2015年5月8日金曜日

猫と私

多田の家に嫁に来た時
私より先に来ていたのは猫の「シロ」です。
私に、こびる事はありませんでした。
何故なら、
私は家族でなく「よそ者がやってきた、いつまでここに
居座るつもりか」と
私にお尻を向けていましたから。

義父母そして夫に対する態度と私に対する態度が違うのは
私のこころを読み取っているようでした。
それでも、お互い、ひとつ屋根の下で長いこと暮らすように なると
気心も知れ、私は家族の一員とさせていただきました。
娘の誕生も、私とシロの上下関係がなくなった要因のひとつでした。
それまではもちろん、私の方が下でした。
シロの母親は「クロ」だったそうです。
ですから、シロは娘と同じく、多田の家で生まれ育ったのです。
シロもだんだん年をとり、食欲がなくなって
痩せ始めました。
見守っていたのですが、シロには猫としてのプライドと雑種の強さから
ある日突然いなくなったのです。
毎日毎日探しまわる、夫と娘でした・・・・・・。
この次に登場するのはシャムネコの「シェル」
シェルは今まで生活をともにしてきた猫の中で
一番、優秀で頭がよかった。シェルについては次回に・・・・・・。

2015年5月7日木曜日

母の日に想う



実母にとって、私はどんな存在だったのだろうか

私にとっては母遠い人でした。
私が生まれて2歳違いで妹が生まれました。
妹が生まれてから
母は私にとって、それほど必用な存在ではありませんでした。
何故なら、祖母と私の叔母(10歳違い)と私の3人は
寝間が一緒で、この空間に母の入り込む事は出来ないかったのです。
空間とは寝間と心の隙間です。
私も結婚して35年以上過ぎているのに、義父母の部屋に入ったことはありません。
そして、異常なほど私は祖母に溺愛されて育つのです。
生まれたばかりの妹は生後3ヶ月で消えてしまいました。
その時、私は3歳くらい、初めてお葬式を経験するのです。
記憶は定かではありませんが、座敷にお膳が並べられ、
大人たちが座敷に座っていました。
父がなにやらお葬式の席で声を震わせて頭を下げているのです。
私は、母がいないのに気づき、母を捜し2階に行くと母は泣いていました。
何故泣くのだろうかと、とても 不思議に思いました。
妹がいなくなっても、母は私にとって、それほど必用な存在ではありませんでした。
当然、私はおばば(おばあさん)っ子となっていました。
朝も昼も夜も私は祖母と一緒なのです。
同じ年頃の子と遊んだ記憶がないのです。
だから友達はひとりもいませんでした。
小学校に通うまで、この生活が続いたのです。
祖母が街に行く時は必ず、ついて行きます。
八百屋さん、乾物屋さん、呉服屋さんのお決まりコースを廻るのです。
立ち寄ったお店ではお茶とお菓子をいただきます。
私はまったく、口を開かない子でした。
たぶん返事もしないような子だった気がします。
他人に対して、口を開く必用がなかったのでしょう。
私が、なんでも思いのままにしてくれる祖母が大好きなのは当然です。
母のことが好きだと思えたのは、お祭りに洋服を作ってくれること、
村の婦人会で習った「カレー 」や「マヨネーズ」を作ってくれた時くらい・・・・・・。
いえ、もっとたくさんのことを母は愛情をもって私にしてくれていたはずです。
母抜きの、奇妙な3人仲良し生活は7歳まで続きます。
それから、7年後に、ふたたび妹が生まれるのです。
妹の誕生で私はますます、母の存在そのものを否定し続けるのです。
何故なら、母は妹と一緒に寝るのです。
寂しいとか悲しいとか、そういった感覚は一度も感じたことがありませんでした。
母より祖母が頼りで祖母に愛されていることを理解していました。
ですから、祖母が病気になり長岡の病院に入退院を繰り返した
数年間は祖母の世話をよくしました。中学生になったばかりの私は、
ごはんを焚き、祖母につき添う母と私が食べるためのおにぎりを運ぶ仕事に
当然のことであり、むしろ 喜びを感じていました。
電車に乗って1時間以上かかったような気がします。
そして私は病院に泊まり、翌朝中学校に行っていました。
電車の中で国語の先生と一緒になって、どうしたんだと不思議に問われても
まだまだ、話のできない私は、うつむくだけ。
それから、最後の時がついにやってきたのです。
祖母のいなくなった寂しさを誰にも話せない。
まして母の後を追うことなど一度もしなかった私が今更、
母の存在を求めることはありませんでした。
このころからでしょうか、人前で話すことを拒否しなくなったのは、
母の存在を確認し、認められるようになるまでだいぶ年月がかかりました。
母は妹が大好きな人で、私からは遠い人でしたが、祖母が亡くなり、保育園勤め、
結婚、 そして豆撰立ち上げたころ
ようやく親子の線路に立つことが出来たのに
母は認知症になっていました。
時々、私の名前を間違えます。
生まれてすぐに消えてしまった妹が存在していたことも覚えていません。
もっと早く、私が心を開いていたら、痴呆症になる前に、
話ておきたいことが山ほどあったのに。
母の日を前に、涙で母の顔が滲んで見えるのです。
田植え花タニウツギは母の花です。
この花については
次回に書きたいと思います。



2015年5月5日火曜日

嫉妬

昨日の夜、雨が降りました。
畑も、田んぼも、我が家の草木も大喜びです。
カーテンを開けると
いつの間にか「ヤマボウシ」の花が咲いていました。
雨にぬれているのに嬉しそうです。
お隣さんの「ハナミズキ」は随分前に咲いて
ピンクの花がとてもきれいなので
私は少し、お隣のハナミズキに嫉妬しました。
我が家もピンクのハナミズキにすればよかったと・・・・・・。
でも、今朝ヤマボウシの花が咲いているのを見つけたら
嫉妬どころかやっぱり清楚で我が家に似合っていると
思いました。
隣の芝生は気になっても、自分のところにも、たくさんの
いいものがあります。
周りばかり見ていないで、たまには足元に大切なものがあることを
忘れないようにしましょうか。

2015年5月3日日曜日

朝活の効果

夫の朝活には3つの効果が考えられます。
一つ目は夫自身の趣味、ストレス解消。
二つ目は、90歳の老夫婦のボケ防止。
三つ目は、東京のお友達が6月に栃尾にお越しの予定、
その時に、ぜんまいと鰊ともちろん栃尾の油揚げの煮物を召し上がっていただきたいと
私は思っています。
つまり、夫も義父母も私にとって、とてもありがたく
役に立っている3人です。

「お母さんはいつものように何もしていないよね、カメラ持っているだけ」と愛猫は私の顔をみながら
いつものように呆れ顔で目を細めています。

2015年5月2日土曜日

春うらら!みなさん、お待ちしています。






豆撰スタッフが心を込めて作り上げた品々です。

お待ちしております。

2015年5月1日金曜日

細雪を観る

新潟県民会館にて「細雪」を観てきました。
豪華な女優陣の艶やかな着物姿に、日本人の文化は世界に誇れるものとあらためて感じ、
うっとりと魅入る。原作は谷崎潤一郎の妻をモデルに、書き下ろした細雪。
四人姉妹のそれぞれの生き方がこの舞台の艶やかな着物に表現されていたようです。
高橋惠子が演じる大阪の老舗を父から受け継ぐ長女鶴子は気品があり、
原作者の妻がそのまま小説の中から飛び出してきたのではと、格式と威厳を感じさせます。
賀来千香子の演じる次女はこの舞台の主役の中の主役の役割を見事に演じていました。
彼女はドラマより、舞台の方が似合っている、声の質が舞台向きだと思いました。
三女役水野真紀と四女役大和悠河の二人も、それぞれの個性を上手く引き出し、
可愛い役柄でした。生まれ、育った環境が同じでも、それぞれの生き方は同じではない。
格式ばかりにこだわる鶴子の口から夫に「あなたについていきます」と言う場面は女性ならば
必ずうなづくでしょう、実に女心をとらえていました。自由奔放な妹に「あなたは私の妹にはかわりはありません」このセリフに自分を重ねていました。ラストシーンの舞台演出が粋で見る側を楽しませてくれました。しだれ桜が天から舞い降りる大道具に、この舞台の大きさを、そして作者が亡くなられて50年の記念公演としてとても意義のある素晴らしい舞台だった。
心の傷はいつか、時が過ぎると癒える 。苦労のために生まれてきたのではない、その苦労を乗り越えるために、四人姉妹も私も、そして多くの人たちはこの世に生まれてきたのかもしれないと思いました。細雪のように。
そして、いつものように原作を読まなければと思う私でした。





うどんの下にスープは変だと思います。




昨日のお昼。
原信に買い出しにでかけると言ったスタッフに
「お弁当作ってこなかったから、何か買ってきてください」と
お願いしました。
お昼になり、そのお弁当を広げました。
うどんとお寿司と玉子焼きが入っていました。
そのお弁当とは初めて出会いました。
うどんに小袋に入ったお醤油?をかけ。お寿司にもそれをかけ
たべました。
うどんの半分を食べ終わった時に、天かすを見つけた私は
「汁のないうどんに、天かすはどうして食べるの?」と
ひとり言をぶつぶつ・・・・・・。
すると、うどんのそこに「スープ」を発見。
「なんで、こうなるの?」
一緒にお昼を食べていたMさん
「礼子さん、何いってだろうと思っていました。食べたことなかったのですか?
スープはうどんの下にあるんです」
と大笑いされました。
うどんの上にスープはあるべきではないだろうか?

夫がよそからいただき、さし木した椿に
かわいい花が咲きました。