2017年7月28日金曜日

しくじり

なんとか娘の家に戻りました。
娘婿殿がネットで取り寄せたマットで
本当に本当にぐっすりと眠ることができたのは
アメリカに来て八日目です。
娘婿殿は思いのほか子煩悩で、妻である娘に対する思いやりからでしょうか
赤ちゃんのオムツ交換やらお風呂入れ(日本のお湯を使わせるとはまるで違います)
つまりここでも、私の出番はありません。楽チンといえば楽チン。
人生初の休暇だと思ってと娘に諭される。
お掃除も洗濯も何もかもしていただき、私は私のパンツを洗うのみ。
こうなると、働き者のサザエおばさんは何をする人ぞ!
午前10時前に娘から書いてもらった地図を手に
オーガニックスーパーへ行ってみることにした。
先日行ったカフェをまっすぐまっすぐ歩くと言われ、
目印は黄色の花とネコジャラシの雑草、多肉の店など。
頭にインプットしている。まっすぐだから大丈夫。
オーガニックのお店を見つけました。
中を一回り、すご種類と数、野菜、肉、全ての食材が揃っています。
中央にはサラダや惣菜、パンなど自由に選べるようです。バイキングみたいに。
エビサラダが食べたかったけど、朝食を食べたばかりです。
ここは遠慮、トイレを探す。ありました。やったあ、
アメリカ一人歩きで私にとって一番重要なことは
食とトイレですから。
トイレを借りたいなら、買い物をしなければと娘の指導がありました。
でも、この先にあるお店に寄りたかったので、ここは御免なさいと
素知らぬ顔で店を出る。おばさんの技。こんな技を使うなんて
本当におばさんになってしもうたよ。
2年前に来ているお店ですから、それぞれの雰囲気品物もわかり、
こちらもウィンドショッピング。
さあ、もう帰ろう。
時計はまだ11時時。早すぎ、娘のアパートの屋上で読書することに。
心地よい風が吹き屋上は開放感全開のはずが
風がわたしの体と心を冷やしてしまいました。
これじゃあ、だめだ。
オーガニックスーパーに戻って、やっぱりあのエビサラダを食べてみようと
早足で歩くこと30分以上。
ないないない、目印の黄色い花、ネコジャラシ、あったよね。
あったはず。
ここは広いストリート。どこもかしこも同じ風景です。
間違った。お腹は空く。でもこの間違った道は行ってはいけませんと念を押された道のようです。嫌なとても鼻につく匂いとホームレスの人たちが多い。
美味しそうなカフェやレストランもありましたが
娘の忠告が頭をよぎり、汗 だくになり、家にたどり着く。

まだ昼食を食べていなかったイタリアのご両親と娘夫婦と一緒にパスタを
いただき、お腹は満たされました。
4時間も心細く一人で歩いて来たせいか、ドドっとつかれて、ソファで眠り込んでしまいました。
すると、私は私の寝言で一度目を覚まし、多分恐怖の夢だったような気がします。
それにもめげず、また眠りにつく。
完全に目がさめると、イタリアのご両親は帰って、リビングには私ひとり。
やれやれ
「あなたは誰かの大切な人」をリュックに詰め
先日と同じカフェに。
なぜなら、もうWi-Fiは設定してあるから大丈夫。手間が省ける。
娘にレギュラーコーヒーくらい読めるでしょと言われていましたが
ここは英語力を試してみようと
いやあ、つうじないですよ。
出て来たのは、紙コップに入った
濃いコーヒーと紙に入ったチョコレートパン。
なんでこうなるの!
私は誰の大切な人かな❓自信喪失❗️

2017年7月24日月曜日

カナリヤを逃したのは母でした

今、娘の家にはイタリアのママと私。
そして孫のYの3人です。
携帯の中に入っている写真をお互いが見せ合い、日本語とイタリア語と英語のちゃんぽん。こりゃあ漫才にもならない。
時々孫を見つめて、ふたりのばばちゃんは愛想笑いをする。
コーヒーを入れ、二人で飲む。
孫は私たちの空気がまだ読めず、スヤスヤと眠り続け、
もう2時間はとうにすぎている。
外は騒音のパレードだ。まるでアメリカ映画のようだ。
バイクにパトカー……。
そうだ、ここはアメリカだから、当たり前のこと。
話も途中で下車。
前もって私は本が好きです。そして携帯で友達とメール交換をします。どうか気になさらないで下さい。と言っておいた。
することが見当たらないので、昨日の続きを書くことにします。
原田マハさんの「永遠をさがしに」の序盤に重要な登場人物いや、正確には鳥が出て来ます。カナリヤの歌そのもの。
娘の和音と母の名前を一文字づついただいた名前、母の時依のと、娘の和音のわです。
トワ ……。そしてその意味はフランス語であなた、日本語では永遠と母が和音に教える。
ここにこの物語の鍵をかくして、読ませて行く原田マハの戦術が好きな私。
映画もそうだけど、最初の場面が人を惹きつけるかどうかで
その物語のうまさが感じられると、のめりこんでしまいます。

ここで脱線
今私は籠の中のカナリアと同じだ。ここが最高の空間であるはずなのに、言葉がわからずに泣けないよ。
とカナリヤと私は一体化してしまいました。
でもこの序盤には涙なし。
羨ましいほどの家庭環境、家族構成は読み始めてすぐにあららとなる。
鳴かないカナリヤがいなくなり、鳴かないカナリヤは必要ないと
逃してしまった犯人は?有名な指揮者の父かなと謎を残し、両親の早々とした離婚。
これでは、私の両親の方が貧乏で、喧嘩の絶えない夫婦であっても、
両親の愛は妹と私に100%注がれて育ったことを思い出す。
今頃、その母は病院のベットでリハビリ最中だ。日本は36度を超えているとか、大丈夫かなと心配になる。
私は自分の思い通りにならなとアメリカに来た早々ストレスのタネを蒔いてしまった。
病院にいる母や一生懸命頑張っている豆撰のみんなのことを思ったらバチが当たりそうだ。
メールの音。
娘から、病院からもうじき帰ります。Yはどう?とメッセージを読む。
彼女はオムツを替えても知らんぷりで眠っていると返信。

続きは ……。続きます。





2017年7月23日日曜日

永遠をさがしに

お友達が羽田まで持って来てくれた本は
私の大好きな作家原田マハさんの本でした。
読んだ本は外し、数冊をリュックに詰め込んで来たのです。

アメリカ生活五日目となると
日本流とアメリカ流の差がストレスになり
たまっていたものがいっきに吹き出してしまいました。
私の悪い癖は黙り戦法です。ストレスとは思い通りにことが進まないから起こる現象です。
そのためか、夜中には激しい嘔吐に苦しく、切なく、
涙が溢れてしまいました。
私の唯一の空間場所を見つけました。それはバスルームです。
狭い空間は幼児が好むように、私の心を落ち着かせてくれるのです。
そして、もうひとりの私に語ります。

涙をいっぱい流したら落ち着きますよ。我慢しないで泣きなさい。
この効果は大きかった。
その結果、私は私流を一切言わないこと。
少しのことを気に留めない。
なるべく、自由を楽しむ。l
この三点を心の箱に詰めこみ

そして、今日午後からの行動に移るわけです。
彼らは赤ちゃんを連れて、イタリアのパパママと一緒に小児科に検診に行きました。

私のストレス理由の一つは言葉がわからないことでした。
4対1のイタリア語会話には辛いものがあります。
だから病院には行きませんでした。
そのかわりに
カフェに行くことにしたのです。
永遠をさがしにをもって。
この本に限られたことではありませんが、数少ない読書の中で
いっきに読み続けられる本とは
内容が、登場人物が私になったり、わたしの家族になったり、友達になったりすることです。置き換え術のようなものです。
この、置き換え術がすんなりできるともう止まらなくなり
いっきに読むのです。
有名な指揮者の子供として生まれた 和音と友達ふたり、ニセ母の
四人の物語です。
そこに大きくドカンと落とす実母の愛は大きすぎて大きすぎて
カフェでは涙が止まらず、ナプキンで涙をぬぐい、鼻をかみ、
3時間もこの繰り返しをしていたわけです。

さて、このカフェに来る前に夫と電話で話しました。
お前は大人なんだから
好きなブログを書いたらいいじゃないか
この会話が、永遠をさがしにのニセ母が和音に言うセリフにあったのです。
もうたまりません、洪水のように溢れた涙を止めることはできませんでした。

我が夫です。私の泣き虫治療方法を処方してくれました。
気分転換を終えて、娘夫婦の家に戻ろうと、来た道の反対側を歩く、
これがまた大きな間違いでした。
アメリカの道路は広くて長く続き、その反対 を渡るには相当の距離を歩かなければならない羽目になったのです。

この続き永遠をさがしにの感想とアメリカ紀行は続きます。




2017年7月20日木曜日

この広い世界の片隅で

アメリカに来て四日目の朝を迎えようとしています。
日本とアメリカの時差に少し悩まされ、深い眠りにつくことができません。
若い夫婦は自分たちに授かった赤ちゃんを見守り、抱いて病院で過ごしています。
私は娘のベットで、眠れない夜を過ごしています。
さみしくなり、本を読んだり、キッチンをかたずけたり、映画を見たりしていました。
すると、ラインの音。誰だろうかと思いました。夫か妹かお友達だろうかと
誰であるかを想像しながらラインをみました。
すると、ほんのひと時忘れてた……。
母の面倒をお願いしていた妹のお友達からでした。
遠い国にきて、孫の誕生を喜んでいた私ですが、日本にいるような気持ちになり、
我に戻り、深い悲しみを感じてしまいました。
母の飲み込み練習が上手くいかないらしい。私がいないとダメなのかと
遠い国にいる自分の行動、幸せが、これでいいのかと、もうひとりの自分が叫んでいます。
夜が明けはじめ、ブラインドの隙間から明かりが入る。
どこの国にいようと、どちらが世界の片隅なのかわからないが
世界は遠くもなく、繋がっていて、心は特に繋がっていることをしみじみと感じています。
母も娘も孫もどの世界にいようと
大切な私の肉親です。
日本であろうがアメリカであろうが、どこに住もうが想いは同じことに気づきました。
心の世界は近いものです。

アメリカ滞在3日目にして恋しくなったものは

渋滞にならないうちに、私は娘の家に戻りました。
若い夫婦は、赤ちゃんが可愛くて仕方がないようです。
新入生ばばちゃんは遠慮気味。
たった3日目なのに、ご飯が恋しくなった。
主食のパンにちょっぴり飽きて、棚の中をゴソゴソしてみると、
やはりありました。
極上有機栽培米。もちろん電気釜はありません。お鍋で炊くことに。
炊き方はネットで。
何でもかんでもネットで調べりゃあ、お茶の子さいさいです。
 かくして、30分米を浸水、おかずは焼肉に決める。
冷蔵庫には豆腐もあり、だがたった一人の夕飯。
喜んでくれる人は0人。や、め、た。
調味料は全て英語。私がわかるものは、塩と胡椒の二つだけ。
焼肉はこれのみで味付け。
ご飯は結構いい調子で炊けた。そこで、卵かけご飯に決定
こちらも塩のみ。
テレビをつければ英語。YouTubeで「大奥」を見ながら
ひとりごはん。は味気ないものだ。
少々胸が痛む。こんな呑気に過ごしていて申し訳ない。
豆撰のみなさんごめんなさい。
今日の収穫は二人のアメリカ人と会話?
今回は私から仕方なく声をかける。
ただ単語を並べ、iPadを出しWi-Fiの繋げ方を聞く。
あらまあ、やればできるもんだ。意味が通じるではないか。
成せば成るってこと。
次は、眠くなった私は病院の中庭みたいなところでちょっとお昼寝。
するとお弁当持参の中年女性、蓋が開かず四苦八苦。
私に説明し隣に移動。てな調子でした。
赤ちゃんは娘婿殿にそつくり!
そういえば、娘も父親のコピーだった。

アメリカ流によると、泣いている赤ちゃんはうつ伏せにして背中を叩く。
赤ちゃんにシャツや服は着せない。ネル地の真四角布に腕を中にして
しっかりと包むだけ。
オムツはしています。
母親のおっぱい消毒は無し。こりゃあ簡単でいい。大賛成。
夜9時、15分前。日が沈みいつの間にか辺りは暗い。
ひとりごはんはつまらない。
明日から新家族と私を入れて4人になる。
どうなることか?

2017年7月19日水曜日

日本とアメリカの違い

大きな病院です。
中庭は公園風です。カリフォルニアの広さと日本の広さは同じくらいらしいから
当然のことかもしれません。
お産専門に病棟がある。
ナースステーションはそれほど広くなく、スタッフも数人のみ待機。
ですが、
病室はひとり、一部屋。夫のためのベットになる椅子も用意されている。
全てが整っているような広い病室。
トイレもかなり広い。
全てが使い捨てにできている。感染しないためと思う。
そして次から次へと立ち代わり5人くらいの人が出入りする。医師、麻酔技師 
看護師、助産婦らしい方も
データ管理はもちろんのこと。だから、コンピュータ関係の人も待機している。
何から何まで整い  、スタッフに余裕が見られる。
日本の医療は、ナースステーションにひしめき合った医師と看護師が目につく。
母親の胸に抱かられ た赤ちゃんは
安心しきった顔で、母乳を飲む。
今は日本もそうらしい。
親子のスキンシップの大切さがここからはじまる。
家族は好きな時間を自由に赤ちゃんと過ごすことができる。
治療しますから病室から、でてくださいとは言われない。

親子の無事な姿を見、安心して、出来立てホヤホヤのばばちゃんは娘のマンションに
送ってもらう。
さて、昼食を作って食べましょう。
当然の事だが、家事に必要なもの全て英語です。
どうやら、私は人生初のひとり暮らしを異国で体験することになったようです。


海を渡る前と渡ってから

ひとりでロサンゼルスに向かうことになった。
お友達数人から「大丈夫ですか」とメールをいただく。
見送りしましょうかと声をかけていただけたことはとても
嬉しかった。62歳のおばさんにとってひとりはとても心細いものだ。
Sさんにお願いした。
東京駅は混雑。改札口で彼を見つけると、張りつめていたものがゆるゆると
溶けていく。
ネットでチェックインを娘に依頼していたのは非常に便利だった。
パスポートを見せるだけで、チケットをもらい荷物を預けるだけ。
ひとりでは何もできないと言うより、ひとりでしようとしない
依存症である。

羽田空港で彼と夕食を共にして、お土産を買い、コーヒーを飲み、
彼に感謝して、私は颯爽?に搭乗。ゲート110番で待つ。
ここで、まさかの失敗をするのだが、気がついたのは
ロサンゼルス空港に降りる直前。
この失敗は後で書くことに。
夫のキャンセルで私の隣は空席かもと期待していたら、
アメリカの女性が座る。
「トイレに行くときは声をかけてください」流暢な日本語である。
お互いの目的を聞き合う。
 安心のふた文字である。
 私は運の強い人間だ。
弱々しく見えるのか?行く先々で出会う人は皆優しい。
飛行機の中で、先日Mさんが面白かったと絶賛されていた映画
「美女と野獣」を観る。感想は長いアメリカ生活のうちに書くことに。
いよいよアメリカ大陸の上空に、
広い、ゴルフ場は平地にいくつも点在する。
周りは真っ白で、青い区画整理された?海に囲まれている。
 2年前は夜だったのかこの景色は記憶になかった。
アメリカ女性からエスタ場所に案内してもらい
日本に戻ったら、是非「豆撰」に来てくださいと感謝の気持ちを伝える。
彼女の仕事は日本だからである。
彼女と別れると次に登場してくださった女性は日本人。
「日本人ですよね」と声をかけられ、「心強いです、ご一緒にエスタの手続きを
していただけませんか」とこの何も知らないおばさんを頼りにする。
まさか……
私は何もわかりません、私の方こそよろしくお願いします。
案の定 、機械の前に立つと、彼女はさっさと手続きを済ませ、私に教えてくれる。
私は優しい人にめぐり合うことのできる運の強い人間である。また助けてもらう。
手荷物を待つ間に、お互いの目的を話し、別れる。
さて、私の目的は
娘の出産である。今病院で私の孫が誕生するその瞬間を、この待合室で待っています。
産まれたようです。

2017年7月9日日曜日

母に代わって綴る日記 2017/7/9

ようやく母の飲み込み訓練ステップ2に入ることができました。
持参したメロンや桃の果汁にトロミをつけてもらい、
40CCのゼリー状のものを作ってもらいます。
約15分かけてそれを飲み込みます。
まずまず順調です。
次に病院から支給されたぶどうのゼリーに挑戦です。
母の口は動かず、口に含んだままです。
市販の食べ物に慣れていない母の拒否反応です。
仕方がありません。無理強いをしても、頑固一徹の母。
特に最近の母の嗜好は美味しいものとそうでないもの
本物と偽物の区分けがはっきりしていました。
脳梗塞に倒れても味覚は変わらないようです。

妹と仕事のあんばいをみて、メロンの搾りたてを持って母のところへ
母にメロンジュース飲みますか?
頷く
口元にメロンジュースを持って行くと
いつもは促さないと口を開けない母がツバメのヒナのように
口を開けます。
嫌な顔もせずに、美味しそうに数回飲み込みました。
妹の声には反応が早く
妹の名前はしっかりということができます。
私の名前は、ここ数日考え込んでいるようです。
半ば強制的に「れいこ」でしょと強く言う。
かすかに唇が動きます。
妹は一緒に暮らしていた年数が違うでしょと言う。
そうかもしれない、そうでしょう。
それでも、ちょっとさみしい。

2017年7月3日月曜日

天使のような明るくって思いやりの介護士さん


いつものように病院へ
今日はスイカを持参しました。
詰所に直行、飲み込みの先生から絞ってもらうためです。
病室に行くと、母の病室の松江さんの入浴準備中でした。
着替えをカーテンの中でやっています。
私は母の耳もとで大きな声で言います。
「今日はスイカを持ってきたよ。スイカ好き?」
すると松江さんの着替えをしている大きな魚屋さんのようなゴムのエプロンを
つけた介護士さんが母のかわりに
「いいな、ツギさんはスイカ食べられるんだ。夏だね。私もたべたいな」
元気で明るくって、若くて可愛い娘さんです。
その後、母が私の持ってきた扇子で自分を仰ぐ姿を見つけ
「すごいね、別人みたい、ツギさん扇子開けたね」と。
一人の介助をしながら、他の人への気配りもすごい。
病室を出る前に母のそばにやってきて
「ごめんね、もっと声掛けしてやりたいんだけど……」と母のおでこにタッチ。
私はこの娘さんの仕事への熱意と優しさに感動し
「ありがとうございます」と私の気持ちを伝える。

2017年7月2日日曜日

りんごの唄と父の命日



月も変わり7月、なんて早く月日は過ぎてしまうのだろう
そして、今日は父の命日です。
丁度10年が過ぎました。
父はとても優しい人でしたが怒りん坊で、わがままな人でした。
教員になりたかったと生前何度か聞いたことがあります。
でも、祖父に(父の父)に反対されたそうです。
その当時は、結構田畑があり、百姓の子はその田畑を守らなければならなかったようです。
その後祖父は病に倒れました。昔の我が家にトイレがふたつあったのは
病に倒れた祖父のためだったことがわかります。
そして、私の生まれる年に他界。50歳だったそうです。
祖父の死によって、父は家長となり、一家を支え、
自らも波乱万丈の道を選び突き進むことになっていきました。

そのうちの一つに
私の結婚も入っていたかもしれません。
ふたり姉妹の姉の宿命だったはずの私は
大橋から多田に。
先日、妹から私の知らなかった秘話を聞きました。
私の結婚式に歌った父が選んだ曲は「りんごの唄」で
歌詞を変えて歌ったのだそうです。その時、私はその場にいませんでした。
お色直しをしていたようです。

赤いりんごに唇寄せて
黙って見ていた可愛い子
りんごは………
可愛や礼子………と歌ったそうです。

今その時の父を想像すると、涙が溢れてしまいます。

そして10年の歳月の間に
私の一人娘は私のたどった道を同じように歩いているのです。
父が生きていたら、
俺の気持ちがわかっただろうと笑いながら話したかもしれません。

夫は仏壇に飾る百合の花を取りに畑に行きました。