2016年6月30日木曜日

別れのアイコンタクト





私と叔母がコンビを組みます。母と妹がコンビを組みます。

父の付添いのためでした。
叔母も母も耳がやや遠く、役に立たないからと
父が指示したのです。

大きな体の父は痩せ衰え、ひと回りも、もふた回りも
小さくなったようでした。
腕に、一滴ずつ落ちる水は、命の水から痛みを取り除く水に替わり、
死への道に近づくいていくのです。

声も出なせない病人のそばで、食事をとることは、心苦しく、
食堂に行こうとすると、
「ここで食べてくれ」と弱々しい声で、そばにいてくれと哀願するのです。
父のベットの脇にゴザを敷き一枚の薄っぺらな敷き布団に
私と叔母は、重なるように体をまるめ、息をひそめ眠るのです。
夜中に何回も父は私を起こしました。私の手首に紐をつけ、
それを父が引っ張るのです。
唇に水を湿らせ、象の足のようにパンパンと膨れ上がった足を摩ります。
仕事を終えてからの、夜の看病は、とてもつらく、
限界に近づいていることを感じていました。
眠らないままに夜明けを迎えました。
そして、母と妹が付き添い交替のため、病室に入って来ました。
7月2日の朝、もう10年前になります。

ベットから数歩離れ、私が病室のドアに手をかけながら、
ベットに横たわる父に
「また明日の朝、来るからね」と声をかけると
父の目が私に何かを伝えたくて、瞬きもせずに私を見つめたあの日。
あの一瞬が、私と父との別れの挨拶だった。
目と目が合う
「早くきておくれ…」と訴える目は残っている全ての力を集中させ
私とアイコンタクトをとるのでした。

その日の夕方、妹から電話がきました。
父の様子が変だから、すぐに病院へ来てほしいと。
仕事をやめ、ひとりで車を運転、運命の日を受け止めていたはずなのに
とめどなくなく溢れる涙、それからは、お葬式を迎えるまで私は決して泣かなかった。

今、思い出すと、脳死だったと思います。
息はあらく、ゴーと響いたり、とても静かになったりしています。
心臓はまだ動いているのです。
でも、呼んでも返事はなく、半分開いた目は閉じることがないのです。
この状態のまま、医師は、ただ息の終わる、その瞬間を待っているのです。
母、私と妹は、ベットの脇の小さな椅子に順番に腰掛け、見守るのです。
父の息が止まるその瞬間を逃さないようにするために。
連日の疲れがたまっている私と妹は、うとうと眠りに入ってしまいました。
目が覚めると、半開きの目が閉じられていました。
寄り添っていた母に聞くと、母が閉じさせたと言いました。
喧嘩の絶えない両親でしたが、最期の後始末をしたのは母でした。
息が絶えた瞬間に、妹の号泣が病室に響き渡りました。

永遠の眠りは体を休めさせ、極楽浄土の道へ
その橋の向こうで手招きしているのは、おばばと姉ちゃん。
ゆっくりと対岸に向って歩く父の姿・・・・・・。

認知症の母は覚えているのかいないのか
仏壇の前に座ると、手を合わせます。
この人はだあれと慰霊写真を指す私。
母は、ゆっくりと思い出すかのように
「父ちゃんだろう」と小さな声で言います。



2016年6月27日月曜日

経済の話からいつの間にか鼻紙の話に・・・・・・。


イギリス問題から参議院選について、若いスタッフと話しているうちに
どうしてかわかりませんが、鼻紙問題にたどり着いてしまいました。

私 「こんなこと話したら、きっとHちゃんは、汚い!って思うだろうけど、家のご老人は、
使用済のちり紙を自分の座布団の下に置いておくのよ。
私は朝掃除する時、それを、つまんで捨てるわけ、まあHちゃんにとっては信じがたい話だけどさ」
すると、24歳のHちゃんの口から出た言葉は
「知っています。家のじいちゃん、ポケットにいつも入れておきます。言っていいのか、どうか迷ってしまいました」
丁度、討論に参加していた妹と私は顔を見合わせ、
転げるように笑いました。

そして妹の一言
「同居っていいことだね、もったいないことはお年寄りがいないとわからないものね」でした。



2016年6月25日土曜日

久しぶりのデート









今日は久しぶりに、鎌倉か東京にぶらり日帰り旅行を
しようと、私一人で勝手に計画していました。
今朝になって夫に話したら
「雨だぞ」の一言で、私の希望は無残にも崩れてしまいました。
仕方ないから、お掃除をしていると、栃尾は晴れ模様になり
近間で、どこかいいところはないかなと考え、
長岡の丘陵公園に行くことに決定。

バラ園を廻り、紫陽花広場を登りました。
その先の展望台を目指して30分歩きました。
山道を歩く人は私と夫だけです。
誰もいない展望台はチョット寂しい感じです。
帰りは無料バスを利用させていただき、
ダイエット目標も、これまた無残にも崩れてしまいました。
それから、お昼をいただくことに、私はピザが食べたかったのですが
夫はソースカツが良いと、
またまた、私の希望は無残にも崩れ、カツに変わってしまいました。
カツはダイエット中の私には、チョット、ルール違反ですが仕方ありません。
以外と私は夫に合わせる、大和撫子でした。

それからもう一度バスに乗って、古民家と山野草の 公園へ。
花から花へと舞うヒョウモンやキアゲハの群れに心が落ち着きます。
初めて出会った、小さな黄色の「アサザ」、「カタシログサ」は
「半夏生」とも言うそうです。夫が教えてくれました。

いつもですと、認知症の実母が一緒ですが、今日は夫とふたりで
ちょっと嬉しい気分でした。
でも帰り際に車椅子の貸し出しを見つけたので
次回は母も連れてくることにしました。

「ねえ、お父さん、私がボケたら、今日の思い出も、
みんな忘れちゃうんだよね」 と私。
「それも仕方ないさ」と夫。





2016年6月23日木曜日

母をつれてモネ展を見に行く



新潟県立近代美術館にて6月4日から開催かれている「モネ展」へ
行ってきました。
モネの絵が好きな私。
と言ってもイメージ画像は、睡蓮の絵です。

若き日、モネが描いた肖像画やコレクションの数々を
私は解説のヘッドホンを付け、右手で母の手をとり
ゆっくりと歩きながら……。

睡蓮と花・・・ジヴェルニーの庭
覚えのある絵の数々、ちょっと嬉しい気分!
中間色の柔らかい色使いです。
絵を観ているはずなのに、私の頭の中は
『最近は絵を描いていないようだけど、陶芸にはまっているから
絵はお預けかしら、絵を描くのが好きだったし、上手だったのに』
とモネの絵を観ながら娘のことを想う親バカでした。
ヘッドホンから流れる説明によると
モネの庭づくりは相当のこだわりがあり、
その日、その時間で変わる光と影を表現し何枚も描いていたようです。
我が家では、春から夏に向かって次から次へと咲く花たちの手入れをするのは夫です。
モネは自分の絵のために庭を作る、我が家の庭は私のために、夫が作る。

『我が家にもモネに似た方いたわね』と前を歩いている夫に
テレパシーを送って、日ごろの感謝を伝えました。

晩年になると、モネは白内障を患い色彩感覚がかなり違ってきました。

それでも、一番最後に描いた作品グリーンの絵「木」は
私の好きなモネの絵でした。

一回りすると、母が「もう、かえろう」とつぶやきました。
母のことを忘れていたわけではありませんが
タイミングは良かった一言です。
「そうね、お昼にしようか」とモネ展を後にしました。

2016年6月21日火曜日

もう一度振り返って「ゆめのかよいじ」

2013年作品「ゆめのかよいじ」
この作品に対しての評価を偶然 みつけました。
そして、ふと立ち止まって考えてみました。
この作品は誰のものでしょうか?

映画を観る方の性別、年齢、環境、もっと細かく分類したら、
劇場に足を運ぶその時の気持ちにもよって感想は違ってきます。

娘から強い批判を受けることも多々あります。
特に、ネタバレはしてはいけない。ルール違反だと一喝されて
私はしょぼくれてしまったこともありました。
確かに、観ていない方にとってのネタバレは慎む必要ありと、反省しています。
つまり、どの映画も劇場の椅子に座った人がその映画を観終わるまでは
観る人の「映画」になるのではないでしょうか?
酷評もあり、べた褒めもあります。
心無い酷評に唖然とすることもあります。
それでも、その人が感じたことはその人の自由です。

さて、では私の中のこの映画はどんな映画か
ちょっと、おしゃべりしてもいいでしょうか?

撮影場所は私の生まれ、育った栃尾です。
その風景描写は、私が幼い頃から60年以上駆け回った
諏訪様の階段、雁木通り、山間の里栃尾などがたくさん描かれています。
どの風景も私にとって大切な想い出の場所です。

刈谷田川(金沢あたり) での石積みは栃尾の伝承物語になっています。
親より先にあの世に逝ってしまった子供たちの替りに
石を積む伝統行事は栃尾人だけでなく
日本人の心に深くしみ込み、少し切なくて、それでいて心が和むのではないでしょうか

余談ですが、豆撰の動画作りを五藤監督にお願いした昨年のことです。
もちろん、栃尾の豆畑からはじまり、棚田、城山、静御前のお墓そして、刈谷田川
の石積みの名残を撮影する段階になると、
付き添っていた私のことも忘れかのように長い時間、カメラを回しておられました。
この石積みには監督の想いが強いことを改めて感じました。

五藤監督映画の特徴の一つだと思うのですが、ややスローな運びは
人それぞれの心に刻まれている、想いを蘇らせてくれます。

最後に「中越地震」炊き出しの映像をあえて入れた監督の意図は
大変な時こそ
「助け合い」の心が大切と感じたからではないでしょうか

栃尾の風景の中で息づくファンタジー世界を
初監督作品「モノクロームの少女」と合わせてご覧いただき、ぜひ一度栃尾に.
足を伸ばしていただきたいと思います。


2016年6月18日土曜日

姉ちゃんとおばばの再会日は

姉ちゃんが、大きな目の可愛い赤ちゃんを授かってから
一ヶ月が過ぎた、雪の降る日。今から47年前のことでした。
おばばが突然腸閉塞に罹り、緊急手術になったのです。
後で私は知ったのですが、もともとの病気は肝臓癌で、
腸閉塞にならずとも余命1年と宣告を受けていたそうです。
緊急手術のため父母、姉ちゃん、叔母たちは病院へ、
私は赤ちゃんと妹と家で待つように言われました。
妹はまだ5歳でした。それでも、緊急事態を察し、私のそばを離れませんでした。
赤ちゃんが泣くと、妹は赤ちゃんを抱き、私の背におんぶさせます。
仏壇に手を合わせ祈る私をみて、妹も黙って手を合わせます。
長い長い時間でした。

母が血相かいてとんできました。
私の背から赤ちゃんを引き取り、自分の背におんぶしました。
暗い雪道を母の後を追って、私と妹は転がるように坂を下りました。
病院につくと、おばばのベットが見えないくらい、
大勢の人が集まっていました。
私と妹はベットに横たわる、おばばのそばに行きます。
心配しなくてもいいと、言っているように、少し目を開き、
私と妹に手を差しだします。
私たちの手をにぎる、おばばの手は冷たく、弱々しかった。
それから、気丈にも、「もう遅い時間だから、皆さんありがとうございます。
お帰りください」と……。

私と妹と母と赤ちゃんは家に戻りました。

それから、
ソリに乗って、おばばは山の上の我が家に帰ってきました。
帰ってきたおばばの顔には、白い布がかけられていました。
姉ちゃんと私と妹は、白い布をはらい、朝が来るまで、
泣き続けました。
姉ちゃんの命日は6月20日です。姉ちゃん57歳、私47歳の
この日、姉ちゃんはおばばと再会したのです。

「よおきたな、ちっとはやかったな、だども、こいからはずうっといっしょだこて」

命日とは
その人が大好きな人と再会する良き日と思えるようになるまで
15年の年月がかかりました。







2016年6月17日金曜日

結婚を決意する。

姉ちゃんの形相が変わるほど、「絶対嫌だ」と宣言したお見合いでした。
それなのにどうして1年後に結婚をしたのか、それは・・・・・・。

お見合いのお相手「足の大きな人」は栃尾の人ではありません。
そこで、私の父は探偵のように、「足の大きな人」の調査に出かけたのです。

その結果、人柄もよく、商売繁盛の働き者との評判で、
申し分のない人だから、結婚を前提にお付き合いをするようにとなったわけです。
それでも、姉ちゃんは気が進まなかったのでしょう
私を味方につけようと「ねえ、礼子ちゃん、駄目だよね、絶対行かない方がいいよね」と
必死で同意を求めるのです。私の本心は、大好きな姉ちゃんがいなくなるなんて
ダメだと思いました。
そして
最後の決め手はおばば(私の祖母)の気持ちだったようです。
「おまえは、この家にいる子ではない。いずれどこかに行かなければならない。
人柄もよく、先方さんも気に入ってくれているんだから・・・・・・。」
昭和40年は、恋愛結婚の時代ではありませんでした。
そして、だれもが祖母の病が大変であることを知っていました。

いろいろな事情はあったものの、たった一回のお見合いとたぶん数回のデートで
結婚を決めた姉ちゃんでした。


結婚式当日は中学の期末試験日でした。
そのために結婚式前夜だというのに
私は猛勉強というか一夜づけの勉強のため
別室にて一人黙々と・・・のはずが炬燵でぐうぐうと居眠り・・・・・。
目を覚ますと、一枚の手紙が置いてありました。

「礼子ちゃん、姉ちゃんはお嫁に行きます。でもいつまでも礼子ちゃんの
姉ちゃんです。みんなのことをお願いします・・・・・・。」と書いてありました。
胸が張り裂けそうになったあの日のことは今も忘れません。


結婚式から1年後に姉ちゃんはお産のために我が家に里帰り、
ふたたび家族が全員揃いました。
このまま姉ちゃんがいてくれたらいいなあと
心の底から思いました。
それから、すぐの出来事でした。

この続きは姉ちゃんの命日6月20日で最終回とさせていただきます。

2016年6月15日水曜日

突然のお見合い劇

姉ちゃんの二度目の般若顔について、姉ちゃんのお見合いの日でした。
お見合い行きたくなかった姉ちゃんに、おばば(祖母のこと)は
いつまでも、この家にいられないのだからとこんこんと説教をしていたことを覚えています。
この時、妹は7歳でした。
妹の誕生で、ことあるごとに跡取りという肩書きをいただき、
ちょっと妹や姉ちゃんと違う宿命なんだと感じていました。
さておき、嫌々ながらお見合いに強制連行させられた姉ちゃんが
帰ってきたのです。玄関の戸は勿論、ハイヒールを脱ぐ時の音までけたたましく
「怒り」の狂想曲。私の顔を見るなり
「駄目、駄目、靴がコンゲンでっこいんだよ、絶対嫌だ、礼子ちゃんだって嫌に決まっている」と
その形相は般若顔でした。靴が大きいというのは背が高いということで、
何も般若になるほどのことではないはず、私はここで笑ってしまったのです。
これは大きな失敗でした。般若の面は大きくなり、私を睨み威嚇するのでした。


般若顔になるほどのお見合い相手と、この事件から1年後に姉ちゃんは、結婚したのです。
なぜか、それには悲しくて辛い諸事情があったのです。この諸事情の続きは後日・・・・・・。

6月20日の命日までは、あと6日です。姉ちゃんとの楽しくて、心がほっとする
想い出を思い出しながら書きたいと思っています。
しばらく、お付き合いをお願いします。


2016年6月13日月曜日

女優のようにきれいな顔が般若顔に変身したのです。

58歳の誕生日は目の前でした。7月11日。
14年前のあの日、6月20日に叔母は逝ってしまった。
私を置き去りにして、

私はまだ47歳でした。
私と叔母は10歳違いです。
私が生まれた時から家族の間では叔母は「姉ちゃん」、
私は「礼子ちゃん」と呼ばれていました。
3歳違いの妹が生まれる(この妹は生後3ケ月で死亡)と私は祖母と姉ちゃんと
一緒の寝床で眠ります。
寝床の端に欅の座卓がおいてあります。
姉ちゃんが高校を卒業し、私が小学1年生になった年にその机を
譲り受けることになるのですが、そのちょっと前にちょっとした事件がありました。
我が家の方針では一年生になる前に、
自分の名前が読めて書けたら、それで合格でした。
私は、書きにくい「れ」のひらがなを結構うまく書くことが出来ました。
「この子は頭がいいかもしれない」と孫バカの祖母は
名前以外のひらがなを私に教え始めたのです。
ひらがなが読めるようになり、嬉しくて嬉しくて、

そこで見つけたのは、座卓の引き出しの中に潜んでいた手紙の数々です。
隠れて、そうです。姉ちゃんに見つからないようにその手紙が読みたかったのです。
5歳の私の妄想です。これはもしかして、ラブレターかもしれない。
一通、二通とひろげまくって、一生懸命に盗み読みを試みたのですが、
困ったことに漢字が多いのです。ひらがなの間に漢字が入ると、ちんぷんかんぷんです。
封筒と便箋を散らかし、かたずける知恵はなく、知らんぷりの私。
すると、その散らかっている手紙を見つけた姉ちゃんは
私を攻撃するのです。そして祖母に言いつけている、
女優のようにきれいな顔が般若顔に変身したのです。
胸元にぐさりと刀が刺さったかのように
私はひるんだ事を絶対に忘れません。
その後、姉ちゃんはお嫁に行くことになるのですが、そのお見合いの日に
二度目の般若顔を見ることに・・・・・・。

姉ちゃんの命日が近くなり
57年生きた姉ちゃんについて、書いてみようかと思いました。
続きは後日。

2016年6月10日金曜日

邦題のつけ方について


映画のタイトルのつけ方についてNさんのブログを拝見しました。
The Bucket List」は「死ぬ前にやりたいことのリスト」くらいの意味だ。
長い邦題「最高の人生の見つけ方」がついている。
英語の原題を和訳するのが難しかったからだろう。
英語で「kick the bucket」は「死ぬ」ことを意味する言葉だが、その由来を調べると………
この邦題のつけ方についての英語解釈が書かれていました。
今まで私は日本で公開される映画の邦題についてあまり気にとめず、映画を観ていたようです。

そこで、この邦題「最高の人生の見つけ方」のDVDを
鑑賞することで、Nさんのブログを理解しようと思いました。

映画の内容も俳優も超一流ぞろいでした。
死がまじかに迫っている、初老のふたり。人生の最後に何がやりたいかを考え、
リストをひとつのひとつ消去していく映画でした。
映画のラストでの見せ場はなんといっても、死ぬまでにやりたいリストに
含まれていなかった「家族のもとへ」でしょうか
妻が一番大切な人であることに気づく老人、
決して自分を許すはずがない娘の子どもへキスをする老人。
そして、ふたりの遺骨を埋葬するために秘書は
エベレスト登頂を果たし、最終リストに線を引きます。
実はこの映画ではふたりの老人よりも秘書に私は心が動いたのです。

そして、「The Bucket List」は
邦題「最高の人生の見つけ方」とはまるで内容が違うことに気がつきました。
この邦題は未来に向かってであり、死に向っていくふたりにつける邦題ではないと
Nさんのブログにあらためて共鳴しうなづきました。


邦題ってどなたが考えるのでしょうか?日本映画なら脚本家だと思いますが
海外映画だとコピーライターさん?翻訳家?
あらまあ、また疑問がでてきてしまいました・・・・・・。

2016年6月9日木曜日

お月様にはウサギが住んでいたのです。

流しの隣に、大きな桶のお風呂が置いてありました。
風呂釜に、ぼいをくべ(小枝を入れること)、杉っ葉に火をつけ、薪を燃やして、お風呂を沸かす、昭和30年代。

ある日、きちんと脱衣所のあるお風呂場を造ることになりました。
その工事の間、桶のお風呂は庭の真ん中に移されました。
臨時のお風呂は足元も見えない暗闇です。
灯りといえば、お月様とお星様だけです。父に抱かれて湯に浸かり空を見上げると、そこは、おとぎの世界でした。
温まった体にそよそよと風が吹きます。
なんて気持ちのいいことでしょうか。
そして、父は必ずこの話を毎回するのです。
「あのお月様にはウサギが住んでいて、餅をついているんだぞ」
私は、じっーと、瞬きもせず月を眺めるのです。
透明に輝くお月様の真ん中に臼があって、
うさぎが杵を振り上げ、ぺったんこ、ぺったんこと餅をついている音まで聞こえるのです。
庭に置かれた、桶のお風呂は私にとって最高の物語世界でした。
だから、新しいタイルのお風呂が出来上がると、がっかりして
しまいました。

この幼い頃の想い出が忘れられなくて、自宅のお風呂の窓は大きくしました。
もちろん、夫の反対を押しきって透明のガラス戸にしました。

ところが、家の周りには、街灯の灯りや家が建ち、
大きな透明ガラスは、今ではすだれで覆われてしまいました。
懐かしく、遠い遠い昔の話。
豆撰のスタッフのほとんどが、人間が月面到着してから生まれたそうです・・・・・・。


2016年6月8日水曜日

お中元に新発売決定しました!





昨年から力を入れ取り組んだのは、栃尾の油揚げを使ったお惣菜づくりです。
そこでポイントになったのは味付けをどうするか、
つまり「家庭の味」をどう再現するかでした。
お惣菜は、それぞれの家庭で、それぞれの味がありますから、
どんな味付けにすればお客様に喜んでもらえるか 、スタッフみんなで、考えました。
まず、子どもから大人までそして高齢者まで、美味しいと食べられる味付けにする。

そして、なんといっても健康食であることです。
これらの条件を満たすためには、何がいいのだろうかと話し合いの結果、野菜もお肉も入って栄養バランスが良く、栃尾の油揚げの素材の味をいかせるよう塩分は控えて薄味に。その分、しっかりと出汁のうまみがしみた味付けにする、などなど。
それ以外に、食べやすさなども考えて出来上がったのはが「あぶらげロール巻」です。

今年の夏ギフトに、ご家庭の団欒におすすめする豆撰の自信作です。
是非一度お試しください。





 

2016年6月5日日曜日

「酔いどれ天使」を観て

1948年制作映画「酔いどれ天使」を夕べ観ました。
私が生まれる7年前の映画です。
戦後の闇市、ヤクザなどを背景に、当時の社会を映し出しています。
この映画がはじまると三船敏郎さんが主役と思っていたのですが、
出演の字幕一番に志村喬さんの名前がでてきて、少し驚きました。
観終わると、どちらが主役なんて関係のないことがわかりました。
ふたりとも体当たりの素晴らしい演技だったからです。

志村さんは庶民派の貧乏医師真田役です。
自分のお酒がなくなると、医薬品のアルコールを
お湯で薄めて飲むシーンやどぶ水の溜まりに写る瓦礫や建物に、
この時代の世相を感じます。
闇市で商売をしている、ヤクザ松永役は三船敏郎さんです。
若い時の三船さんはとてもハンサムで
時代劇とは全く違った雰囲気です。
それは、さておき、
気迫の演技に背筋がゾクゾクしました。
それと同時に、この時代の医療器具、医療施設を見ていると
私の生まれた昭和29年から東京オリンピックまでも
こんな感じだったと切なくなりました。
結核に冒された松永は、真田医師に更生と病気の完治を委ねながらも、
一度辿った世界からは、なかなか抜け出せないのです。
そして、返り討ちに合い、ついに命を落としてしまいます。
黒澤監督のシナリオには、松永が更生し、
病気を治す筋書きはなかったようです。
それは、人間の弱さを、ありのままに表現したかった
黒沢監督の信念だったのでしょうか。
ラストに若き日の久我美子の初々しいセーラー服姿が、
重い映画に一筋の明かりをもたらしてくれました。
結核に負けず、一生懸命病気と闘う少女に医師真田は、「人間は
理性を持って生きなければならない」と諭すラストシーンは心に響きました。


この映画で残念だったのは、音声の悪さです。
なかなかセリフが聞き取れないのです。もちろん画面は白黒です。
この2点が現代映画と大きく違う点です。
それなのに、
この2点は、懐かしく、心に血が通うのです。
それは、CDで聞く音とレコードで聞く音の違いのように、
機械揚げと手揚げのあぶらげの違いのように心に響くのです。

この映画を観ている時間、私はその時代を彷徨い、想像を巡らすのです。
セピア色の写真をながめるように・・・・・・。

2016年6月4日土曜日

初老の友ふたりが介護する母



友達のお母さんは91歳、軽い認知症。
私の母は85歳、認知症である。
車の運転は友達。私は助手席に乗り、
ふたりの母は後部席に乗ります。
私たちは、たわいもない、家族の話や仕事の話。
最近観た映画や今読んでいる本について、
ワイドショーなみに次から次へと話題が変化します。
時々、後部席の母たちに
「信濃川が今日は綺麗でしょ、温泉に行くんだよ」と
声をかけ、気を遣います。
海が見えてくると、お友達のお母さんは、
「いい天気で、連れてきてもらってよかった」と感嘆の声をあげます。
私の母は、ただ、ニコニコとうなずくだけ。
海の向こうに見える佐渡をながめながら、湯に浸かる、至福の時。
お風呂で、私たちより少し年配の方に
「お母さんですか?親孝行ですね」と声をかけられ、
友とふたりで顔を見合わせ、
ついでの親孝行も悪くないと自己満足する友と私。

大広間は四人だけでした。
大きな窓から眺める水平線が幾分弧を描いている。
静かに寄せる穏やかな波。
ここは日本海、太平洋なら娘の住む海にまっしぐらなのにと
つぶやく私・・・・・・。
大きな窓からトンビが優雅に舞っている姿を発見したのは
友達のお母さん。しばらくその飛行を楽しむ。
電信柱に止まり、右の方向を見ているのです。
すると、右方向からもう一羽のトンビがやってきました。
それぞれが、電信柱に止まって、しばらく休憩しています。
私たちもトンビの姿を黙って見つめていました。

いつの間にか、少し余裕ができ、認知症の親をみる歳なった私たちです。
嬉しいような、さみしいような複雑な気持ちでしが
「また。4人で来ましょう」と約束をし、温泉を後にしました。

2016年6月3日金曜日

あらためてオバマ大統領の広島スピーチに想う

先日何回も書き直した
オバマ大統領のスピーチについて
もう一度、書いてみたいと思いました。
その理由は、あのスピーチの原稿をオバマ大統領は専用機の中で何回も書き直しを
していたと、ニュースで取り上げられたからです。
私は、オバマ大統領が何回も書き直した完全版を
読むことなく、ブログを書いたことがとても恥ずかしくなりました。
そして、今一度完全版を読みました。

平和への願いを、アメリカの大統領が大統領の立場ではなく、
「私たちが愛する人のことを考えるためです。朝起きて最初に見る私たちの子どもの笑顔や、食卓越しの伴侶からの優しい触れあい、親からの心安らぐ抱擁のことを考えるためです。・・・・・・」
この部分のスピーチは
オバマ大統領が私と同じ目線、気持ち、同じ血が通っていると心の底から思え
感謝と感動で胸がいっぱいになり、とめどなく涙があふれてしまいました。

私が生まれてから、日本は戦争を繰り返すことはありませんでした。
しかし、世界中ではいつも、戦争やテロがあり、人々はその恐怖ばかりでなく
多くの人々が肉親、友を失っています。
オバマ大統領の、この一節は全世界の人たちみんなの変わらない願いだと思います。
子どもを、伴侶を、そして友を愛する気持ちを考え、想いだしたら、
きっと、きっと戦争のない時代がくることでしょう。
そう願う気持ちにさせてくれた、演説でした。



2016年6月1日水曜日

もみじいちごの想い出



最後の筍採りに出かけた夫が持ち帰ってきたものは
懐かしく、甘酸っぱい味の「もみじいちご」の写真でした。
私たちの子どものころは「さがりいちご」と呼んでいました。

父と母と私は、山道を上り、沢にある田んぼに向います。
その途中で、母は手を伸ばし「さがりいちご」を
ふきの葉いっぱいに採ってくれます。わたしの大好物のおやつでした。
父と母の田植え姿をみながら、さがりいちごを食べたり、田植え最中なのに
おたまじゃくしを捕まえてとダダを言ったりする私。
田植えを終え、日が沈むと、苗の入っていた馬かごに
私は乗り、ゆらりゆらりとゆられ、いつの間に眠ってしまい、
家の前で起こされるのです。
なんてのどかな、平和なしあわせの日々だったことでしょうか

「お父さん、食べてみた?〜美味しかったでしょ、採ってきてほしかったな」と
私が残念そうに訴えると「昔みたいに甘くなかった、酸っぱかったぞ」と応える夫。
幼少の時食べたさがりいちごが最高のおやつに思えたのは美味しいものがなかった
時代だったっただけではありません。
親子、友達たちが一緒に過ごす大切な大切な時間だったと思うのです。