2015年5月7日木曜日

母の日に想う



実母にとって、私はどんな存在だったのだろうか

私にとっては母遠い人でした。
私が生まれて2歳違いで妹が生まれました。
妹が生まれてから
母は私にとって、それほど必用な存在ではありませんでした。
何故なら、祖母と私の叔母(10歳違い)と私の3人は
寝間が一緒で、この空間に母の入り込む事は出来ないかったのです。
空間とは寝間と心の隙間です。
私も結婚して35年以上過ぎているのに、義父母の部屋に入ったことはありません。
そして、異常なほど私は祖母に溺愛されて育つのです。
生まれたばかりの妹は生後3ヶ月で消えてしまいました。
その時、私は3歳くらい、初めてお葬式を経験するのです。
記憶は定かではありませんが、座敷にお膳が並べられ、
大人たちが座敷に座っていました。
父がなにやらお葬式の席で声を震わせて頭を下げているのです。
私は、母がいないのに気づき、母を捜し2階に行くと母は泣いていました。
何故泣くのだろうかと、とても 不思議に思いました。
妹がいなくなっても、母は私にとって、それほど必用な存在ではありませんでした。
当然、私はおばば(おばあさん)っ子となっていました。
朝も昼も夜も私は祖母と一緒なのです。
同じ年頃の子と遊んだ記憶がないのです。
だから友達はひとりもいませんでした。
小学校に通うまで、この生活が続いたのです。
祖母が街に行く時は必ず、ついて行きます。
八百屋さん、乾物屋さん、呉服屋さんのお決まりコースを廻るのです。
立ち寄ったお店ではお茶とお菓子をいただきます。
私はまったく、口を開かない子でした。
たぶん返事もしないような子だった気がします。
他人に対して、口を開く必用がなかったのでしょう。
私が、なんでも思いのままにしてくれる祖母が大好きなのは当然です。
母のことが好きだと思えたのは、お祭りに洋服を作ってくれること、
村の婦人会で習った「カレー 」や「マヨネーズ」を作ってくれた時くらい・・・・・・。
いえ、もっとたくさんのことを母は愛情をもって私にしてくれていたはずです。
母抜きの、奇妙な3人仲良し生活は7歳まで続きます。
それから、7年後に、ふたたび妹が生まれるのです。
妹の誕生で私はますます、母の存在そのものを否定し続けるのです。
何故なら、母は妹と一緒に寝るのです。
寂しいとか悲しいとか、そういった感覚は一度も感じたことがありませんでした。
母より祖母が頼りで祖母に愛されていることを理解していました。
ですから、祖母が病気になり長岡の病院に入退院を繰り返した
数年間は祖母の世話をよくしました。中学生になったばかりの私は、
ごはんを焚き、祖母につき添う母と私が食べるためのおにぎりを運ぶ仕事に
当然のことであり、むしろ 喜びを感じていました。
電車に乗って1時間以上かかったような気がします。
そして私は病院に泊まり、翌朝中学校に行っていました。
電車の中で国語の先生と一緒になって、どうしたんだと不思議に問われても
まだまだ、話のできない私は、うつむくだけ。
それから、最後の時がついにやってきたのです。
祖母のいなくなった寂しさを誰にも話せない。
まして母の後を追うことなど一度もしなかった私が今更、
母の存在を求めることはありませんでした。
このころからでしょうか、人前で話すことを拒否しなくなったのは、
母の存在を確認し、認められるようになるまでだいぶ年月がかかりました。
母は妹が大好きな人で、私からは遠い人でしたが、祖母が亡くなり、保育園勤め、
結婚、 そして豆撰立ち上げたころ
ようやく親子の線路に立つことが出来たのに
母は認知症になっていました。
時々、私の名前を間違えます。
生まれてすぐに消えてしまった妹が存在していたことも覚えていません。
もっと早く、私が心を開いていたら、痴呆症になる前に、
話ておきたいことが山ほどあったのに。
母の日を前に、涙で母の顔が滲んで見えるのです。
田植え花タニウツギは母の花です。
この花については
次回に書きたいと思います。



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