2016年6月30日木曜日

別れのアイコンタクト





私と叔母がコンビを組みます。母と妹がコンビを組みます。

父の付添いのためでした。
叔母も母も耳がやや遠く、役に立たないからと
父が指示したのです。

大きな体の父は痩せ衰え、ひと回りも、もふた回りも
小さくなったようでした。
腕に、一滴ずつ落ちる水は、命の水から痛みを取り除く水に替わり、
死への道に近づくいていくのです。

声も出なせない病人のそばで、食事をとることは、心苦しく、
食堂に行こうとすると、
「ここで食べてくれ」と弱々しい声で、そばにいてくれと哀願するのです。
父のベットの脇にゴザを敷き一枚の薄っぺらな敷き布団に
私と叔母は、重なるように体をまるめ、息をひそめ眠るのです。
夜中に何回も父は私を起こしました。私の手首に紐をつけ、
それを父が引っ張るのです。
唇に水を湿らせ、象の足のようにパンパンと膨れ上がった足を摩ります。
仕事を終えてからの、夜の看病は、とてもつらく、
限界に近づいていることを感じていました。
眠らないままに夜明けを迎えました。
そして、母と妹が付き添い交替のため、病室に入って来ました。
7月2日の朝、もう10年前になります。

ベットから数歩離れ、私が病室のドアに手をかけながら、
ベットに横たわる父に
「また明日の朝、来るからね」と声をかけると
父の目が私に何かを伝えたくて、瞬きもせずに私を見つめたあの日。
あの一瞬が、私と父との別れの挨拶だった。
目と目が合う
「早くきておくれ…」と訴える目は残っている全ての力を集中させ
私とアイコンタクトをとるのでした。

その日の夕方、妹から電話がきました。
父の様子が変だから、すぐに病院へ来てほしいと。
仕事をやめ、ひとりで車を運転、運命の日を受け止めていたはずなのに
とめどなくなく溢れる涙、それからは、お葬式を迎えるまで私は決して泣かなかった。

今、思い出すと、脳死だったと思います。
息はあらく、ゴーと響いたり、とても静かになったりしています。
心臓はまだ動いているのです。
でも、呼んでも返事はなく、半分開いた目は閉じることがないのです。
この状態のまま、医師は、ただ息の終わる、その瞬間を待っているのです。
母、私と妹は、ベットの脇の小さな椅子に順番に腰掛け、見守るのです。
父の息が止まるその瞬間を逃さないようにするために。
連日の疲れがたまっている私と妹は、うとうと眠りに入ってしまいました。
目が覚めると、半開きの目が閉じられていました。
寄り添っていた母に聞くと、母が閉じさせたと言いました。
喧嘩の絶えない両親でしたが、最期の後始末をしたのは母でした。
息が絶えた瞬間に、妹の号泣が病室に響き渡りました。

永遠の眠りは体を休めさせ、極楽浄土の道へ
その橋の向こうで手招きしているのは、おばばと姉ちゃん。
ゆっくりと対岸に向って歩く父の姿・・・・・・。

認知症の母は覚えているのかいないのか
仏壇の前に座ると、手を合わせます。
この人はだあれと慰霊写真を指す私。
母は、ゆっくりと思い出すかのように
「父ちゃんだろう」と小さな声で言います。



0 件のコメント: