2016年4月26日火曜日

母の日…遠い記憶

母は父の従姉の子供である。つまり私の祖母は父の叔母さんの子供である。
少し母と父は血がつながっていることになる。私は時々、父の母に祖母の母の家に連れて行かれるのです。その人はとても私をかわいがってくれました。というのは私が行くと、ナルトと大きな卵が入ったうどんを出してくれるのです。お腹がいっぱいでも、子供の私には御馳走なのです。卵だけ食べて残してしまい、父の母は私の替りに謝っていました。その人は私の曾おばあさんだったことは、いつ頃わかったのか覚えていません。だいぶ大きくなった、中学の頃かもしれません。そして、私の母は双子だったので、妹の母は私の曾おばあさんに育てられたそうです。
認知症になる前によく話していました。自分はH家の子供だと思っていたが、ある日突然、私の曾おばあさんの子供から、「お前はここのうちの子ではない」と言われ、母はそのことが、とても悲しくて悲しくて、泣きながら自分の家に帰ったそうです。小学生に上がる前だったそうです。
遠い記憶です。母の母、つまり私の祖母が88歳を過ぎ、病についた時に祖母の母はどんな人だったと尋ねたことがありました。祖母は「町の子だったから、百姓は一切しないで、機を織っていた。だから、私が田んぼも畑も一生懸命やった」と目を閉じて話してくれました。もっといろいろ聞きたかったのですが、祖母の具合は悪くなり、寝たきり状態になりました。母は姉妹と交代で祖母の看病をしていました。私は母を車に乗せて、祖母の家に行った日です。母は玄関から、すぐに仏間に行き手を合わせるのです。 何を祈ったのか尋ねると「爺さんに、はようばあさんを迎えに来てとねごうた」と、祖母は瀕死の状態なのに母はなんて冷たい人だろうか私は思いました。
あれから30年以上が過ぎ、私の母も85歳です。認知症を患ってから、10年が過ぎようとしています。
母の母、母の母の母と3代の母の記憶をたどってみました。3代の母の血は私の父方の血も流れているのです。生前父は母に苦労ばかりかけていたけれど、母はそんな記憶も薄れ始め、「お父さんはいい人だった」と言います。
そして、私は父の仏壇に手を合わせ「いつでもいいからね」とつぶやくのです。



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