2018年2月20日火曜日

白鯨

1956年制作「白鯨」
グレゴリー・ペック主演
なんと私は2歳の時の作品でした。

鯨といえば、缶ずめでした。赤身に糸コンが入っていて柔らかくて美味しいものでした。
夏になると脂身を夏バテ予防にユウゴウ汁にしました。
捕鯨に対する規約のなかった時代ですが、鯨は高級なものでした。
物流網が今のようになかったせいでしょう。
小学校では哺乳類の中で一番大きな動物と習いました。
陸では像、海では鯨と勉強し、その時海を見たことがなかったので
とても感激したことを覚えています。海を初めて見た時、小学2年だったと思います。
水平線を見つめるとそこには大きな鯨が見えました。大きな船と行ったことのない世界を想像し、夢を膨らませたものです。
それから近年では、世界中で鯨は食べない人間の多いことを知りました。
我が家の義理息子は絶対に食しませんから。
こうした現代の社会情勢を考えると、この作品は現代では到底制作できないように
思います。

さて、本題ですが
ローマの休日のイメージが強すぎ、主演のグレゴリー・ペックを見つけ出すのに一苦労しました。主役と考えられる人物が3人いたからです。髭ずらの船長は魂を奪われた人物。
一等船乗りは細い、もちろん解説者である青年は若すぎる。
やっぱり船長と確信しながら終盤を迎えました。
正義と神、呪いと魂。いかなる時も船長に従う鉄則と間違っていると思いながらも、
白鯨に奪われてしまう魂。
神がかり的な、そしてやるせない気持ちが、どんどん大きくなってしまう映画でした。それでも、この作品を映画館で観たら素晴らしい映像だったのではと思うほど、海に浮かぶ船の帆は美しい画像でした。
原作長編小説を読む機会があったとしてもきっと途中で放棄したであろう、映画だから最後までドキドキしながら見ることができたと思う。映画の力は神がかりの世界かもしれない。そして、人間には運命が定められているような気がした。

2018年2月18日日曜日

私の老後


我が家の100歳万歳のはずだった義母の日増しに衰えていく
様を目のあたりにすると
考えてしまいます。
昨年から義父は介護老人ホームへ入所。
ですから、我が家は義母と私達夫婦3人とプラス1匹の猫で暮らしています。
歳の順番からしたら、私が一番最後に残ってしまいます。
自立していない寂しがり屋の私にとっては
とても切ない問題となります。
認知症になる前に私がひとりになったらどうしてほしいか
今のうちに娘に伝えておかなければならないと真剣に思いました。
それはただ一つです。
即、老人ホームへ入所させてもらうことです。

もし、その時私が元気ならば、老人ホームで絵本を読みます。
きっと老人たちは懐かしく思ってくれるはず。
それから、折り紙をしようかな?
みんなで集まって、いっぱいいっぱい折鶴を折りましょう。
老人ホームで、私のできることをすればいい。
ブログもこの手が動いているかぎりは続けよう。
もし認知症になったら、ホームのみなさんにお願いしましょう。
あれこれ考えていると・・・・・・。

待て待て、待て、その前に
船旅で世界一周しなければならないのです。
この夢をかなえるために
私は仕事を続けているのですから。

まだ夜が明けない4時にこんなことを考えている私でした。

2018年2月16日金曜日

映画の種類 はゆったりと。

ゆったりと流れる風景の中
老人がピストルで老犬を撃つ
オルガンを弾き、亡き妻の写真を鞄に詰め込む。
古い時計が何を示すのだろうか
「春にして君を想う」1991年作品。アイスランド映画を観る。
この映画が大好きですと渡されたDVD
観ているうちに、どことなく、栃尾で撮影された「モノクロームの少女」を
思わせる。
俳優たちの皺はとても深い。
なんとなく物語が進むにつれて、遠くないであろう私の未来を想像してしまう。
私の老後はどこにあるのだろうか?
ところがこの映画はどうも姥捨山的な老後を描いているわけではないようだ。
幼馴染と幼少時代過ごした故郷に想うことだった。
故郷に残された田園風景とあたり一面の花畑は
新潟の山「平標」を連想させる。
はじめてこの山を登った時、もうこれ以上歩けないと思ったけど、足元から顔をあげた瞬間に白い花があたり一面に咲いていた。
息もできないほど呼吸は乱れていたのに、サッサと足が進む、白い花の群生「イチゲ」を見て、疲れが吹っ飛んでしまった、あの日の感情と似ていたのではないだろうか。
老人と幼馴染は故郷への想いを終焉の地として選ぶほど、そこには美しい風景があったのではないだろうか。
それとも故郷への想いの方が強いのだろうか。
この辺りがなかなか掴めなかった。
老人が消えてしまうラストにはど言う想いがあったのだろうか。
ゆっくりな映像と物語の中に入り込めない自分がもどかしかった。

2018年2月15日木曜日

3週間ぶりに母を見舞うしあわせ

母の入院先病棟でインフルエンザ患者が出てしまった。
そのために、3週間の面会謝絶でした。
そして、昨日ようやく母に会えました。
母は私たち姉妹のこと覚えているだろうかと
頭の中は、母に会える嬉しさと不安でいっぱいになっていました。
私より、一足早く、母の部屋の入り口にたどり着いた妹でしたが、
勢いよく後ずさりしきて
こおばった顔から「どうしたんだろうか」と言う。
私は、少しの不安が大きな不安になって病室を覗くと
母のベッドだけカーテンが回されていました。
即座に、病室に入ることはやめ、看護師さんを探し ました。
すると、熱が高かったので、インフルエンザを警戒して隔離したとのこと。
でも、今は熱も下がり、大丈夫ですと話してくれました。

それから私たちは、母に呼びかけました。
何回も何回も呼びかけても、私たちが誰だったのか思い出せないようでした。
もしかして、いえきっとそうであろうと予想はしていても
やはり、切なく悲しくなりました。
もちろん話すことはできません。

3週間という長い期間は
母のかすかな記憶を奪い、利き手の機能も奪ったようです。

無理のない程度に母を呼び続け、母の手を動かします。
すると、少し母は覚醒したようです。
口を開こうとします。手を少しだけ動かします。
このたわいもない作業に3人とも疲れてしまって、それからしばらく
母を囲み眠ってしまいました。

目が覚めた時
何と表現したらいいのでしょうか
この眠りに「やすらぎ」のようなここちよさを感じたのです。
オーバーに言えば「しあわせ」でした。



2018年2月14日水曜日

義母と孫と実母と義父

時計がなくなった。さいふがない。
誰かが部屋に入る。
という。

ケタケタと笑う。
お座りができる。
絵本を見る。

2週間ぶりに会える。
インフルエンザのため面会禁止だった。
大きな美味しそうなイチゴを買ってみた。

車椅子で移動する。
楽しみは歌しかないだろう
施設の中は暖かく親切な人ばかりだけれど

みんな手がかかる
大きくなるにも
終焉を迎えるにも


2018年2月13日火曜日

午後の遺言状と私

お借りした新藤兼人作品2作目は「午後の遺言状」を選ぶ。
この作品の乙羽信子は「原爆の子」の時代からだいぶ長い時が過ぎている。
平成7年と言えば私が40歳頃の作品ということになる。
そのころ、雑誌だったのだろうか。
ガンに冒されていて、遺作だっと覚えている。杉村春子にとっても確か遺作だったような気がする。その前に、新藤兼人監督が乙信子と結婚についての記事も何故か鮮明に覚えていた。多分私の中で、不倫とは最悪な妻に対する冒とくと思っていたはずなのだが、その記事は新藤兼人の妻が亡くなってからの結婚だったから、私の中で、いえ私がどう思うと全く関係ないことなのですが、私が勝手にあのふたりをおそれおおくも許したということなのです。映画や本を読んでいたわけではないのに、想像をふくらませて、胸にしまっておいた私だったのです。
そんなわけで、2作目は「午後の遺言状」を観ることにしました。
この映画の評価はかなり高かったようですが、今観てみるとこの作品は
丁度私くらいか、それ以上の年配にしか理解できないような気がします。
若い時のエネルギーは無限大です。
年劣るとエネルギーは無限大とは言えなくなります。100歳まで現役を通した新藤兼人は
巨人です。いえ、化け物かもしれません。
化け物は長く生きるので、経験がいっぱいになる。その経験を生かし、さらなる経験を生むのではないだろうか。
ひょうひょうと描かれた物語にはいやらしさがない。これまた、監督と女優の関係を
物語っているのだろう。

また、老いをどう生きるか、私にとっても目前の課題である。

私の休日は友達が届けてくれたDVDを観ながら、ちょっと考える老後です。
まずは何をするべきか?何がしたいのか?

映画と本を読む暇のなかった私です。仕事を離れたら、映画三昧、本三昧になるのだろうか、旅行も行きたいし、と年金計算をする。
まだまだ、人生途中である。遺言状は未来の話だと思う。それでも、ただひとつ願うとすれば、乙羽信子さんのように生き絶えたいものだ。

2018年2月12日月曜日

栃尾の油揚げ作り体験学習



 

栃尾の油揚げ作り体験学習と栃尾巡りに
広島と水戸の方たちをお迎えいたしました。
広島の方は大きな栃尾の油揚げを2枚ペロリと食べてくださりました。
こんなに嬉しいことはありません。
そして、いよいよ本番です。作り方の説明は社長が出張のため
若いスタッフが頑張っていました。はたしてうまくいったのか否か?
これも経験です。スタッフの体験学習でしょうか?

低温から高温に油揚げの生地を移すタイミングによって、栃尾の油揚げの厚みが変わってしまいます。油揚げの顔をじっくり見ながら、ひっくり返すことは職人の技です。
約20分かかる揚げ作業から、最終ラウンドは串に刺すこと。
一枚一枚丁寧に、そして素早く一串に10枚さします。
油揚げの重みは、片手で支えるにはかなりのコツが必要です。
熟練のスタッフは10秒で串に刺していきます。
この過程の体験は、お客様にとって興味深々となります。
3人のお客様はご満足そうな、そして神妙な顔つきで体験なさっていたようです。

その後、裸押し合いの場所巣守り神社に詣で、
いつもは入れない機神様を運よく見学できました。
実は私も初めの体験?でした。生きているうちに見ることができて、お客様以上に興奮しました。秋葉神社と同じく雲蝶作です。さて夜の部を待つこと1時間。
そして、いよいよです。
上杉謙信公が1570年代、先勝や五穀豊穣などを願ったのが起源といわれております。
神社拝殿に重さ20キロの巨大なロウソクがふんどし姿の男衆によって持ち込まれ
「福札」を求めて激しく押し合う様は、熱気があふれていました。

2日目は賽の神見学でした。

雪の上に竹や藁でほこらを作り、中にご神体を祀る。大勢の住民が、古いしめ縄やお守りなどを持ってお参りに来て、新しいお守りのお札をもらって帰る。
そして豊作祈願や無病息災、家内安全を願い、目隠しされた人がほこらの周りを3回まわってほこらに火をつけます。 賽の神は目が見えなかったから、火をつける人は目隠しをするようです。
今年一年元気に過ごせますように…と、燃えた後にスルメを焼き子供たちも大人もほおばっています。

栃尾人のように栃尾を知り尽くされている五藤利弘映画監督もご一緒していただき、楽しい二日間の栃尾体験を無事終えることができました。

栃尾体験ご希望の方は是非是非お待ちしております。

怒りです。みなさんみてください。原爆の子。

 昭和27年の映画
新藤兼人監督、主演乙羽信子
「原爆の子」
妹が新藤兼人作品を一度も見ていなかったと知って
お友達から届いたDVDです。妹は仙台に出張の為、一足早く観させてもらいました。
白黒です。
えくぼの可愛い乙羽信子の帽子と半袖姿に初々しさと清々しさを感じたはじまり 。
でも、映画は重くて、切なくて、つらい。

物乞いをしながら生き残り、それを恥じる老人
孫のために老人は死を選ぶ
孫を引き取る先生
原爆の被害で死を覚悟しながらベッドに横たわる少女が毎日祈る姿に
憤りのない怒りがこみ上げてくる。

二度と原爆が使われてはいけない。と必死に描いている。この監督の想いが
戦争を知らない私に伝わる。
被爆国日本が世界に訴えなければならないことがこの映画にいっぱいいっぱい
描かれている。

たくさんの戦争映画の中で、一番怒りを感じたこの映画。
何故だろうかと思った。
それは、今までは戦争は過去の歴史だと思っていたからです。
オバマ大統領が広島に来て演説したあの日
私は心から信じた。
原爆のない未来がくると。
ところが今はそう思わない、思えない自分がここにいるのです。
悲しくて、切なくて、苦しくって
戦争のない世界、二度と戦争をしない日本であるべきだと思うのです。
重くて辛い映画です。でも戦争を知らない私達こそ観るべき映画だと思いました。
どうかこの映画を観て下さい。
それが私のこの映画に対する感想です。みなさん観て下さい。


2018年2月8日木曜日

昭和56年の大雪から

昭和56年以来の大雪とニュースは言い続けています。
大きなお腹で保育園から自宅まで歩いたあの年です。
よく覚えています。娘が生まれた年ですから。
毎日、毎日降り続く雪、雪、雪・・・・・・。
保育園は小高い丘の上にあります。お寺に隣接していました。
とても広い園庭です。私の記憶では旧栃尾市の中で一番広かった。
門には大きな石塔が建ち、その門から保育園の玄関まではかなりの距離でした。
また、園庭を横切りお寺の脇道と四方八方から園児の通う道がありました。
大きなお腹を抱え、かんじきを付けて雪を踏みつけている自分を
思いだし、なんと雪国の女性は強かったのだろうと
可笑しくなります。

昭和56年の3月に娘を出産しました。
春の陽射しが差し込む病室から 眺める西谷川には雪がいっぱいで、
こっちの岸から市役所側の岸まで
わたしはまるでこどものように、雪の山を飛び跳ねて、夢想しました。
我が子を抱きしめた、あの年は
私が生きてきた63年間で一番幸せだったと振り返っています。

そして、今年も、西谷川は雪で埋め尽くされています。




2018年2月6日火曜日

縁で「元気をもらいました」

昨日から降り続いている雪の量は50センチは超えています。
夫は、まだ暗いうちに起きて除雪です。

朝食を終えると
歩いての出勤を覚悟して
リュックに荷物を入れ、いつもより長い長靴を準備。
七時過ぎに家を出ました。
大通りは除雪されているものの、横道は足跡もなく、かすかに
輪だちが見えるか見えないか。
刈谷田川沿いはホワイトアウトの世界です。
川に雪を運ぶ老人を見つけました。
今は東京でお仕事をしていて、栃尾に帰ってくると豆撰に
来てくれるT君のご両親です。
(40年前は私の勤務先の園児でした)
他の人に挨拶するよりも
大きな声で「おはようございます」と声をかけます。
すると、完全武装の私をだれかわからなかったのでしょう
小さな声でT君のお父さんは「お・は・ようございます」
私は「礼子ですよ」とめがねをはずしました。
すると「可愛い傘に元気をもらいました」とT君のお母さんが
遠くから微笑んでくれました。
私も元気をいただいて、豆撰に向かいます。
彼は足が速く、いつもリレーの選手だったこと、泣き虫だったこと
いろいろなことが頭に浮かんできて、楽しい通勤となりました。
縁っていいなあ・・・・・。







2018年2月4日日曜日

ほうれん草とバター

義母の買ってきたほうれん草は
あまり新鮮ではなかった。早めの調理必要。
そこで今朝、簡単にバター炒めにする。
作りながら、思い出したことは
小学校5年生の調理実習でした。
エプロンはひらひらもついている可愛いものを母は縫ってくれました。
ところが三角巾は
父も母もてぬぐいにしろというのです。
あんまり私が嫌がるので、根負けした母は白い布を買ってきて縫ってくれました。

わくわくドキドキのはじめての調理実習です。
ほうれん草は、よく食べていました。でも、きっとおひたしだったと
記憶しています。
この日の調理実習では「バター」を使いました。

バターを使うなんて、まるで西洋料理ではないかと思いました。
私の友達はこのようにバターを使った料理はよく食べているようでした。
だから、わたしは「はじめて」の経験をはじめてとは顔に決して出しませんでした。
そして、その味付けが、なんと塩と胡椒です。
塩、砂糖、鰹節、昆布は知っています。そしてその頃、化学調味料とは知らず
魔法の調味料だった味の素も知っていました。
知らなかったのは、コショウでした。
先生は「赤い根っこに栄養があります。固い茎の方を先に入れて、葉っぱの方は
後に入れます」と教えてくれました。
出来上がった料理名は「ほうれん草ソテー」この名前、「ソテー」も
ハイカラな名前です。これがレストランで食べる料理なのかと思ったものです。
そして、コショウは摩訶不思議な調味料だと思いました。
今では、塩とコショウが一番シンプルで大好きな味付けです。
「ほうれん草ソテー」が西洋料理だったのです。

半世紀は長いのでしょうか?短いのでしょうか?
終戦から10年過ぎて生まれた私の食生活は随分豊かになりました。
豊過ぎて「もったいない」ことを忘れています。
今日の「ほうれん草ソテー」はいつもと違った懐かしい味になりました。





2018年2月3日土曜日

お父さん鬼に泣き続けた娘





節分の朝、お天気です。青い空。

節分に晴れると、今年は雪も終わりに近づくと信じているおばさんです。
ところが気象情報によると、寒さは厳しく、大きな寒波が近づいているらしい。
どっちが本当かな?と思いながら
今日の定食は「油揚げロール巻き恵方巻き」に、そして恵方巻きお買い上げの方に
豆まき用の大豆をプレゼントすることにしました。
さて、お店の宣伝はここまでにして
節分と言えば鬼登場です。
保育園時代・・・・・・
保育園では本物そっくりの鬼が
金棒をふりあげ、園児の待つお遊戯室に 登場します。
「泣き虫はいないか、給食を残す子はいないか、お昼寝をしない子は
どこだと」叫びます。
お遊戯室で楽しく踊っていた子供たちは
「ふくわうち、おにはそと」と豆を鬼に向かって投げることを
前もって練習しておいたはずなのに、ビビッてしまいます。
一斉に保育士のところに集まり、泣き叫び、抱きついてきます。
懇願です。涙ぽろぽろ・・・「なかない、たべる、おひるねする」と泣きながらの
返答も一生懸命でした。
この行事ほど子供たちの信頼を100%感じ、保育士として幸せ気分を味合うことはなかったかもしれません。
そして、私はその鬼の被り物を自宅にもって帰ったある日。
にぎやかな家族団らんの夕食を終え
玄関からお父さん鬼の登場です。

娘は3歳くらいだったと思います。鬼の顔を一瞬見るなり、もう眼は開きません。
泣き叫ぶ声も声にならず、息が止まるような驚きようでした。
大粒の涙が洗面器いっぱいになるほど流れました。
お父さんは娘がかわいそうになり、すぐに
お面をとり「お父さんだよ」と優しく声をかけるけれど
お面をとった素顔のお父さんを見ても
しばらく泣き続けていました。

あれから34年が過ぎてしまいました。1年はあっという間に過ぎてしまいます。
そして、34年も本当に短く感じる今日この頃です。




2018年2月1日木曜日

如月…の朝。

習慣は実に恐ろしいものです。
4時になると体内時計が稼働します。
寒いのでもっと寝ていたいのです。
寒さの中でできることは
携帯いじり他ありません。本を読むことも、テレビを見ることも

となりで、すやすや眠っている夫を起こさないように気を使っている
古女房です。それなのに
「今、何時だと思っているんだ?」と怪訝な声
さっきまでは4時は早いと思っていた古女房の返事は
「もう、4時過ぎてるよ」
そこから始まった古狸と古女房の会話。
「2月はなんていうんだっけ?如月だよね」
「一月は?」「お正月だよ」なんて会話が始まるのです。睦月、如月、弥生・・・・・
霜月、師走と携帯でカンニング。
そのうち英語は・・・・・・
「これってさ、中学一年で覚えたことだよね。脳の中身はどんどん減るのにさ
私のお腹だけは急ピッチで増えるんだよね」

ダイエットの話は月に一度は聞きます。「明日からダイエットします」と
古女房には実行力がないのです。
もう、明日は休日だからランチはどこにするかな、
なんて考えているのですから・・・・・・。