回も何回も転びました。転ぶと、石が膝にのめりこみ、
私の膝は赤チンで真っ赤。傷が治らないうちに、また転びます。
膝は膿を持ち、かさ蓋になり、その繰り返し。
父の手が自転車から離れて、私は一人で自転車に乗ることができた。
その時の喜びが風に乗ってくる・・・・・・。
歩くことも良いけど、自転車に乗ることも良いなあと思って豆撰にたどり着きました。




2015年6月15日月曜日

川の流れをみつめ歩く


松葉橋の手前で立ち止まる。

今日は川の水かさは少なかった。
橋げたを過ぎると石ころがごろごろしています。
少し大きめの石のところで、水の流れが二分されていました。
水かさも少ないのにと、しばらくその流れを見つめました。
左右に分かれ流れる水は自分の意思で流れているのだろうか
そんなことはありえません。
誰も、水に意志があるなんて思うはずないのです。
川の流れのままに流れているのだから・・・・・・。
それなのに、私は、あっちに行こうか、こっちに行こうと
橋げた を流れる前に、彼らは決めて流れていると
思い込んでしまいました。
川の流れのままになんて生きられない。
その石にぶつかったから、こっちに行ってみた。
それでも、だめだった、あっちへ行ってみようかと
みんな考えている、ただ思い通りにならないだけ・・・・・・。



 桑の木は大きな顔して縄張りを確保していました。



雑草に押され、川原のお花はちょっとかわいそうでした。
それぞれ頑張っているようです。






2015年6月14日日曜日

映画「ゆめはるか」の感想から

栃尾を舞台に2作「モノクロームの少女」「ゆめのかよいじ」の映画を撮られている
五藤利弘監督作品の最新作「ゆめはるか」を年齢層の違う
中学生、20代、30代、40代、50代の仲間と一緒に観賞しました。
それぞれの感想を聞いてみました。
若い年齢層には、ぐっとこみあげるものがあったそうです。
中学生の少女はお母さんと一緒に観てみてもらいました。
中学生の少女の感想は「病気でやりたいことができなくなった主人公と自分を重ねました。

そして映画の中のお母さんの気持ちが伝わってきました。」
この少女とお母さんは映画を観終わってから夜中の1時過ぎまで
母娘で語りあったそうです。

豆撰のスタッフの若いふたりの感想は
「五藤監督作品の中で、伝えたいことがすご良くわかり、一番良かった。ぐっぐっときました。」

その他、細かい点を指摘してきたスタッフもいました。
感想は様々でした。

私は3回目の観賞から、少し余裕をもって観る事が出来たようです。
ベテラン俳優と新人女優の違いや
背景、風景などに目がいきました。
この映画の「生きる、生きたいとの想い」が若い年齢に
届いたようです。

映画を観ることは
映画の中にある「こころ」の部分を
どう感じるかだと思いました。

豆撰からのお知らせ
栃尾の油揚げ早得情報!






2015年6月11日木曜日

歩くといい気持ち







久しぶりに歩きました。

橋を渡り、振り替えると、守門岳が見えました。
橋の向こうから、バイクの音、車の音、子供たちの足音。
刈谷田川の上を悠々と羽をひろげながら私にウィンクしていく鷺。
堤防には赤い花、ピンクの花、黄色の花
あら?イギリスに住んでおられるFB友達Nさんちのお花?
豆撰に近づくと
空が私に近づいてくる。

2015年6月10日水曜日

映画の好みとは




 
最近、観た映画のタイトルは「超高速参勤交代」と「舞妓はレディ」です。
共通点は、スーっと流れゆく、爽やかな風である。
笑と、いつも、スクリーンに登場する俳優の顔に、安心感あり、
ストーリが明確に伝わる。それはそれでいい。
美味しいものをちょっといただいたけど、まだ食べたいと思う
そんな感じの2作だった。
時代劇とミュージカルの違いを除いたら、シーソーに乗ってるような気分だ。

映画の好みとは、同世代で、友達であっても全く異なるようです。
映画だから楽しいがいいと思う友達もいれば、ちょっとシリアスだったり、
謎めいているのが好みだったりする友達もいます。
ほとんど、その好みの基準は、出演者によることが多い。
特に、私のように行き当たりばったりで観ているおばさんにとっては、
どなたの監督作品かは問題にしていません。
唯一ただひとり
長岡の五藤監督作品だけは必ず観るようにしています。


映画はひとりで、じっくりと観ることもいい。
また、何かの共通点がある人と観ると、
自分の好みでない映画も観ることができ、これもまたいい。
そして、それぞれの感想が聞けることも楽しみになります。
観る人の環境、年齢、性別によって
かなり感じ方が異なるのは当然です。
さて、金曜日に中学生から私までの年齢に差のある人たちが数人集まって、
五藤監督作品を観賞予定です。
映画を観ることも大切ですが、
今回のゲストは中学生の女の子です。
感性の強い女子が、どんな反応を示すのか?
私の一番気にかかる観賞会になりそうです。

豆撰からのおしらせ
上記写真は早得商品のご案内です。詳しくはこちら










2015年6月8日月曜日

久しぶりのお参り





実家の草取りに行ってきました。

久しぶりに仏壇に手をあわせたら
一枚の封筒が供えてありました。
それは、甥っ子のはじめてのお給料袋でした。
お給料袋を手にとったわたしは
甥っ子のやりたかった仕事について知っています。
なかなか決まらなくて大変でした。
それでも、あきらめなかった甥っ子の
信念を考えると、胸があつくなりました。
まだまだ、はじまったばかりの社会人です。
これからの方が大変な道のりです。
でも、この袋をみつめる亡き父が、きっと応援し、苦しい時も
悲しい時も、がんばれと励まし続けることでしょう。

ミヤコワスレの花もいろいろな想いを重ね、毎年咲きます。
甥っ子の想い、姪っ子の想い、そして娘の想いが叶いますように・・・・・。


2015年6月6日土曜日

ビューティフルマインドを観る

気になった映画は随分昔の映画でした。
この映画が公開された時代は、全く映画を鑑賞する余裕など私にはなかった。
朝早くから、夜遅くまで、働き通しだったからです。豆撰と言う会社に席を置き、
休むことを忘れたかのように、働いていました。
ひとり娘は友人の家で育ててもらったようなものです。
だから、有名な映画であることも知りませんでした。
さて、本題に、この映画は、実話をもとにつくられていました。
ミステリー的に映像が進みますが、この実話の主役である、数学者の病について、
観る前に知っていたので、ミステリーに進む内容の謎解きは私にとっては
すぐに妄想であり幻覚であるとわかり映画を見続けました。があまりの演出?運び方
の上手さに、時々どうなのかと思ったのも事実です。
病名は昔では精神分裂症の仲間だと思いながら観ました。
今ではこの呼び名はないそうです。
統合失調症 と呼ぶことの意味をはじめて知りました。
精神の病は、家族の心を繋ぎとめておくには、やや不可能に近いものがあるはずです。
この映画はその不可能を妻の心で、触れる手のあたたかさで、可能に導き、
感動を世界中に与えることができたのでしょう。
人は病でなくても、妄想や現実離れしたことを、いつも想像する生きものなのですから、
この映画自体が妄想で、推理であるような気がします。
そして、脚本と事実が異なろうと、映画の世界では、観る人に
感動を与えることができたなら、それは事実と異なろうと、脚本家、映画監督
俳優、映画に関わる人たちの想いが伝わるから映画は楽しいのかもしれません。



考えるちから、読み取る力、観る力


夕べは仲良し4人組の久しぶりの集りでした。
集まりの目的は「ぶどうのなみだ」のDVDを観る事です。
映画鑑賞前に、みんなでお友達の喫茶店で食事をしました。
久しぶりに4人が集ると、家族のことから政治のこと、英会話の話と
決められた、時間内にこうも、盛りたくさんの話題があるものだと
関心しながら殆ど、聞き役に徹していました。
そして、喫茶店から出る直前に
お友達のAさんから一枚のしおりを手渡されました。
「このしおりはもったいないから、いらないですよ、お店の女の子に言ったんだけど、袋の中に入っていたから持ってきたわ。」とのこと。
それを聞いてもう一人の友達Hさん
「私たちの顔が覚えられないのかしら?レジ打ちに一生懸命で余裕がなく、
言われたことを真面目にしているだけなんだよね」ともう一人のお友達の意見でした。
経営に携わるものとしては、とてもショックな話でした。
接客業でもある豆撰の仕事を
どういう風に説明したらいいのだろうかと頭を悩ませました。
60年も生きてきても解らないことは山のようにあります。
60年生きてきたから、接客の仕方については、相手を観て、相手の考えを読み取る力が
自然と身についたような気もします。
それをどう若い子に伝えられるかは大きな問題で、課題だと思いました。



上記写真は豆撰のしおり3部作
栃尾産栃尾の油揚げ について
栃尾の油揚げと商品案内
オリーブオイルで揚げた栃尾の油揚げについて



2015年6月4日木曜日

井上靖「 しろばんば」を読む

初めて出会う作家井上靖。
FBのお友達に勧められて読んでみました。
少し、後ずさり、果たして私に理解できるのだろうかと
不安な気持ちを持ちながら読みました。
読み始めると、私の生まれた時代よりも、昔に戻りますが、
馬車が走っていて、土蔵のある家、まるで明治生まれの祖母が語って聞かせていた時代のことです。そして、おぬい婆さんは、私の祖母であり、主人公は私の幼少時代のようで、感情移入してしまいました。特に母親とおぬい婆さんに関する洪作の気持ちは、とてもよく理解できます。なぜなら、私自身が祖母に溺愛され中学になるまで、祖母と一緒の部屋で過ごしたからです。
同じ屋根の下に住んでいても、母は遠い存在だったのです。
母親に素直に恋しいといえない複雑な想いは、私の心にしみわたり、自分を振り返っていました。
私の祖母はいつも、私が生まれる前に死んだ自分の夫について、道楽者で、芸者通いばかりしている、駄目亭主だったと聞かされていました。ところが、父の話によると、祖父は町会議員をし、村のために貢献していたと聞かされたことがあります。
この時代を生きた長は勝手です。
そして、洪作の時代の女性は哀しい人生を我慢して生きてきたのだろうと、時々夫婦ゲンカをして、自分を主張できる私はいい時代に生まれたものです。洪作の多感な少年時代は誰にも似たような背景があるのではないでしょうか、立場や環境は異なっても、思春期に感じる想いは生きていく
それぞれ誰もが通る道であると、感じながら読み進めました。
人生を少し長く経験してから、読む、「しろばんば」は懐かしくもあり、哀愁がただよう本でした。

違うところは、おぬい婆さんと洪作は血がつながっていないことです。
この部分はこの小説の主題かもしれないと感じながら読み終えました。

2015年6月2日火曜日

踊る大捜査線の青島になった気分

今日の会議はすごい緊張。
「大豆主産地訪問」と式次第に書かれていました。
出席者名簿を見ると
約30名、国と県のお役人がずらり並ぶ
その中にJA全農の方々
そして流通業者、加工業です。
加工業者も新潟の大物会社の方々です。
最初の資料説明は大豆の需給と価格の動向
大豆の単収低下原因と単収向上対策、新品種の開発普及などの説明
グラフと専門用語の連発説明は私にはなかなか難しいことばかり・・・・・・。
ただ、わかっていることは、大豆の止まらない高騰です。
現場の生の声をきかせてほしいとの趣旨ですから
小さな心臓は大きな音をたてていましたが
昔の職業柄、間違っても、あがっても大きな声は出ます。
人口1万9千人の過疎地域で一生懸命「あぶらげ」を作っています。
各店舗それぞれが小さな家内工業です。地域の活性化のため微力ながら頑張っているのです。
今年の大豆の高騰はとても苦しいのです。
大きなところばかりに補助をするのでなく 、小さなわたしたちを切り捨てないでください。
・・・・・・と現場の声を大にして訴えてきました。
帰ってきて、社長はじめスタッフに
まるで私は織田裕二演じる青島俊作気分で興奮気味に 報告しました。



2015年6月1日月曜日

朝から書くことがいっぱい










昨日からやり始めた、英会話。

アメリカに住む娘と婿殿と日本語を使わずに会話を試みる。
何回も発音を直される。
今日の会話は
「英語教室に月1回か週1回行った方がいいかしら」
からはじまった・・・・・・。
そのうち「疲れた」を英語らしい単語で言ったら
それも指摘された。

次に朝食です。席に着くと
隣の畑に見えるは「セキレイ」の親子。
はじめは種類の違う鳥が2羽いるのかと思ってながめていたら
一羽のセキレイは虫をみつけては、もう一羽の嘴に運ぶのです。
親も子供も大きくって、親子とは思えませんでした。
このしぐさを微笑ましいまなざしでみつめた
ほのぼの家族でした。

さて、歩いて豆撰へ
途中。高校生が立ちすくんでいます。
どう したのかと目をやると
一匹の子猫、まだ目が開いていないのです。
誰かに捨てられたのでしょうか
高校生の女の子に
「目があいていないから、育てられないかもね、学校に遅れるから
仕方ないわ、だれかに拾われることを願いましょう」と声をかけて
私もその子猫を置き去りにしました。懺悔。

次にいつもの道に、はじめて見る2歳くらいの男の子が
玄関先に座ってニコニコしています。
「おはよう」と声をかけると
「どこ行くの?」私は進行方向を指さし「あっち」
すると「何しにいくの?」
私は「お仕事」という。
まるで、今読んでいる本の中の「洪ちゃん」が現れたようでした。