2015年12月31日木曜日

サウンドオブミュージックへの想い

大晦日、一番に観た映画はサウンドオブミュージックです。
最初に観たのは15歳。
初演は1965年だから11年後に観てから、
実に46年の歳月が過ぎたことになる。
中学3年の私が、長岡のグランドで観た記憶がよみがえる。
最初のシーンは素晴らしい山の風景である。
右から左に移動する画像の美しさは
いずれ紹介予定の豆撰と栃尾の動画のようだ。
この映画が進むに従って想い出す。
この映画は私の夢であり、目標となったからだ。
マリアがフリップ大佐の子供達に接する姿を見て
保母になりたいと想った。
子供達に辛い時はうたって、踊って、笑える
仕事がしたいと想ったのです。
実際は映画の世界とはと違って、歌の下手な私。ピアノが弾けない私の
苦労と努力は大変なことでした。
そんな遠い昔を思い出しながら、15歳の自分の純な心に感傷的になりました。
エーデルワイスを歌うトラップ大佐は結構若い。ハンサムである。
15歳の私には、おじさんに見えたのも無理ありません。
第二次世界大戦を背景に
大佐の信念は、今だから理解でき、感動できます。
大佐の婚約者の貴婦人の目線と表情に助演女優の
貫禄を感じ、修道院のいたずらに
思い出し笑いをすると私。
この映画の歌のメロディーを口ずさみ
子供達と歌ったドレミの歌を懐かしむ。
大晦日に観るに、なんとなくふさわしい映画だった。
子供達に必要なものは、愛である。

来月には劇団四季サウンドオブミュージックを観る。
映画と舞台の違いを感じてきたいと思っています。
今日に二作目は…….?あとで。

2015年12月27日日曜日

親不孝のわたし



豆撰に必要なものを急いで取りに行きました。
妹の家です。
私の生まれた家です。
父が眠っています。

玄関を開け、必要なものを取り
急いで立ち去ろうとする私に

「ほら、礼子、サザンカがきれいに咲いてるだろ、そんげん急がんても
みていけばいいねか」と
寂しそうに私を引き留める声がしました。

仏壇に手を合わせることもせず
お水を上げることもせず
帰ろうとした親不孝の娘

サザンカの花が囲いの中で窮屈そうに
咲いている
雪の降らない土地だったら
おもいきり手足を伸ばし
咲くことが出来るのに

雪国に生まれ育った宿命と親不孝の自分に
涙がにじんでしまいました。


2015年12月24日木曜日

映画「花蓮」にはもう一つ大きなテーマがあるのでは・・・・・・。

映画「花蓮」にはもう一つ大きなテーマがあるのでは・・・・・・。
茨城のレンコン農家、栃尾の米つくり農家
全国の抱える農家の問題はTPPを含め、とても深刻だと思います。

土浦の蓮田が続く風景を車窓から眺め

蓮の花の咲くころを想像すると、素敵な気持ちになりました。
栃尾の棚田の黄金の絨毯が風になびくと
稲の香りがただよい
心が和みます。

しかし、近年はいろいろな農業問題から
跡継ぎ問題とそれぞれの抱える問題は大きい。

栃尾で兼業農家をしてきた我が家でさえ米つくりを今年でやめることにしました。
栃尾の棚田は一体いつまで守れるのでしょうか
茨城のレンコン農家はどうなのでしょうか
「花蓮」の中に登場する両親の気持ちの変化は
ここにもあったのではないでしょうか
息子がレンコン農家を継ぐならば、
タイ人のお嫁さんを祝福しなければという両親の気持ち。
栃尾の農家にも外国からお嫁に来ている人がいます。
茨城のレンコン農家でも同じなのではないかと思ったのです。
農家の後継ぎ問題はこれから栃尾も茨城も
日本の農家の大きな課題を映画の中で投げかけていたのではないでしょうか。


米つくりをやめると 決意した夫は
「娘が帰ってきて 田んぼするわけないからな・・・。」
とつぶやきます。
私は夫の虚しい気持ちを知りながら

「アメリカに行っている娘が出来るわけないでしょ」と
強い口調で返答するのです。

私と同じ立場の人も多いのではないでしょうか
親として観る「花蓮」、主人公の立場として観る「花蓮」
優柔不断な青年に「こんなへなちょこはダメ」と思う方
年齢を問わず多くの人が自分の立場で観る「花蓮」はどうでしょうか
映画は観る人によって、あらたな物語が生まれるのかもしれません。

 http://ibarakinews.jp/news/newsdetail.php?f_jun=14508591355652


2015年12月18日金曜日

一日って24時間?

12月も半ばを過ぎました。
朝から夜遅くまで仕事が続き
少し、息切れ状態です。
まったく家庭の仕事はできません。
なんとか毎日やることは
朝食作りとお洗濯。
そしてお風呂掃除。
冷蔵庫の中も、戸棚も
気になりますが、仕方ありません。
目をつむっています。
それでも夫が夕食を作ってくれるので
本当に助かります。

大晦日からのお休みは
お掃除をすることに決めました。
それから、映画を見て、本を読んで・・・・・・。

去年は娘夫婦が帰国していましたが
今年は婿殿のお国へ帰ります。
ちょっと寂しい感じがしますが
あちらのご両親も首を長くして娘夫婦を待っていることでしょう
今年は私たちが我慢しましょう。

それにしても一日の過ぎるのは早すぎです。
このスピードで過ぎたら
あっという間に
玉手箱から煙が出てしまい
私はおばあさんになってしまいそう

スローモーションになったら、それも困ってしまいそう。

時間ってその時その立場によって早くなったり、遅くなったり
不思議です。




2015年12月16日水曜日

認知症なのか天然ボケなのか

3ケか月に一度の診察
待合室で実母の血圧をはかる。
普段微笑むか、うなずくか、声をなるべく出さないように
脳が命令しているはずの母
「痛い、もういい、やめてくれ」と
待合室のみんなに聞こえそうな大きな声を上げる。
「ちっとばかだから我慢しんばんろ」と小さな声でささやく私。
血圧を測り終え待合室の椅子に腰かける。
なかなか椅子までたどり着かない母(2メートル弱) 
つい、
「もっとスタスタと腰をのばして歩いてよ」と
母は耳がとおいので ちょっと大きな声をかける。
ようやく?私の隣に座るとその隣に車いすの老婦が
母に声をかけました。
「長くつは歩きにくいですよね、おばあさん。
年をとるとわかりますねえ」と母に話しかけ私の顔をみて
ニッコリ。
ああ、きっと私はなんて意地悪な娘と思われただろうか・・・・・・・。
次に、私はトイレに行きました。
すると隣から「戸があきません。どうしたらいいですか」と叫ぶ声。
「ちょっと、待ってください。ひらくと書いてある方へレバーを上げてください。
そしたら縦に長いつかまり棒を引いてください」
「あきました。ありがとうございました 」と70歳くらいの
婦人でした。
このトイレは折り畳み式のドアだったのです。
その間、母に私のバックみていてねと頼んでおいたのです。
母はバックの紐に、しっかり手をかけて待っていました。
認知といえど、結構しっかりしてんじゃん。

母は昔から天然のところがあって
私たち姉妹は認知症に気づくのに少し時間がかかったのでした。
今日の母は認知症なのか天然ボケなのか? 

写真は病院の中庭でみつけました。
忙しい合間のホットなきもちにさせていただきました。


2015年12月13日日曜日

海難1890を観る

歴史が動いているような映画でした。
1890年明治中期にトルコから明治天皇謁見の旅。
600人もの船員を乗せ、和歌山の紀伊大島へ流され座礁する。
その座礁前の船の中の様子は
トルコ人の陽気で心の温かさが伝わる。
一方、島では人の良い医師田村と許婚を亡くしたハルが
島民のために働く姿、そして島民の心根を描く。
この船内と島の映像が交互に動くのです。

トルコ人の上官とボイラー操縦士の友情
医師田村とハルを交えた島民の生活・・・・・・。
そこからは、もう大変です。
交互に動いていた歴史が合体するのですから。
トルコの座礁船から島民の精一杯の助け
我を捨て、生きている人を助ける島民の心。
傷ついた船員たち・・・もう涙が止まりませんでした。
この場面からは目を覆い、あふれる涙を必死でこらえて
スクリーンの中に入り込んでしまいました。
トルコ人を救った島民の真心は、海軍大尉ムスタファの
心を開かせます。
海で死んでしまった許婚をムスタファに重ねるハルの心情。
映画の中の海のきれいなシーンが涙をこらえられなく私の
胸にささるのです。

やはり、私はここでも娘を想わずにはいられません。
国が違えども「真心」が通じ合えば、助け合い、愛し合うことが出来るのですから。
生き残った船員の帰国
最後に帰国する海軍大尉ムスタファの胸の内
計り知れない「命」の形見「月と太陽」を海に投げ込むシーンは
考え深いものがありました。
涙が乾かないうちに
第二部に入りました。
1985年のイランイラク戦争場面。
ムスタファとハルが時を経て再会するのです。
私は勝手にそう決めつけたのです。
フセインの攻撃シーンになると、今度は海外生活の長かったNさんを
想像していました。
きっと、この戦火を潜り抜け生きてこられたのだろうと
そう思うと、また涙が止まらなくなりました。

日本人がトルコ人を真心で助ける、トルコ人が日本人を真心で助ける。
そこには駆け引きが全くない。宗教も資源も全く関係ない。

涙の瓶を受け取るベギールの妻の号泣。小道具の使い方に
胸が高鳴るのでした。


田村演じる内野聖陽とハルの演技もいい。そして村長演じる笹野喬史
俳優陣の熱い演技に絶賛でした。

いつか、紀伊大島に行ってこの「想い」をふたたび
あの海で感じてきたい・・・・・・。





2015年12月12日土曜日

保育士の問題

今から27年前は現役の「保母」を職業として
社会福祉法人の保育所に勤めておりました。
保育園の給与が低いから、保育士を辞めたり、資格があっても
他の職についてしまう・・・・・・。問題が取り上げられているようです。
確かに、ハードな仕事の割には、少ないお給料だったかもしれません。
でも、
今から思えば、20歳そこその私には、はじめてのお給料は大金でした。
父に4万円を家計の足しに差し出していたほどです。
そして、手元に2万円以上も残るのです。
こんな嬉しいことはありませんでした。
だから私にとっては、お給料が少ないとは全く考えたことがありませんでした。
だんだん年数を重ね、それなりの昇給もあり
楽しい保育園生活でした。
年中さん年長さんと過ごす保育園生活は
忙しいけれど満足感、充実感のある仕事でした。
私にとって、一番苦しかったのは?ピアノくらいでした。
毎日2時間くらい練習をしていました。
娘が生まれてからも・・・・・・。今思うと、育児放棄だったかもしれません。
今となっては、お給料のことも仕事量も大した問題ではなく
楽しかった懐かしい日々となっております。
さて、問題の・・・・・・
確かに国の補助金は少なすぎます。
補助金の中から人件費を割りあてられているのですから
当然、ベテランの保育士の多い保育園は財源がなくなります。
だから、お給料は低くおさえられるのでしょう。

子供たちのお世話をする仕事は
大学の先生より大変だと私は思います。
はじめて、親から離され頼れるのは保育士なのですから
保育園では母親のようなものです。
つまり、人間形成において一番大切な時期だと思います。

措置児に対する補助金を増やすことは将来の日本を担うこどもたちを育てる
手助けなのですからとても重要なことのはずです。
金額で仕事の価値が変わるとは絶対にありえないはずですが
お役人様のお給料に比べたら
差があり過ぎます。

仕事ってなんでしょう
苦しいけど頑張って、何か成果が感じることが一番

今朝はスタッフのこどもが歯医者さんに行くから
時間まで
私の仕事の邪魔をしながら?手伝ってくれました。
そして私に
「ねえ、ママ最初まちがっていたろ?」
「そりゃあ、最初はだれでもそうよ」と応える私に
なんだか満足そうにニヤッと・・・・・・・。

こどもの心はいいものです。