2015年1月8日木曜日

静岡の旅2



先回からのつづきとなります。 
さて、東御門の見学は無事終了しましたが
雨はさらにひどく降り続きました。
そこで、思いだしたのです。
私の大好きな亡き叔母の嫁ぎ先が小出の御茶屋であること。
そして、ここは静岡、小出のお茶問屋のさらに大きなお茶問屋さんがあるはず
叔父に電話をかけると
「俺が話しておくから、そこからタクシーですぐだから行って見ればいい」
というわけで、あるお茶問屋の老舗へ4人は向かったのです。
叔父が電話をしてくれていたので、すんなりと問屋さんへ。

私たちは美味しいお茶を1杯ご馳走になり、
工場と大きな冷蔵冷凍倉庫の見学とあいなりました。
 「本当はもう1杯いただきたかったよね」と娘とひそひそ話しながら
エアー室へ

「異物混入の問題が一番神経を尖らせています。
お茶の葉には虫もごみもいっぱいつきますから大変です」と
機械による異物の駆除、さらに最終段階は目視が一番効果的と話されました。
お茶の選別機は大豆の選別機に似ています。
お茶の機械化、コンピューター化がこれほど進歩しているとは思いもせず
びっくりしました。
お茶の葉は大きな機械につめられて
3階立ての建物から2階の機械に自動的に落とされ、選別される作業工程は
酒作りのようでした。数種類のお茶に分かれ、それぞれをおおきな袋に詰める。
手作業はほとんど見られませんでした。
また、豆撰の何倍もある、広い大きなマイナス30度の冷凍庫はすごかった。
鮮度が勝負なのは豆撰の冷凍ボックス栃尾の油揚げと同じでした。
見学終了し外にでるとポカポカ気分になりました。

さてここで、大きな疑問が残りました。
ニュースでも大騒ぎ?商品に異物混入騒動。
確かに異物があることは100%許せない国です。
異物混入問題は大きく取り上げられるのに、東北の放射能もれ、
それによる子供たちの病は許せるのでしょうか?
命に関わる事は報道も抑えられ、命に別状ないことは大きく取り上げられ
下請け機関を苦しめている。
何だか?疑問?
さて、御茶屋見学も終了、駅まで車で送っていただき、
雨も上がり、商店街をぐるりと散策し、美味しいおすすめ居酒屋さんの本を購入し
一旦ホテルへ。
娘に本を渡し夕食の場所を選んでと依頼し
少しホテルで休憩する事に・・・・・・。
ここからがまた珍道中の始まりとなりました。
そして、このページ写真の真実へとつづきます。


静岡の旅1

娘夫婦と私たち夫婦の1泊小旅行は
「富士山をみる」ことでした。
6日の朝早くに上越新幹線に、次は東海新幹線へ。乗り継ぎ時間がなかったので
あわてて、電車に乗り継ぐ。「10号車 だぞ。」と後ろで叫ぶ夫、私は後ろを振り返ることなく
スタスタと3号車から10号車目指して歩きました。
10号車に入って、初めて切符を取り出すと
何と7号車と書いてある。振り返ると後方部隊は着いてこない。
夫だけが私を目掛けてかけて来る。
どうしてこうなるの?

東京から横浜を過ぎたころから「雨模様」でした。
天気予報は良くあたります。
静岡に到着と同時に雨の出迎えにがっかりです。
駅前のホテルに荷物を預かっていただき、観光案内へ。
市内観光のバスが30分置きに出ているとのこと。
時間を確認して、予定していた自社農園をもつ、フレンチのお店でランチを
しましょうと、
でも、待て、電話で予約をしましょうかと言う事になり電話をする。
「・・・・・・・・8日までお休みとなります。」
栃尾にいるうちから調べておいた、フレンチは
一瞬のうちに消えてしまいました。
仕方なく駅ビルに入り・・・・・・キョロキョロ。
娘婿殿は「お好み焼き」が食べたいと言う事で
フレンチからお好み焼きに方向転換。
私のお財布だけが声をたてずに、密かにニッカと笑っていました。
お好み焼きのテーブルに手鏡がかけてあり
いち早く、疑問を投げかけた外人婿殿、
あおのりが歯にくっついているかどうか見るためと説明書きがあり
私たち老夫婦も納得。
食事を終えると婿殿は娘に鏡を「どうぞ」
昼食はこれにて、一件落着。
市内観光バスに乗り込むことになりました。
雨足は早くなりましたが、第一目的地で下車「東御門」へ。
御門の中に入れるはずだったのに
夫は、「何もない、門だけだ。」と言い張る。そうかな?
雨は降り続き、寒さも倍増、とても駿府城公園どころではありません。
タクシーを呼んで帰りましょうと・・・
その時、門の天井からガサゴトと音がしました。
早速、雨にもマケズ、風にもマケズ、宮沢賢治になり階段を上る。
靴はびしょびしょです。
でも、良かった英語版と日本語版のテープがなんと「ただ」です 。
4人は揃って耳にかけ、御門の中へ、ここでも私の財布は微笑む。
なるほどと聞きながら歩く・・・・・。つづく

2015年1月5日月曜日

聞かない、言わない時代。

戦後70年を迎える栃尾
油揚げの歴史からみたらわずか70年
私が生まれる10年前のこと
長岡の空が赤く染まり、爆弾投下の事実を知らない
私の祖母は「きれいにみえた」と
生前に語ったことがありました。
祖母にしたら、爆弾投下、ましてや広島、長崎の惨事を知るよしも
なかったことでしょう。
戦後15年、私は五才位、戦争記憶が始まります。
戦争について両親も祖母も語ることは
ほとんどありませんでした。
鉄瓶と火鉢が没収されたこと
人種差別があったこと
戦争の傷跡をひきずり、路上で托鉢していた人がいたこと
それ以上教えられることもなく、小学校へ進む。
誰も、戦争をしていた日本について話さない、聞かない。
中学校に進んでも
本当の歴史を学ぶ事はありませんでした。
年号とタイトルと人物の名前を暗記するのが勉強だったのですから
日本の教育は先進国とはほど遠いものだったのかもしれません。
もっとも、勉強が嫌いな私です、自分から調べたりする事はありえませんでした。
だから、私の記憶はあてになりません。
ただ、ついこの間、おきてはならない福島のメルトダウンも
私が子供だった戦後のように誰も話さない、聞かない時代が来ないことを願っています。
新しい年を迎え、やたら戦後70年の記事が目に入りました。
私なりの戦後をちょっと思い出してみました。
それからビスケット、キャラメル、こっぺぱんは最高のおやつの時代。
カレーライスにはまるちゃんのソーセージが入っていました。
練り菓子、粉菓子、中華饅頭の引き出物は豪華絢爛のおやつ。

漬物には、旨味成分?味の素がかけられていました。
ああ、私の記憶は食べ物ばかり・・・・・・。




2015年1月4日日曜日

認知症母は大女優

イタリアに住む娘夫婦と妹の家族で夕べは食事会でした。

年末は忙しくて母の相手はしていられませんでした。
母の認知症はその日、お天気に左右されることが多いようです。
比較的お天気の良い日は、気分も爽快になり
言葉も出てきます。
深々と雪の降る日や雨の日は
行動しません。一日布団の中で過ごします。
私の名前すら間違うことも度々あります。
さて?1年ぶりに会う孫の事は覚えているだろうかと
一抹の不安を抱きながら
「ばあちゃんだあれ?」と聞く。
「kだこて、そんげんことわかるこて」と
照れ笑いが顔に映し出されます。
続いて、
「オバアチャン、オメデトウゴザイマス」と外人婿殿は母に挨拶。
すると母は私に「なんてゆうてる?」と聞き返しました。
私「聞こえてるじゃない、ばあちゃん日本語だよ。あけましておめでとうございます」

母「あけましておめでとう」と苦笑いをしながらの挨拶。
外人が発した言葉だから外国語だと思ってしまったようです。
この会話を見ていると、母は認知症のふりをする大女優に思えてしまいました。

2015年1月2日金曜日

餃子の旅から6世紀の時代へ

初めての地「宇都宮」へ
雪の降る栃尾からの脱出を新しい家族4人で試みる。
宇都宮と言えば「餃子」です。
ネットで調べたり、友人にお聞きして
あるお店をめがけて突入する、キョロキョロしていると
親切な初老夫婦が「どこをさがしていますか」と優しく声をかけてくれる
なんて日本人は親切なのでしょうと宇都宮の人に感動!
その有名なお店の通りまで、道案内していただきました。
そして、いざいざ・・・・・・。
ガガーン・・・「本日は休業」の立て札。
親切な夫婦はそういこともありかと
ドンキの地下にもあることを事前に聞かせてくれていました。
そこに行くと、長蛇の列、並びました。
たくさんのお店の餃子をいただくことができるお店でした。
味はそれぞれの嗜好ですので・・・・・・。
ここで、早速想った事は「栃尾油揚げ14店の味」を味合うことが出来たら
栃尾の町おこしができるだろうにと・・・・・・。
さて次は二荒山神社へお参り、人人人人の山。
それからタクシーに乗り」大谷石資料館へ
wt私たちは、6世紀へタイムトラベル。
大正8年から昭和61年まで
大谷石を掘り出し巨大な地下空洞が出来上がったようです。
広い空洞に灯される光が大谷石の深みを写しだし
神秘の世界へ導いてくれました。
手で触れる石は石なのに冷たさがない。
むしろ、温かさを感じました。
トムハンクスの『ダ・ヴィンチ・コード』と重ねて謎の迷路に
入ったような気持ちになりました。
ここで、私の脳裏には数々の有名人のコンサートや映画撮影が浮かび上がり
楽しい空間と楽しい想像の世界がはじまりました。

2015年1月1日木曜日

1月1日の朝一番散歩

元旦の朝は、あんこもちと雑煮、なますに塩サケ。
4人の老父婦2組の朝食からはじまりました。
8年もこのスタイルは変わることありません。
それでも、今年は2階に娘夫婦が寝ていることは嬉しいことです。
朝食をすませ、ひとりで雪の中を歩きました。
だれも踏みしめていない雪道・・・・・・。
長くつに雪が入り、足が冷たくなりました。
こんな状況は何十年ぶりでしょうか
母がかんじきで踏みしめる道つけ・・・その後ろを歩く私。
雪の壁はまるでお城の城壁で、真っ白できれいです。
母は書が好きな人でした。
「愛し合い信じあい心豊かな日々」と短冊に書いてくれた
8年前。娘がドイツに行くときに書いてくれました。
同じものを私も一枚もらいました。
でも、今の母は何も覚えていません。
足跡のない雪道を歩くと、母の記憶が消えていくように
私の道もいつか消えるのかと思うと、少し哀しくなりメガネがくもりました。
いろいろな事を考えて歩いている帰り道・・・・・・。
あら?我が家を通り過ぎました。
新年早々のおおぼけに一人笑ってしまいました。

焦らずに、少し立ち止まって歩こうかな

還暦までは馬のごとく走って走って来ました。目の前の人参を追いかけて来ました。今年歩く道は二度と歩けないのですから、少しゆっくりとのんびりと立ち止まって歩きましょうか?少しは友達、家族、のことを考えて歩きましょう!生きている限りが嬉しいことであり感謝出来ることですから、苦しい時、悲しい時は、今日の今を思い出しましょう。