2025年4月9日水曜日

白い妖精たち

 栃尾の街から少し離れた所に荷頃とういう村がある。村の一番外れの家から数百メート先の山道を歩く。山道の入り口に手作りの立て看板がある。立て看板には200メートル先と書いてある。

雪が溶けたばかりの山道は秋に落ちた杉の枝や杉っ葉で埋め尽くされて、とても歩きにくい。坂道になればドロドロのどろんこ道だ。長靴を履いてきたから良かったが、滑って転んだらひとたまりもなく服は泥まみれになることを想像して一足一足歯を食いしばりながら上る。ちょっと、よろめいたがセーフだった。このスリルは一体なんだったのだろう。半世紀も前の子供だった頃の私が歩いていた。

道の両脇からかぶさってくる木々が陽の光を遮って小さなジャングルだ。ゾクゾクする。

細長い沼地が見えてくる。ありました。見つけました。緑の葉に囲まれた白い妖精がポツポツ。咲きはじめたばかりだから若い感じがする。こんなところにあるなんて、秘密の場所で妖精たちは自分たちの居場所基地を守ってきたのだろうか。くねくねした沼地は続いてた。ありがとうミズバショウさん。30分足らずだったが、昔を思い出し幸せ気分になりました。

帰り道で出会った老夫婦さんは長靴を履いていなかったけど、大丈夫だったかしら。


2025年4月7日月曜日

あじみあじみはいいもんだ

 ババにはひとりだけ孫がいます。

イタリアに住んでいます。

小学2年生です。

ババと孫はラインでいつもお話をします。

この日も、いつものように孫からラインがきました。

「今日は抹茶ロールケーキを作るの。見ていてね」とペンギンさんのついたエプロンをつけて大喜びです。

まず、紙に材料のメモを書きます。

コムギコ100g

さとう100g

たまご白5個

たまご黄色5個

ぎゅうにゅう40g

サラダオイル40g

メモを書き終わると今度はたまごを割ってたまごの殻に黄身を残し、白身はボールに落とします。

黄身が割れて白身に入ってしまうとメレンゲができなくなるらしく、ママに注意されます。失敗したたまごは5個です。だから全部で10個も使いました。

失敗したたまごは明日のお弁当に入れる卵焼きにする事にしました。

白身を電動泡立て器で混ぜます。孫の手は小さいので結構重くて大変そうです。

「ババみてみて、だんだんフワフワになってきたでしょ」

ママが少しずつ砂糖を入れます。孫が混ぜます。

ババはパソコンの画面をみて「上手だね」と声をかけます。

すると孫は指にフワフワの未完成なメレンゲをちょっとだけのせて

「あじみ、あじみ。ババ美味しいよ」と大きな目をさらに大きくして大満足の笑顔。まるでお日様の顔です。

味見は一回でなく何回もしました。

「さとうの固まりがあったよ」

今度はママが混ぜます。ママはメレンゲの入ったボールをひっくり返しています。抹茶を入れてさらに混ぜ混ぜ

これでメレンゲの完成です。

次にたまごの黄身と小麦粉とオイルを入れて

孫が混ぜます。この時ママは作り方のポイントを孫に伝えています。「混ぜるヘラを縦にして、切るように」と言います。メレンゲの入った生地はトロトロになっていい感じです。孫はここでも「あじみ、あじみ」を繰り返しました。一体何回味見をするのでしょうか?

ママが言いました。「あら、少しオイルが残っています」と。オイルは水と違うのでコップにくっついていた分が残ったのかなとババは思いました。

最後に抹茶を漉し器に入れてトロトロの生地に入れます。もう一度サクサクと混ぜます。

一番最初に準備していた型にトロトロの生地を入れます。ここはママの仕事。

オーブンに入れて待つ事17分。

その間に生クリームを作ります。

生クリームに砂糖を入れて電動泡立て器で混ぜます。孫は手が疲れてきたのでママとバトンタッチ。

フワフワの真っ白い雲のような生クリームの出来上がり。

するとここでも孫は「あじみ、あじみ」と言いながら泡立て器についたクリームを丁寧に舐めていました。

待ちきれなくなった孫はオーブンを覗きに行きました。ババからは見えませんでしたが、

「膨らんでいるよ」とルンルンスキップ声で孫は言いました。

ようやく焼き上がった抹茶スポンジに生クリームを塗ります。ここはママの仕事です。くるくると上手に巻いています。

出来上がりです。さあ食べましょうか?

いえいえまだです。出来上がった抹茶ケーキは冷蔵庫で2時間冷やさないと生クリームが溶けてしまいます。

「ババあと2時間お話ししていないとだよ。いいね」

ババは4時から7時まで、ラインで孫とお話ししています。その上、あと2時間も待っていなければなりません。一体全体全部で何時間ラインをしている事になるでしょうか?

そこにジジが帰ってきました。ママが言いました。「ババも疲れたから、抹茶ケーキが冷蔵庫に入っている間お風呂に入ってくれば」

そこでババはジジとバトンタッチしてお風呂に入りました。

さて、いよいよ入刀です。

あら、あらお皿にとり分けられた抹茶ケーキの真ん中に赤いものが入っています。

ババはその赤いものを入れるところを見逃していたようです。

美味しい美味しいとペロッと食べ終えるとお皿についた生クリームを舐めている孫。

ババは「お皿がピカピカになって洗わなくてもいいね」と言います。

するとジジが言います。

「パスタをズルズルと音を立てて食べるのと同じだよ。皿は舐めないんだよ」

ババはニヤニヤ、孫もニヤニヤ。

してはいけないことは楽しい。

抹茶はババがイタリアに持って行きました。抹茶ロールケーキを作ろうとアイデアを出したのは孫。抹茶ロールケーキの指導はママ。

親子3代の共同作業でしょうか?








2025年4月5日土曜日

くまさんのハンカチ

 このお話はババのお友達のお話です。

お友達の犬のボニーが天国に召されました。

お友達は悲しくて、寂しくて、仕方がありませんでした。

ボニーと一緒に散歩した小道をひとりで歩くと元気だった頃のボニーを思い出して、涙があふれました。

ある日、ボニーと一緒に歩いた道に、ポリ袋やタバコの吸い殻、空き缶がいっぱい落ちている事に気がつきました。

そこで、お友達は小さなキャリーバックとトングを用意しました。

そしてボニーと散歩した道に落ちているゴミを拾いはじめました。

ある日、電信柱の隅に小さなハンカチを見つけました。ハンカチにはくまさんの絵が描いてありました。とてもかわいいハンカチだったので、トングで拾わずお友達は腰を曲げて、自分の手で拾いました。そして、ゴミ袋に入れることはやめにしました。

もしかしたら、このハンカチを落とした人がこのハンカチを探しにくるかもしれないと思ったのです。

そしてそばにあった杭の上にくまさんのハンカチを広げてみました。

すると自転車に乗った少年がやってきて、言いました。

 「おばあさん、そのハンカチ僕のです」

少年はお家に帰ってポケットの中にハンカチが入っていなかったので帰ってきた道を急いで戻ってきたのです。

「僕のハンカチを見つけてくれて、ありがとうございました」

おばあさんも少年もとても嬉しそうに微笑みました。

ババはこのお話を聞いてハートがドキドキジャンプしました。








1個から2個そして8個

 いとこからいただいたアマリリス

一個の球根から

2本の芽が出て

膨らんだ

そしたら4個の花が咲いた

もう一個も4個の花が咲きそうだ

心がフワフワになって

ご褒美をいただいたようだ

美味しいものを食べたみたいな気分

ありがとう ありがとう ありがとう

あなたの優しさが8個の花を咲かせてくれた

ありがとう

2025年4月4日金曜日

リンゴ四分の1

 ひとりの朝

冷蔵庫の冷凍ご飯と

白菜菜花をザクザク

味噌とたまごを入れて

出来上がり

メールが届く

「今日はラーメンを食べて帰る

8時頃になる」

それからリンゴ四分の1だけ切って

皮を剥き食する

四分の3をラップに包み

冷蔵庫に


2025年4月2日水曜日

長岡空襲

明治生まれの祖母の言葉をおもいだす。山に登って見る長岡の空は夕日のように綺麗だった。と言った。生まれたばかりの赤子をおんぶして、子どもらを連れていったのだろう。

その日から10年後に私は生まれた。父は24歳母は23歳だった。あの日の父は14歳、母は13歳だったことを今数えてみた。今は祖母はもちろんだが父も母もあの時の赤子も死んでいない。

下記記事をあらためて読む。いつまでもいつでも戦争を繰り返す人間は一体何者であろうか?

8月1日の午後9時6分、長岡の夜空に警戒警報のサイレンが鳴り響きました。続いて午後10時26分、警戒警報は空襲警報に変わり、直後の10時30分にB29による焼夷弾(しょういだん)爆撃(ばくげき)が始まりました。


 B29は一機また一機と焼夷弾を投下しました。夜間低空からの容赦無い無差別爆撃によって、長岡のまちは瞬(またた)く間に炎に包まれていきました。
 猛火の中を、母の名を呼び、子の名を叫んで逃げ惑う人びと。多くの人が炎に飲み込まれていく様子は、地獄絵さながらだったといいます。
 空襲は、8月2日の午前0時10分まで続きました。1時間40分に及ぶ空襲で、市街地の8割が焼け野原となり、1,488人の尊(とうと)い生命が失われました。
 925トンものE46集束(しゅうそく)焼夷弾等が投下され、163,000発余りの焼夷爆弾や子弾(しだん)が豪雨のように降りそそぎ、長岡を焼き払ったのです。当時の市域で、焼夷弾の落ちなかった町内はないといってよいほどすさまじい空襲でした。

2025年3月26日水曜日

ひとりごと

一喜一憂 暇と倹約を決意して半年 食洗機をやっぱり回す

年金満額もらい5年 ありがたいと思いながら 通帳をながめる

昼寝をしないと体力がもたない どうして体重は成長するのか

ピアノの練習 時間ではない 集中力なし

自分は自分 自分らしく 修行が足りない

昭和の歌の歌詞が今になってわかる

明日からと何度誓ったことか 暴飲暴食

買わないはずのものが届くらしい アマゾン 確かめることが面倒だ

気にしない 気にせず 気にしている

明日はいい日になりますように

日日是好日







2025年3月18日火曜日

別れ

 別れの夜は、孫にとっても娘にとっても、もちろん老夫婦にとっても寂しものです。学校の送り迎えも最後になって、孫とふたりで洋服選びも寂しさが手伝って、一つの約束が増えていきます。娘の手料理を食べる。「ジジ、今日はレストランでないからお家だからズルズル食べてもいいよ」なんて言われ、かわいそうでもあり嬉しくもあるジジ。ババのプレゼントしたドレスをまとい日本のアニメソングを熱唱する孫。「ちょっとはずれているね」と思ったけれど、上手上手と褒め称えるババの気遣い。朝孫を起こしに行くと小さな声で「どうしてもっと長くいられないの、今年はもう来ないの?」と言う。なんとしおらしく。今までさんざんババはおデブとかイタリア語の発音が悪いとかババをコケにしていた孫だったが、この一言に胸がジーンとする。「また来年来るよ」と不確かな指切りをする。

ミラノまで送ってもらい、老夫婦はスイス経由成田へと向うはず、何よりなんで来る時はパスしたじゃん。充電モバイルが荷物検査でひっかってしまった。容量が大き過ぎとか言っていた。交渉の余地なし。あたしゃ帰国したいんだよ。えええどうぞ、置いていきます。きっと転売するかもとブツブツ独り言。顔は愛想よく残念そうなふりをする。まあしょうがない。

とにかくイタリアとさらば。飛行機座席隣りの女性はイエメンの人。東京と京都一人旅だそう。旦那様は仕事でアメリカだそう。油揚げ作りの写真を見せ「日本で有名」と大口を叩くババ。もちろん会話はでたらめ英語。それでもなんとか会話になるもんだて。ジジは長岡に迎えにきてくれた友達に「俺は恥ずかしくてしょうがなかった」と。

あれまあ、今度は日本で時差ボケで眠れない。

日日是好日

2025年3月15日土曜日

イタリアの決まり

 イタリアといえばパスタとpizzaと思いがちですが、地域の郷土料理はたくさんあります。牛肉、豚肉、とり肉にしても煮込みもあれば、ステーキもあり、カツレツもある。リゾットもサフランを使ったものやひき肉を使ったものなど、今回は娘の家にいることが多かったので家庭料理が堪能できた。マナー違反が多くて注意を受けてばかりでしたが。

パスタとサラダのメニューならば、パスタを先に食べる。パスタが伸びないうちにらしい。甘いものとしょっぱいものがあったら、交互には食べない。味が移ってしまうから。孫にも「そうしちゃあだめなんだよ、ババ、ジジ」と指摘される。いやはや疲れるもんだよ。食事くらい勝手にさせてよ。と心の中で叫ぶ。

交通マナーも随分違う。信号のない横断歩道は止まってサッサと渡る。車は歩行者を優先にするのです。日本とは違う。これはドライバーとしては見習う必要あり。だが路駐が多くて右も左も車で埋め尽くされている。多分100年以上の建物が多くて、建て替えることがないせいだろう。車社会の方が遅くて駐車場が少なすぎるのである。と推察した。

日日是好日

2025年3月14日金曜日

どこから始まったの

 トリノには世界で二番目に大きなエジプト博物館がある。

外観の煉瓦色は歴史の重みを放っている。会場に一歩足を入れると、紀元前エジプト帝国の神秘的で不思議な世界が広がる。紀元前3,500年に作られた、ファラオの壮大な墓、石棺、彫像、雑貨、調度品に加え、塩漬け肉やブドウの残骸が入った陶器の鉢など、どうして保存できたのか不思議の数々。西洋人の顔は横幅がなく堀が深い。東洋人は大きな顔でのっぺらぼうに近い。人類はどこで合流したのか、どう変化し、知識を得て今日に至っているのだろうか。紀元前に築いていた文明の不思議は私には謎解きも説明も理解できない。私がエジプト文明について学校で習ったのは中学生だったような気がする。それから、時が過ぎ随分考古学者やAIによっていろいろなことがわかっているようだ。今孫は小学生2年生である。3年生になるとエジプトの歴史を習うと婿殿は言う。世界史の勉強はかなり早くから始まっていることに驚く。ちなみにイタリアの小学校には事業参観はない。塾もない。宿題は金曜日に出されるだけ。教育の指導指針は日本と全く違う。同じといえば携帯、iPadの普及だろうか。ここまでの人類の発達、AIの征服力に恐怖を感じてしまう。

あたしゃ日本に戻ってら、AIでなく耕作農民から始めてみようかと思っている次第である。ミイラ殿聞いていますか?

日日是好日

2025年3月9日日曜日

トリノの一泊

 モンッツから車で北へ2時間弱でトリノでした。トリノの街は古く、バチカン市国を思わせる宮殿が観光客を集めている。碁盤の目のような街の中心はとても1人では歩けない。どこがどこの道かわからなくなってしまう。1861年にイタリア王国成立の最初の首都だけのことはある。広場を囲む宮殿、博物館数々のレストランにショップと日本とは全く違う。教会も古く1600年代に建てられているそうだ。昨日見終わった映画「将軍」と同じ時代である。天下泰平を誓って徳川家の繁栄のために戦さを繰り返していた時代。ここでは職人芸術家は仕事に溢れ、巨大な文化遺産と建築遺産を残したのだろう。イタリア国成立前はやはり貴族、王宮の権力争いで農民はたちはどんな日常だったのだろうか。ふと自分の今と交差させている。子供の頃だ。ちょうど今の孫の年頃。不思議なランプの話が大好きだった。空飛ぶ絨毯が欲しくて欲しくて、庭に風呂敷を敷き、小高い山から遠くの空を見上げて私は見たことのない世界へ飛んでいく。この妄想は私の一人遊びを実に楽しませてくれた。また時にはゴザを敷き安寿と厨子王になり、船に乗り別れ別れになるシーンを一人三役して泣いているのだった。なんて言う時代の差だろうか、孫はイタリアと日本を毎年のように行き来してイタリアの文化と日本の文化を学んでいる。ステーキが好きだ。寿司が好きだ。デザートは何にしようかなど孫は当たり前のように食する。レストランなんて行ったこともない。肉が入っているといえばじゃがいもに埋もれた豚肉数切れだった。田んぼの小川で捕まえたドジョウやらヤギの乳、おやつは味噌おにぎりに決まっていた。そんな時代だったがとても懐かしい。

孫の遊びにごっこ遊びは欠かせない。「私はお母さんよ、ババはベビーシッターね。そしてこのこ子の父さんはいないの。戦争で死んじゃたの」と言う。贅沢の中で育っているけれど戦争は短に感じているようだ。トリノの街は幻想と現実を行き来する街である。またミラノに次ぐ工業都市のせいか観光客以外の人々も多く土曜の世界女性デーの日でもあり、地元の人で賑わっていた。

続いてエジプト博物館を今日は見学予定です。

日日是好日

2025年3月7日金曜日

イタリアの日常

 二日間、これと言った特別のことはなく老夫婦は過ごした。時差ボケもやや解消されてきた。日本にいる時と変わらず、就寝後は4時間で目が覚めてしまう。老夫婦の間には「ババとジジと寝る」となんと可愛いことを言う孫かと思えば、夜中に大泣きしてママのところに行く。あたしゃ疲れているんだから。本当は一緒に寝たくないのに、孫のためと自分を殺して一緒に寝てやっていたのにと心の中だけで思っている。朝食は白飯に目玉焼き、ワカメ味噌汁、持参した味付けのりを娘が用意してくれる。ああ、日本人だよ、湯気の出ている熱い汁を音を出して啜る。一口飲むとふーかあーか感嘆符音。日本の食べ方なんですよ。そばだってすする、ラーメンもビールひと口口にすれば感嘆符音がでる。やれ、音を出すな、すするな、食事のマナーの違いには来るたびに神経を使う。老人夫は気をつけているのだが、ガチャガチャ、ズルズルで孫にも「それやっちゃあダメなんだよ」と言われる。その度にわたしゃあ、娘婿殿に気を使い、ドキッとする。この国は小学校は5年制である。登校には必ず保護者がついていく。まあ日本の保育園と同じである。危険がいっぱいのお国だから仕方がない。重いリュックは大抵保護者が持っている。夫は孫の荷物持ち係だ。それから掃除洗濯と娘が家事をする。その間私は「将軍」を観る。我が家ではみられなかったので、イタリアでは絶対見てやるぞとイタリア企画に入っていたのだ。徳川家康がモデルであることは知っていたが登場人物の名前は変えられていたため、すぐに理解できなかった。2話くらいからようやく理解する。6話まで観た。観終わったら次回感想文を書きましょうか。さて、それからスーパーやら市場に行く。市場は木曜日と土曜日。イタリア人もいればアラブ人もいる。みんな愛想が良い。野菜の品数は日本の倍くらいある。筍のようなミニサイズで青い野菜。イタリアで何度も見るが食べたことがないので買ってもらう。茹でたその野菜を一枚一枚剥いでオリーブオイルと酢と塩のドレッシングをつけて食べていく。2個も当てがえられたので、非常に手間がかかって食べる野菜だ。もうわかったもういらない。市場では魚の種類も大きさも量も日本とは違う。切り身パッケージなんてもんはない。必要な量だけを買う。肉もそうだ。日本はパック社会。だいたい何でもかんでもパックが好きである。もちろん必要ないプラスチックトレーに見た目よく並べられている。自宅用ならバラ売りで十分だ。環境にも優しい。油揚げも袋なしバラ売りを提案したいよ。市場での買い物は夫のカードである。「遠慮しないでジジの食べたいものを言えば」と妻は夫に助言。夫はそれどころではない。両手に3つも大きな袋を持たされ、まだまだこの時とばかりに買い物は続きましたから。こんな日常生活はイタリアに来た時だけです。これを幸せと言ううのかよくわかりませんが

日日是好日


2025年3月6日木曜日

ボローニャと栃尾

滞在5泊目は、ピサの斜塔を後に ボローニャに電車で着く。陽射しも陰り始め駅に降りるとかつて滞在したどの街よりも清掃されて綺麗である。しばらく行くと大きなアーケード(雁木)が続く。中世に建てられたアーケードの長さと広さは何百人もが一度に歩けるようだ。街人も鎧を纏った軍隊も貴族もここを通り抜けたのだろう。雨や風をしのいで、たったたったと大勢の人が歩く足音が聞こえてくる。石ので作られている巨大なアーケードの理由は栃尾の雁木通りと同じである。木で建てられたものもあった。どこの国でも人間の考えには共通点があり、発展がある。中世の発展から現在の発展までの道のりを想像したら人間の能力はとてつもないと思う。また家と家の間を流れる川は小さなベネツィアでインスタ映えの名所となっていた。栃尾にもある。川の上に街が建っている。このふたつもの共通点で町興しができないものだろうか。

マッジョレー広場を中心に権力を誇示するために建てられた塔がいくつか残っている。高い塔もあれば低い塔もある。修復中の高い塔はピサの斜塔のように傾いていた。ヨーロッパで最初に建設された大学は今では大きな図書館になっている。解剖学を学んだ講義室は木の彫刻が目立つ。サン・ペトローニオ聖堂も広場の中にある。アントニオ ディ ヴィンチェンツォの手により1390年に着工が開始されてから長い年月が経っている。建設当初は世界で一番大きな聖堂となる予定が、600年以上経過した現在も完成しないままとなっています。街から離れたらワイン畑などトスカーナ地方の魅力にも触れたかったたが1泊滞在ではじっくりと見学はできなかった。二度と訪れることはないボローニャを後にする寂しさは老人であることの認識でもある。娘家族と過ごす目的も大事であるが、世界のことをあまりに見知らずして歳をとってしまった。と娘に話すと、今からでもできる。と言う。日増しに衰えを感じている老人に何ができると言うのか。今更と頭の中から声が聞こえてくる。でもまだ出来ることもあるはずと今更を打ち消す自分もいる。あっという間のジェノバからピサそしてボローニャの旅は終わって娘家族の新居に戻る。時差ボケと旅の疲れが出て睡魔が今の悩みを救ってくれる。

日日是好日

2025年3月4日火曜日

ピサの斜塔の不思議と魅力

   ジェノバからピサの斜塔観光までは電車を利用し、娘と孫と私たち夫婦で行く。婿殿は仕事のためジェノバ駅でお別れ。私たちは指定席に乗り約2時間の車窓を楽しむ。イタリアの海が続く、海の崖風景は宮崎駿のアニメ風景によく似ている。イタリアがモデルだったかな?モンッツアに戻ったら宮崎駿のアニメをもう一度観てみようか。

ピサの駅から大きな橋を渡たり、街を通り抜ける。この風景は過去のイタリア観光地と似ている。と言うかどこもかしこも同じに見えてくるってことは、記憶力の低下に他ならない。両脇の中世の建物は小さな老人を飲み込み、疲労を与える。孫と一緒にイタリアを回ることができるるのはあと何回だろうか?娘に呆れられるほど、日程を何度も確認する夫を見ていると夫も確実に歳をとっている。私もである。

駅から歩くこと30分、両脇に中世の建物が並ぶその中央にピサの斜塔の頭が見えてきた。夕陽に照らされて白亜の塔はおとぎの国を連想させ美しく、清楚なドレスをまとっているようだ。建物をくぐり抜けそのそばに行くと想像していたよりも傾いて見えなかった、斜塔から大聖堂広場へ歩き斜塔と距離を置くと、傾いている傾いている。4度くらい傾いているらしい。とにかく観光客はみんな手を塔にかざして斜塔を支えるポーズを写真に収めている。ふむふむ我々も同じポーズをこっちであっちで、カメラマンの指示に私の腕は斜塔を支え過ぎて痛くなった。

もういいよ。疲れた。今日は宿で夕食にしよう。

今流行りのフロントもなし従業員もなし、暗証番号をうち、部屋に入る。ベッドとリビングがあり、屋根裏にもベッドあり。螺旋階段の屋根裏はババは落ちたら大変無理。孫は大喜び「まあまあいいじゃあない」と生意気なことを言っている。連日続きのレストランに飽きたので、この日は質素倹約。娘は買い出しに行き、青梗菜の炒め物に豚と牛肉の中華炒めをゲットしてくる。味はともかく移動しなくていいことは疲れない。この日は早く寝て、早く起きて、ピサの斜塔に上るぞ。

大聖堂の鐘楼であり、世界遺産、高さは地上55.86m、階段296段を上るはずである。1173年着工1372年完成。600年以上前の歴史、傾いてよかったのか悪かったのか。

さて、準備万端だったはずだが、ここには純粋たるイタリア人婿はいない。チケットを買う場所がよくわからない娘。当然我々は全くわからない。ウロウロするだけ。行動ではありません。頭と首の運動です。

はてさてどうするの日本人3人は停止。

こうしたハプニングは旅の想い出となるわけで、前日のミステリーの続きをしましょう。婿殿のご両親は結婚45周年、その時以来どんな来客にも使わなかったステンドグラスのワイングラスをこともあろうにあの老人夫は首にかけていた携帯の紐で引っ掛けて、見事に爆破させてしまったのです。唖然、私はちびまる子の顔。どうしてくれるの、何をするの。となったわけです。おまけにもう一つ今度は自分は夫よりしっかりしているとまだ私の方が若いと思っていた私がですよ、夕食レストランで首に下げるバックを椅子にかけて、それを置いたままレストランを出てしまったようで、駐車場で夫が鬼の首を取った如くバックを渡す。呆れることと爆笑の渦。孫のババに対する評価はまたまた減点。寄り道終了。

困った時は本物に聞くに限る。娘は携帯でチケットを婿に取ってもらいことなきを得る。

ピザの斜塔は、その傾いた姿が特徴的です。紀元前からローマ帝国の海軍基地として機能していたピサ市は、11世紀ごろから地中海の貿易国として栄え、15世紀初頭にはフィレンツェ共和国に占領され、その歴史的な背景を甦らせるピサの斜塔に上るぞ。だが入場まではI時間ある。孫は斜塔を描くと言う。夫は警護隊になり私と娘はサンドイッチを買いにと言い訳をしてコーヒーを一杯いただく。孫の描いたピザの斜塔の描写は7歳にしてはうますぎだ。孫馬鹿なり。「みんなが荷物を持っていないよね」と娘が気がつき、係員に聞きに行く。荷物は全て荷物置き場に置くそうな。やれやれよかった。ロッカーに入れて、斜塔入り口に並ぶ。ルンルン気分の孫。だが、斜塔の一階広場の傾きに恐怖を抱きはじめる。狭い大理石の螺旋階段は滑る。石が減って中央が凹んでいる。傾斜を感じる。すれ違った日本人の子供は怖い怖いと泣き叫んでいる。日本語ペラペラさんはそれを聞き、ますます恐怖の渦の中に突入する。「ババ、ネパールに比べたらへいっちゃらって言ってたでしょう」遅れ気味のババに罵声がとぶ。しょうがないよネパールは自分のペースで登るけど、ここは否応なしで上らされる。泣き叫ぶ孫とハアハアゼイゼイのババでした。その後ピサ大聖堂を周り、心の中でみんなおんなじだよなーと呟くババ。

日日是好日


2025年3月3日月曜日

想い出アルバムはここにも

 2025/2/28

夜中の12時近くになってしまった。娘夫婦の新居は白くて、洋風の小さな館だ。夫婦と子供ひとりの新居としては十分すぎるくらいに広い。壁には思い出の写真がいっぱい飾ってある。

どの部屋に行っても娘夫婦の出会いから去年、日本で撮影された孫の七歳のお祝いまでがびっしりとかけられている。その中で小さい額縁の写真に目が止まる。そこには若き日の父がいた。髪は黒く、村一番の美形だった。私は残念な事に母そっくりだ。背は低く、鼻は上を向いている。10歳違いの叔母は父の妹で美人に生まれ、栃尾の三人娘クレオパトラか楊貴妃か小野小町かと言われたそうだ。美人は薄命なりだった。

それはどうでもいい事で、まさかここに父がいて孫たちに囲まれている写真があるとは思いもしなかったので、「どうして、泣いているの」と孫に見つけられた私はそくさくとその場所から離れた。娘は多分十歳で姪っ子は四歳、甥っ子は生まれたばかり。33年前の写真だ。この頃は丁度豆撰を立ち上げたばかりで、死に物狂いで朝早くから夜遅くまで働いていた。休日もなく家族と一緒に過ごすこともできなかった。だから父は娘を頭に3人の孫の世話人だった。私にはこの頃の思い出がほとんどない。込み上げる涙が堪えきれなかった。そして亡き父に感謝した。

思い出のアルバムはどこで見つかるかわからないものだ。

心地よいベッドルームを与えられ、70歳この上ない幸せを感じながら眠りにつく。

普段から寝ることが不得意の私である。3時間後には目覚めてしまい、日本に残した心の重い扉を開いていた。

朝食は新居の目の前にあるパン屋さんに孫から連れて行ってもらい、クロワッサンを買う。生ハムにコーヒーが用意されている。家族団欒の朝食に感謝する。

今日は婿殿のご両親に謁見だ。5年ぶりだ。婿殿の父親は病後、リハビリを拒否をしたため杖なしでの歩行は無理でせいぜい数十歩であった。

私たちは婿殿の母上から手作りのお料理を振る舞ってもらい、ボーノの連発。食器類は結婚祈念のお花のお皿やクリスタルのグラス、この日のために新調したテーブルクロス。そしてコーヒーカップは新婚旅行で求めたギリシャもの。思いっきりの歓迎に感謝する。そして、特に野菜たっぷり煮込んだスープに孫は「見た目はあんまり良くないけど、めっちゃおいしいんだからね」と私に一生懸命伝える。ノンノと孫の血のつながりの深さを感じ、感謝するババでした。

さて、この晩餐のために45年前のクリスタルグラスの一つがどうなったのか、ミステリーは翌翌日に続きます。あとで書きましょう。

翌日は婿殿の別荘へ。くねくね道はどこまで続くのか尾道のようないやそれよりも長くて狭い道を登ること30分。別荘の木の壁、タイル貼り、家具など全て婿殿の父上が手造りで仕上げたらしい。ここにも思い出アルバムがたくさん並べられていた。庭には黄色の妖精がいっぱい咲いていた。幸せ色を届けてくれる水仙さんありがとう。山の上はまだまだ寒くて、別荘を後に街のレストランへ直行する。海の幸がずらーり。アンチョビ、タコ、真鯛などが並ぶ。浦島太郎のように竜宮城でもてなしを受けて、その上ビールにワインに大喜びする我が夫。この国は飲酒しても車の運転は問題なし。自分で自分に合う量のみ飲むからだ。パスタもムール貝にエビ三昧。わたしゃあ、もう食べれれません。

半島に出て入江を歩き、海猫にご挨拶。イタリアはどこに行っても観光地である。

夜は日本の家族だけでレストランにいく。小高い丘の上に1000年前に建てられた教会がある。装飾品などなく実にシンプルであるが古きものの良さを醸し出している。大理石をはじめイタリアは石造りだ。日本の明治時代に建てられた館で見る石畳は木の中に異質が混じるので目立ち感激するが、ここの地では当たり前なので感動はもうちょっと薄れている。

この続きミステリーは明日書けるかな

時差ボケは続き今はイタリアは夜明け前の3:43

日日是好日



2025年3月1日土曜日

イタリアへ関所は厳しい

 2025/2/27

今回のイタリアの旅は成田空港からチューリッヒ経由ミラノの行き。朝5:30に栃尾出発、昨夜作っておいたおにぎりとお茶をかき込み急ぎ、出陣です。スムースに成田到着、スイス空港機のマークは白地に赤く日の丸の丸が十字架ですから全く考える必要がありません。覚えやすい国旗は、簡単便利のレシピ集のようです。15時間の飛行は今までより2時間くらい時間がかかります。ウクライナとロシアの戦争のせいです。東京から太平洋に出てアラスカ経由でなんと無駄なことでしょうか。そしてもちろんエコノミークラスに乗りました。最後のイタリア旅行はせめてビジネスクラスに乗りたいものですが、その最後の時に預金が残っているかどうかが問題だと考える、20年も先なら絶対に預金はない。いや待て、最後が今日だったら一生エコノミーで終わりとなるわけで。と余計な事を考えながら、通路脇の座席は足を十分伸ばせ,スクワットもできました。ただし追加料金は支払いました。長い機内での時間の過ごし方は読書と映画映画映画。いつも思うのですが英語がわからないことは全く持って損です。まるで人生において損をしたような気になりその一瞬のみ落胆するのです。海外旅行の度にこの落胆は続くのですが日本映画を捜すしかないのです。そもそもタッチパネルも英語ですら、日本映画を捜すことも一苦労。ようやく見つけた映画は「52ヘルツのクジラたち」内容は重いけれど、杉咲花の演技力に吸い込まれてしまう。朝ドラにもいい演技をしていた志尊淳の演技もなかなか良い。テーマは最近の社会情勢なのだろう。ネグジェクトやらジェンダーについて投げかけている。この種の映画は実は苦手である。心が拒否反応を起こし、見終わるとドッと疲れが出てしまう。しかしこの映画には拒否反応を超えた俳優の演技力に引き込まれる。脚本が良かったのだろうか。

ご覧になっていない方にはおすすめ映画でした。

乗り換えチューリッヒまで2回の食事と2回のおやつを食し、なんとか苦痛の痛みの時間を過ごす。そしてチューリッヒに到着。この空港は広くて綺麗である。ごみひとつ落ちていない。ゲートA73を夫は間違い、私の記憶とどっちが正しいか確認する以外はスムーズに行きミラノ行きにようやく乗り換え、目指すはミラノ。1時間後にミラノ到着。娘家族が出迎えているはずだ。どんどん歩く、人も歩く、荷物は?でもここではないのかな?その便によって場所が違うかなと立ち止まり考える能力は残っておらず、スタスタスタスタと人の波についていく。あれ 違うここではないやっぱりスーツケースをとりに行かなければと戻ろうとしたら、あのいやらしい警告音でストップされてしまう。絶体絶命だ。立ち止まって身動きできない老人ふたり。この出口一歩手前の監禁に慌てる。ここからどうする老人ふたり。どうすればいいのかと繰り返すこと数分。遠くに係員。監禁室から日本語で叫ぶ。係員は駆けつけてくれるが、日本語は通じない。いつもの和製英語とゼスチャーでスーツケースをとり忘れた事を理解してもらうが、もう絶対に戻れないと言う。「ゴー、レストラン、チンクエ」ふむふむ「レストランをレフトに行き5番のところに入りグルーっと回る」名探偵おばさんはコナンのごとく解読し、OKサインを送り出口に。そうだここで何回も待ち合わせしたこの場所だとババさんは確信する。係員の言う通りにその5番の入り口に立つことはできた。だがしまっていて入れない。待て待てイタリア家族が来ているはず彼らと遭遇する方が早い。彼らはイタリア語は得意なのだから、ババコナンの頭の回転はまだまだ生きている。涙の再開。劇的なハグ。のはずが喜びは待て待てと追わずけ。事の真相を説明。呆れる娘夫婦。何回イタリアにきているのと怒られ、私たちはただただ土下座して謝るのみ。5番の入り口を開けてもらい、そこの係員に事の次第を伝えてもらい、老夫婦は関所に入り通行手形を見せる。ラストワンに行くように指示される。カウンターにはラストナンバーはない。どんどん右に進んでみると先ほどの関所の係員がストップと老夫婦を引き止める。ラストワンとは一番最後のカウンターってことか?と戻り順番を待つこと30分そしてやっと担当と話すが全く通じない。荷物が届かない?荷物の番号がわからない? 問答をパソコンで繰り返すが埒が開かない。娘に電話したいがWi-Fiは繋がっていない。またもや絶対絶命の危機に晒される。コナンババさんはジジに荷物番号の紙を出してと言ってそれを係員に見せる。荷物の居場所確認をとってもらい一件落着。1時間がとっくに過ぎてしまった。

ミラノから娘家族の新居までは1時間。車に乗せてもらいやれやれと言うわけで今回の旅の目的新居見学に辿り着い次第です。

日日是好日

2025年2月22日土曜日

雪の心

 令和7年2月22日

3:27  目が覚めた まだ暗い

寝室の温度は下がっている

お隣さんの落下式の屋根の雪はまだ落ちない

4:00   除雪車のガーガーの音に安堵する

降り続ける雪 雪 雪 雪 雪

ホワイトアウト すれ違う車が雪の中に

15:00  お日様が庭の木々に積もった雪を落とす

あたたかい心で雪はとけていく

あたたかい心がほしい

日日是好日


2025年2月20日木曜日

可哀想だから

  生まれけり 死ぬる迄は 生くる也

武者小路実篤

原田マハの「独立記念日」の一編から届いた言葉です。いじめにあった時にかけてもらった言葉を今度は自分が教え子に届けた言葉。

イタリアの娘から

水仙にかけてある枯葉をもう取ってもいいかな

夫は霜にあたったらかわいそうだから、そっちはもう大丈夫か と応えたらしい

娘は

私は植物がかわいそうだなんて思ったことがなかった と言う

いやいやそうではないでしょう

十分に植物を愛する事を知った

あなたのお父さんはそういう人だよ

生かされている今を大切に生きる也・・・・・・。

日日是好日

2025年2月19日水曜日

仕舞うとは

 仕舞うとはどう言うことでしょうか。

娘の面白かったよとメールが届いたのは、半年以上前のことでした。恩田陸著「蜜蜂と遠雷」

上下の単行本をアマゾンで取り寄せたのは、その直後でした。届いて数ページ読んだものの、その後この本は登山用のリュックに置き去りにされたまま。

そうそうあの本どこに仕舞ったかしらと探して見つけたのです。

1ページ目から読みはじめる。Amazonから届いた時に数ページは読んでいたことを思い出す。待て、待ってこれは映画化されていたのではと思い、携帯で蜜蜂と遠雷を探す。松坂桃李が主演で映画化されていた。私は観たのだろうか?いやみみていない。

読み続けていると私の隣に黒くて威張っているような感じさえするピアノがちらつく。11月14日にネパールから帰国して、一度もピアノに触れなかった。そして、2ヶ月が過ぎようとしている今日。この本はピアノコンクールが題材だ。そのせいかピアノが気になりはじめ、私は本を閉じる!そして、ピアノに向かいスタンドをつける。ピアノに威嚇されているようだ。好きではないハノンを練習する。上がって下がっての繰り返しなのに、指がまるで毛糸がほどけなくなったように絡んでしまう。音痴の私には苦労そのものだ。たたく音は違っても指の動きは同じなのに絡まって仕舞う。3回繰り返すと、もう嫌気がさす。うまく指が動かなくて、頭でコントロールしようとするからだ。上流から下流に流れる水のよう流れに添えられたらいいのに。やめた。課題曲「夢」の楽譜を取り出す。去年から練習しているが私にとってはこれは難曲である。逃げてる、逃げたいのにこの本は無理やり私をピアノの椅子に座らせてしまった。本当はピアノをお仕舞いにしたかったのだ。ピアノを弾きはじめて3年が過ぎていた。ネパールから帰国して間もなくのある出来事のせいだ。

「蜜蜂と遠雷」前編を読み終え、後編に入るとドキドキする自分がいた。そのドキドキは私にかかわってくる周りの人たちの苦悩と私の苦悩が何重にも映し出されて仕舞う。

学校に行って勉強しなければ生きていけないの。高校を卒業すると未来が見えるの、大学に行かないとダメなのですか。

今まで私は何を生きがいに生きてきたの。走馬灯のように浮かんでは消える。自分を肯定したり、否定したりする。これでいいの?3食作って、掃除をして、洗濯をする。いつの間にか私は主婦のような毎日を過ごしいる。いつもより早いペースで本を読み、映画を観に行き、Netflixもほぼ毎日観ている。とりあえず一番一緒にいたい人とも1日の大半を一緒に過ごしている。でも、心は満たされない。

本の中の登場人物は偉い人で、ある意味天才的な存在の人が多く描かれている。苦難、難行を乗り越えてこそ的なことも多い。この本はとても面白くはまっていく、いつものペースの倍速で読んでいる。しかしわからない漢字もカタカナの横文字の意味も正直わからないことが多い。 だからソナタロ短調とか聴いたことのないピアノ曲の名前をネットで調べYouTubeで聴いてみる。

耳慣れしていない曲に感動なんてしないよ。それに逆立ちしたって譜読みなんてできない。シャープの数を数えて、楽譜の5線に鉛筆を置きド、レミとか小学生が算数を覚えるように数えている自分にこんな難しい曲はわからない。わかる人はどれくらいいるのと半ば脅迫めいた自分がそこにいる。

後編を読みながら、大雪でエサが見つからないムクドリが庭のエゴの木に止まって餌を探している様を可哀想だと見つめたりする。いよいよ終盤が近づいてきました。耳にはオーケストラのバルトーク3番、本読みとYouTubeで聴くの同時進行。その時ぽろんと届いたメール。豆撰かしらと携帯を覗くと、なんと びっくりしました。心の片隅でいつも待っていた方からの豪雪お見舞いと近況報告。

私はすぐに返信しました。

「ありがとうございます。体調が悪かったのですね。1つ歳をとるごとに私も年齢を感じています。お気をつけてください。今私は「蜜蜂と遠雷」を読みながら、全く知らない曲をYouTubeで聴き、覚えてはいられませんが、この曲なのねとかこんな曲初めて聴くわとか、読書に合わせて音楽を楽しんでいるところでした。だから、あなたのメールが愛しくて、懐かしくて、心が震えています」

今日で3日目の大雪に私は家に閉じこめられている

「1ヶ月ほどイタリアに行ってきます。皆様お変わりありませんか?春になったら泉慶さんに行ってみなさんとおしゃべりしたいです。本当にありがとうございます」と夢中で返信しました。コロナ前に知り合って、私がピアノを習うきっかけの人でした。楽器屋さんで旦那さんは調律師そして彼女は大正琴の家元。知り合ったのは豆撰に良くきてくれるお客様は金髪、おしゃれな服を身にまとっている。「いつもありがとうございます」とはじめて感謝の言葉をかけてみる。そこには外見とは違う人を引き寄せる優しさがあった。音楽家だからだろうかと初めて言葉を交わした時を振り返っていた。

「蜜蜂と遠雷」いつもよりハイスピードで読んでいます。読んでいるうちに、天才とか努力とか感性とか、特別な人間はその特別なものに振り回されて、悩んで、苦しんでいる。才能のない人の方が普通にゴロゴロしていて、いやむしろ普通にできない人の方が多いかもしれない。普通に生きられたらそれでいいのに。普通以下だとダメなの?才能と天才の素晴らしさの中で完成されていく人間像に感動しながら自分の70年の人生を振り返り、私の人生の仕舞い方を考えている。71歳に向かっているのだ。

日日是好日






2025年2月17日月曜日

独立記念日

 結構重い雪になってしまった。サラサラ雪ではない、湿った雪だ。私の心もこの雪のように重い感じがする。

イタリアはとても治安が悪いから、携帯は首にぶら下げてきてと言う。あと10日で娘家族の新居を訪問する。そこで今日は携帯の紐を買いに行ってきた。

それからイタリアのトスカーナ地方の映画をNetflixで観る。小さなお城風の館を改装して料理教室をはじめる父と娘のほんわかなハッピーエンドな話。一昨年に連れて行ってもらった。なんとなくスイスっぽい感じがしたような。

1日3食作るということは、1日に費やす時間が約3時間必要である。掃除洗濯を含み。

夕食後にちょっとだけピアノの練習をする。昨日のレッスンで注意されたところを思い出しながら、滑らかに、その音を残して弾く。いやあ、難しい。数回練習して今日のレッスンはおしまい。

さて、本題です。私の好きな作家原田マハさんの「独立記念日」を開く。随分前に購入してキッチンのカウンターに置きっぱなしだった。

ホットケーキではないパンケーキが恋しくなった話。思い出すなー。10歳違いの叔母は料理をしなかった。私の母が嫁としていたからだろう。その叔母が唯一作ってくれたのはパンケーキではなくホットケーキだった。蜂蜜の代わりに砂糖たっぷりだった。60年も前。ケーキもめったやたらに食べられない時代のホットケーキは甘くて最高のおやつだった。ホットケーキのお供は「コンバット」と言う映画だった。天国の姉ちゃん覚えていますか?

さて、私の独立記念日はいつになるやら?

日日是好日

2025年1月31日金曜日

メガネが逃げた

白内障手術後の視力は左右ともに⒈2に回復。ただし老眼は老眼のままである。

そこで、老眼用とサングラスを新しく購入しました。メガネは体の一部ですから多少のお金がかかっても仕方ないと自分を納得させています。

午後から新聞をちら読みし、ダスキンさんの「喜びのタネまき新聞」を読み、そうこうしているうちに畳屋さんが新しい畳の入れ替えに来てくれました。

20年も経つと畳も障子も襖も傷みます。私の顔なんて70年も過ぎているので、鏡には対抗心を抱き、なるべく見ないように心がけている。目は二重だったのがどうしてか一重になって、まぶたは落ちてしまっています。挙げ句の果て眼科で「痛くもないのですがいつも目の中がゴロゴロしています」と言ったら「白目にも皺が入るのでそれは仕方ないです」とあっさり、バッサリ言われ。畳はいいよなあ、新しく取り替えられるのだから。

さて、畳屋さんが帰ったのでピアノでもするかと、新しいメガネをとメガネケースを開いたら、メガネがない。カーペットの下、座布団の下、トイレ、ベッド、洗面台とありとあらゆるところを何往復もして探し回るがないではないか。ジジ様が間違って私のメガネを持って行ったに違いない。電話をすると「自分のメガネも忘れたんだ。人のメガネなんか持ってくるはずないだろう」 ではもう一度、午後からの自分の行動を追ってみることにする。まさかと思ったが一応娘の部屋を覗いてみることにする。どうして、ここにあるのでしょう。メガネはひとり歩きするのか?かくれんぼが好きなのか?するとメガネが言いました。「気をつけてください。畳は新しくすればきれいになりますが、あなたの認知症はどうにもなりません。私には足も羽もありません」

日日是好日




2025年1月29日水曜日

雪の花

 今日は夫と一緒に映画「雪の花」を観てきました。種痘を命懸けで子供らに接種させた実話です。

私の肩にもその跡が残っています。膿が出て包帯をしていた記憶があります。

登場する医師たちと村人の思いは三本の矢のように松坂桃李演じる笠原という町医者だけでは成し遂げることはできなかったことでしょう。偉大な業績を現代に伝える役割の映画かもしれません。俳優陣の力も大きく脇役に役所広司さん、吉岡秀隆さん、三浦貴大さん(五藤利弘監督作品花蓮に登場していたことを思い出しながら)たちの渋い演技が物語を進めて行きます。もう少し深掘りするシーンがあってもよかったかと思います。難儀をしたという見せ場が軽いような気がしたのは雪国に70年住み続けた栃尾人だからでしょう。子供を背負って吹雪の中を歩くシーンは名場面なのでしょうがちょっと軽く感じました。映像は少し曇りかかった撮影方法でしょうか、この映画の思いを表現するためにの技法なのでしょうが、個人的にはスッキリくっきりで俳優陣の顔がみたかったです。

ラストが見える映画は心が休まる反面、若者に伝わるだろうか、とふと思ってしまいました。

歴史を知る映画こそ若者に観てほしいと願うババでした。

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2025年1月28日火曜日

おてがみとお守り

 昨日は夫と「雪の花」を観てきました。ありのままを受け入れたら、心温まる映画でした。映画についてはまたの機会お話しすることにします。

帰宅して気晴らしに豆撰の仕事を少しやり、仕事といってもシール張りです。でも誰かがしなければならない仕事でもあります。

夫は新聞紙を束ねたり、空き缶やら段ボールをゴミの日に出せるように整えています。すると「お母さん、Tさんから小包が届いているぞ」と私の手に渡してくれました。ちょっと硬くて丁度本の大きさでした。何の本だろうか?と小包を開けると小さな袋に伏見稲荷大社のお守りが入っていました。そしてもう一つの硬いものは八ツ橋でした。そうそう彼は京都に行っていたんだ。その時のおみやげなんだ。まあわざわざありがとうございます。と思って小包を片付けようとしたら中に和紙に書かれているおてがみがありました。上手とはお世辞にも言えないけど一字一字が丁寧に書かれていました。

私が第一線を離れ元気がないことを感じ取っていたのでしょう。伏見稲荷の頂上で買ってきたお守りですからご利益があると思います。と書かれてありました。そして「礼子さんが元気になられることを祈っています」とありました。

おみやげもありがたいですが、何よりも私を気遣ってくれたおてがみの一文字一文字に涙が溢れ止まりませんでした。

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2025年1月26日日曜日

言えない秘密

 じっくりとした映画でした。ファンタジーよりも味の濃い映画を好んで見ている私にとっては、自分でも驚くほど似合わない映画かと思いながら魅入ってしまいました。サブタイトルをつけるとしたら「ピアノのうた」かしら。21年前に死んでしまった彼女が今に帰ってきて彼と出会う。生まれてくる人は誰かの生まれ変わりだという人がいる。生まれ変わりなんて絶対に信じない私である。それなのに、時々私は誰の生まれ変わりかしらと思うことがある。

絶対ないことがありうると思わせる映画だった。ピアノを弾く映像に「上手いな」と自分のピアノレッスンと比較する。宇宙の果てほどの距離があるのにとひとり笑う。弾くことはできないけど聴くことはできる。物語(映像)とともに鑑賞できたら、音楽音痴の心にもグッとくる。そんな映画でした。108歩を歩く少女は一歩一歩時間を生きる。一歩ずつでいいから私も心の中を108歩歩いてみようか。

不思議に思ったのは涙ばかり流す泣きばーさんが涙なしで観たことだ。

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2025年1月24日金曜日

あなたの優しさに

 久しぶりに豆撰に行きました。会議のメンバーが集まる時間より少し早く行きました。デスクには私の代わりに姪っ子が座っています。若者と老人の交代はどこの世界でも当たり前のことです。経営状況を聞きまずは一安心。

それからスッタフのYさんが私に寄ってきてくれました。優しく私を見つめる瞳にありがとうを1000回いえもっともっと言いたいくらいに嬉しかったのはなぜでしょうか。道標を失って、糸の切れた風船は萎んで水溜りに落ちて、道行く人は萎んだ風船をふみ、車は容赦なく風船をちぎり割いていく。

そんな時にあなたが寄り添ってきてくれた。真夏のオリオンで教えてもらった。終わりはこれからのはじまりの第一歩。70歳は私の第二の人生のはじまりかもしれない。それに気づかせてくれたのはYさんです。


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2025年1月22日水曜日

真夏のオリオン

 終戦日は負けたのではなく、これから生きることだった。映画「真夏のオリオン」は敵も味方も道標を失わず進むことが大切と教えている。だが昨日のアメリカ大統領トランプ就任、どうか道標を間違わないでほしい。

いろいろ複雑な思いを感じながら観た。潜水艦や魚雷の知識が全くなかったが潜水艦は戦いの船は切なく悲しい沈没船のように思えてならない。それでも、玉木宏の温かい瞳と北川景子の初々しい瞳にホッと胸を撫で下ろさせてくれた。

あれから80年が過ぎようとしているのに、世界は戦争を続けて途絶えることがない。人間は浅はかで学習能力に欠けている生き物であり一番恐ろしい生き物だと思う。

この物語がフィックションか史実なのかは分からないが、生きることを選択させるテーマに心が熱くなった。

経済という金儲け主義が独裁者を生み出し、戦争を引き起こす。そうでない人もたくさんいるのに、どうしてそうなっていくのだろうか。わからない。

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2025年1月17日金曜日

土を喰らう十二ヶ月

 沢田研二主演の静かな映画「土を喰らう十二ヶ月」を観る。いい映画だった。

長野の古民家風農家は懐かしい台所だ。井戸水が流れ、釜戸で炊いたおこげ。たまらない匂いがする。匂いと共にむかし、むかしに返ったようだ。私の少女時代を写していた。

冬からはじまる雪の世界は昔の我が家そのものだ。雪の中から掘り出す大根。糠漬け。あの頃は美味しいとは思わなかった。それしかなかったから食べていたが今では心が落ち着く食べ物になっている。

沢田研二にはジュリーの面影がなかったが、俳優としての深みが感じられた。ナレーションも静かにたんたんとしている。心にスーッと入ってくる語りだ。脇役の日野小平さん、映画にも出ていたのか、とご冥福を映画を観ながら祈った。奈良岡朋子さん、壇ふみさんらの演技はなんて自然体なのだろうか。今日を生きるための大切なお守りのようだ。明日生きているかどうかなんて誰にもわからないだろうが、生きていた証は誰かの心に残る。

里芋焼き、たけのこ、せりなどが食卓に並ぶと、余生を畑仕事に趣きを置く夫そのものだ。畑仕事は一日一日が大事でなかなか旅行にも行けないので、もう畑はやめたらどうかと、時々夫に口説く自分が間違っていると思えてくる。

義理母のお葬式シーンも懐かしい。朱塗りの腕に胡麻豆腐。私には時間があるのだから今度作ってみようと思った。

そうね、我が家は跡継ぎがいないから散骨もいいかもしれないと思った。

どのシーンも静かである。ランプの灯りが似合ういい映画だった。沢田研二のエンディング曲もいい。甘くて透き通る声は健在というかいやそれ以上に物語を完成させていたようだ。

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2025年1月10日金曜日

雪国の知恵 雁木

 昨日、大雪注意報が出ていましたから、豆撰まで久しぶりに雁木を歩くことにしました。自宅から豆撰まで片道40分くらいかかります。平橋を渡り天下島を通り過ぎ、雁木に入ります。玄関前の雁木はその家の敷地になります。そのよそ様の雁木を遠慮なく私たちは歩くのです。夏は日除けになります。雨や雪、風の強い日は濡れたり吹き飛ばされることはありません。傘もささなくていいのです。

よそ様の雁木通りには多くのお店もあります。ちょっと覗いて歩きます。味噌屋さんに酒屋さん、洋服屋に床屋、豆撰ではありませんがあぶらげ屋もあります。都会の街並みと違って綺麗さとか今風のオシャレ感覚はないのですが、風情があり、心がなんとなく落ち着く。

結構長い雁木通りです。雪にあたらず北風にもあたらず歩けるって、なんて素晴らしい雪国の優しさでしょうか。10年くらい前、栃尾で撮影された映画「モノクロームの少女」を思い出しました。冬の雁木通りも映画にあったら良かったのにとふと思いました。

仕事を終えて歩く雁木通り。足取りも軽く自宅に戻りました。

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2025年1月9日木曜日

幸せの列車に乗せられた少年

 1940年代を舞台としたイタリア映画「幸せの列車に乗せられた少年」

イタリア映画はほとんど観ていない。イタリアの映画であることとタイトルに惹かれて観ることにした。バイオリン演奏者になった主人公の少年時代を描いている。イタリア南部の貧しさは、戦後の日本と同じように映る。戦争が幸せを奪い親子を引き離す。

私の娘は北イタリアに住んでいる。北と南はあまり仲良くないと聞いていたが、南イタリアの貧しい子供達を救済したのは北イタリアの人達だったとは全く知らなかった。そういえば娘婿殿は貧しい子供達に少額ではあるが毎月寄付していると聞いたことをふと思い出す。

それにしても愛情表現はそれぞれである。愛すればこそ愛する我が子を手放す。愛していることの表現は思っているだけでは伝わらないのではないだろうか。ラストシーンは想像通りだったけれど、バイオリンを質屋から取り戻していたことには涙が溢れる。育ての親の愛情、生みの親の愛情。愛情には違いないのに表現で伝わり方が変わってしまう。

今日は誰もいないリビングで泣いたことを子供の頃お世話をしたSちゃんにメールしたら、私から貰ったお守りをずーっとカバンにつけています。と写真とメールが来ました。

私を慰める表現だったのでしょう。

日日是好日



2025年1月5日日曜日

思い残すことが減った?

 2025年1月5日

昨日は続暴れん坊将軍を見てみようかとテレビをつけたが、あまりにも作られ過ぎていて、途中でスイッチを切り、眠りにつくには早すぎると思いつつ眠ることを決意した。案の定、目が覚めてしまった。スマホで時間を確認すると0:15 とある。と言うことはまだ2時間しか経っていないじゃあないか。いやーこりゃあ困ったものです。目を閉じて眠ることだけ考えると、ますます目は冴えてくる。そのうちなんだか心臓が振れてくる。こんな感じであの世に行ったらどうなのかと想像は雲の上まで広がってきた。

昨日は何年ぶりかでセーターを買った。それもセールだった。その上アプリを取得するとさらに1000円引き。携帯操作は定員さんがやってくれた。19500円のセーターがセールで14500円になったその上1000円引き。つまり13500円になったわけだ。心の中で微笑んでいた。それでカードを出す。大人の休日倶楽部カード。すると定員さんが15000円のポイントが貯まっていますけれどどうなさいますか?と聞いてくる。やったーと心の中で大喜び。喜びは極力抑え、「すみません使わせてください」と言う。つまりお金を払わずセーターをゲットしたわけです。今、心臓がもし止まったとしても昨日ポイントを使ってしまったから、それはそれで思い残すことが減ってよしよし。

その後は続きものの小川糸さんの「キラキラ共和国」を読む。腕が疲れる前に布団から抜け出している腕が冷えてきたので、読書はおしまいにする。目が冴え切っていたはずだがそのまま眠りについたようだ。

目覚めた朝はまだ4時を回ったばかり

日日是好日

2025年1月4日土曜日

続き マリア様のような

 星野富弘さんには奥様がいらっしゃたことを知りました。

星野富弘さんはなんて素晴らしい人かと思っています。そして奥様はまるでマリア様のような人。

日日是好日


2025年1月3日金曜日

もう 3日が過ぎていく

 何もすることがなく過ごす2025年の1月3日。昨日まではなんとか持ちこたえたが、今日こそ何もない。お天気が良かったので見附に行ってパンを買いたかった。シャッターに張り紙、今日まで休みだった。本明付近、粟ケ岳が顔をのぞかせて、裾野はいい感じに白雲だ。そうそう31日紅白歌合戦の氷川きよしの場面のようだ。一度休んで戻ってきた氷川きよしは情熱的だった。歌は相変わらず上手い。31日は紅白歌合戦を観ていたはずだったが、知らない歌が続いたのでうたた寝をしてしまった。でも、氷川きよしの歌声で目が覚めたのでした。

話を元に戻しますが、粟ケ岳は実に幻想的で、スマホで撮りたかったのです。しかし、空は真っ白な雲に覆われて、写真に撮ったら粟ケ岳がボケてしまうから断念。栃尾の冬ってどうしてこうなのかと隣の夫に八つ当たりする。怒ってもどうしようもないことなのに。

原信によってインスタトのパスタのタレを買う。来客もない正月だから毎年作っていた鰊漬けも伊達巻もしない。作ったのは大根生酢とのっぺだけ。たったふたりの正月は実に寂しいものです。楽しみといえばイタリアに住む孫から届くビデオ電話だけ。ババの発音はダメ(イタリア語)とかババはだんだん?そう忘れてばっかりいると指摘され。私はわざと「あら、その子はどこの子だったかしら?」なんて言う。

暮れには、結構大掃除を頑張ったつもりだったが3日間掃除機もかけずにいるとゴミが目立つってことを知りました。白内障手術前は全く気にならず、見えなかったのか?それでも、どうずり(面倒くさいと思うこと、怠け者)な私は気づいているのに掃除をしない。暇だ暇だと5分おきに夫に言っているのに。

私はできるよ、まだなんでもと思う。ところがもう一人の私が何言ってるのよ忘れてばっかりでしょ。と嫌味を言う。

ああ、ああ。何もしないうちに5時になる。またご飯である。

日日是好日

2025年1月1日水曜日

星野富弘画集 いのちより大切なもの

 姉ちゃん(10歳違いの叔母)が死んで半年も過ぎないある日。今から23年前私は店の階段から落ちて、正確に言うとハシゴを上がっていたらハシゴがまっ逆さま倒れ、私は宙を舞った。1秒か2秒にも満たない空中時間だったが、とてもとても長く、きっと大怪我になる。半身不随になったら車椅子になると考えた。ドンと言う音と共にコンクリートの廊下に落ちると、起きあがろうとしても体が動かなかった。全く動けなくて、これは覚悟せねばと思った。誰もいない休日の出来事です。その時丁度豆撰に来た姪っ子の真奈美にお父さんを呼んできてと頼んで、駆けつけた義弟から救急車を呼んでもらった。夫と救急車は同時くらいにきて私はタンカーに載せられ、夫と一緒に病院へ運ばれた。レントゲンを撮ってもらった。骨折場所が何番目とかでなくて良かったと言われた。半身不随を避けられた。

動けない生活が1月ほど続いた。奇跡みたいだった。

それから3年前?いや4年になるだろうか?今度は蓼科でハンモックから落ちて骨折した。落ちた瞬間にわかった。骨折だと。落ちた場所は石だった。すぐに、1回目より大変だとわかった。でも半身不随にならなかった。お友達から救急車を呼んでもらい長野の諏訪病院へ運ばれた。思った通りだ、また骨折。奇跡だ。またしても半身不随は免れたが背骨と背骨の軟骨が潰れて痛みは取れることなく今に至っている。

そして昨年無謀とも言えるネパール「アンアプルナトレッキング」に参加する。この6日間歩き続けられ下山した時私は三度目の奇跡を感じた。

二度目の骨折の前に心臓のカテーテルも受けている。

今2025年を迎えられたことイコール生還したような気がする。

大晦日に届いた星野富弘さん画集を手にすると、どのページも涙なくしては読めない。言葉も描かれている花も生きている。

日日是好日