2015年12月13日日曜日

海難1890を観る

歴史が動いているような映画でした。
1890年明治中期にトルコから明治天皇謁見の旅。
600人もの船員を乗せ、和歌山の紀伊大島へ流され座礁する。
その座礁前の船の中の様子は
トルコ人の陽気で心の温かさが伝わる。
一方、島では人の良い医師田村と許婚を亡くしたハルが
島民のために働く姿、そして島民の心根を描く。
この船内と島の映像が交互に動くのです。

トルコ人の上官とボイラー操縦士の友情
医師田村とハルを交えた島民の生活・・・・・・。
そこからは、もう大変です。
交互に動いていた歴史が合体するのですから。
トルコの座礁船から島民の精一杯の助け
我を捨て、生きている人を助ける島民の心。
傷ついた船員たち・・・もう涙が止まりませんでした。
この場面からは目を覆い、あふれる涙を必死でこらえて
スクリーンの中に入り込んでしまいました。
トルコ人を救った島民の真心は、海軍大尉ムスタファの
心を開かせます。
海で死んでしまった許婚をムスタファに重ねるハルの心情。
映画の中の海のきれいなシーンが涙をこらえられなく私の
胸にささるのです。

やはり、私はここでも娘を想わずにはいられません。
国が違えども「真心」が通じ合えば、助け合い、愛し合うことが出来るのですから。
生き残った船員の帰国
最後に帰国する海軍大尉ムスタファの胸の内
計り知れない「命」の形見「月と太陽」を海に投げ込むシーンは
考え深いものがありました。
涙が乾かないうちに
第二部に入りました。
1985年のイランイラク戦争場面。
ムスタファとハルが時を経て再会するのです。
私は勝手にそう決めつけたのです。
フセインの攻撃シーンになると、今度は海外生活の長かったNさんを
想像していました。
きっと、この戦火を潜り抜け生きてこられたのだろうと
そう思うと、また涙が止まらなくなりました。

日本人がトルコ人を真心で助ける、トルコ人が日本人を真心で助ける。
そこには駆け引きが全くない。宗教も資源も全く関係ない。

涙の瓶を受け取るベギールの妻の号泣。小道具の使い方に
胸が高鳴るのでした。


田村演じる内野聖陽とハルの演技もいい。そして村長演じる笹野喬史
俳優陣の熱い演技に絶賛でした。

いつか、紀伊大島に行ってこの「想い」をふたたび
あの海で感じてきたい・・・・・・。





2015年12月12日土曜日

保育士の問題

今から27年前は現役の「保母」を職業として
社会福祉法人の保育所に勤めておりました。
保育園の給与が低いから、保育士を辞めたり、資格があっても
他の職についてしまう・・・・・・。問題が取り上げられているようです。
確かに、ハードな仕事の割には、少ないお給料だったかもしれません。
でも、
今から思えば、20歳そこその私には、はじめてのお給料は大金でした。
父に4万円を家計の足しに差し出していたほどです。
そして、手元に2万円以上も残るのです。
こんな嬉しいことはありませんでした。
だから私にとっては、お給料が少ないとは全く考えたことがありませんでした。
だんだん年数を重ね、それなりの昇給もあり
楽しい保育園生活でした。
年中さん年長さんと過ごす保育園生活は
忙しいけれど満足感、充実感のある仕事でした。
私にとって、一番苦しかったのは?ピアノくらいでした。
毎日2時間くらい練習をしていました。
娘が生まれてからも・・・・・・。今思うと、育児放棄だったかもしれません。
今となっては、お給料のことも仕事量も大した問題ではなく
楽しかった懐かしい日々となっております。
さて、問題の・・・・・・
確かに国の補助金は少なすぎます。
補助金の中から人件費を割りあてられているのですから
当然、ベテランの保育士の多い保育園は財源がなくなります。
だから、お給料は低くおさえられるのでしょう。

子供たちのお世話をする仕事は
大学の先生より大変だと私は思います。
はじめて、親から離され頼れるのは保育士なのですから
保育園では母親のようなものです。
つまり、人間形成において一番大切な時期だと思います。

措置児に対する補助金を増やすことは将来の日本を担うこどもたちを育てる
手助けなのですからとても重要なことのはずです。
金額で仕事の価値が変わるとは絶対にありえないはずですが
お役人様のお給料に比べたら
差があり過ぎます。

仕事ってなんでしょう
苦しいけど頑張って、何か成果が感じることが一番

今朝はスタッフのこどもが歯医者さんに行くから
時間まで
私の仕事の邪魔をしながら?手伝ってくれました。
そして私に
「ねえ、ママ最初まちがっていたろ?」
「そりゃあ、最初はだれでもそうよ」と応える私に
なんだか満足そうにニヤッと・・・・・・・。

こどもの心はいいものです。




2015年12月8日火曜日

「おてがみれしぴⅢ」の苦労話




「おてがみれしぴⅢ」がようやく刷り上がりました。
8月から取り掛かり4ケ月かかってしまいました。
今年で3年目、そして3冊目。
正直「おてがみれしぴⅠ」、「おてがみれしぴⅡ」は
伝えたいものが頭の中にいっぱい詰まっていて、
こうしたい、あれも入れたいと想いが
次々に浮かんできました。
でも、三冊目になると
何を伝えたいのか、何を伝えるべきかとても
悩みました。
編集を依頼しているS さんに相談。
娘に相談。
よーしこれで決定と決めても
大変なことばかり重なりました。
それでも編集がお仕事のSさんとデザイン部門の娘の
やりとりの
(東京とアメリカとちょっと時差があり大変だったはずです・・・・・・)
おかげでなんとか完成にこぎつけました。
制作にあたっての苦労と言えば
レシピの写真撮影担当の私たち夫婦にもありました。
「おてがみれしぴⅡ」からは夫に撮影を依頼。
私は作って盛り付けをして…撮り終えると
Sさんと娘に送ってみる。
すると、ふたりともなかなかOKを出してくれません。
挙句の果て、FBお友達のNさんから
丁寧なご助言いただいたり、
ああ、ああ、もうだめだこりゃ・・・・・・。と嘆き。
それでも、再度、再々再度の挑戦は続きました。
その結果、なんとかみなさんのOKを
いただくことになりました。
撮影時の集中力を保つことはサザエおばさんには
とても難しいことでした。

その結果、このちいさな本の「想い」をつくることは
苦しかったけれど、とても楽しかったのです。

有名なお友達に寄稿のお願いをしたり、
素敵な絵を描いていただいたり
夜遅くまで校正点検をしてくれたスタッフ、

本当にたくさんの方の応援と協力によって
完成した「おてがみれしぴⅢ」は
今まで以上に愛おしいのです。 

ちいさな本なのに大きな輪が広がっていくような
気がするのです。
読み返すたびに涙がにじんでしまうサザエおばさんでした。



 豆撰栃尾の油揚げご注文いただいた方に
「おてがみれしぴⅢ」をお届けさせていただいております。
 

2015年12月5日土曜日

杉原千畝を観る

映画「杉原千畝」を観る。
まず、冒頭に昭和30年の外務省が映る。
終戦後、10年の時を経て杉原を探しに来るシーンからはじまる。
すぐに場面は切り替わり、北満州鉄道所と
交渉に関する緊迫状況。
杉原は日本のシンドラーのはずなのに
なんだか、情報網をめぐらす、
日本のスパイのようである。
彼を愛するイリーナの前で銃殺が起こる。
杉原の意に反したとはいえ、残虐な日本軍と
杉原に憤りを感じる。が場面は、
たんたんと第二次世界大戦に進む。
「シンドラーのリスト」と重ね、映像が進むが
毒殺、虐殺の場面が少なかったので
目を閉じることはなかった。

外交官の任務と責任。軍人の任務と行動。
何が正しく,何が間違っているのか
あの時代に口に出したり、行動したら
命の保証はなかっただろうに・・・・・・。
その人間の弱さをはねのけ、6000人のユダヤ難民を
自分の意思で救った杉原千畝と奥さん、
そしてその周りの人々に
心が救われる映画でした。
千畝を演じる唐沢寿明の表情が、流暢に話す外国語よりも
映画の中で光ってみえました。
軍人を演じる難しい役柄を小日向文世が演じる。
大使、船長などの脇役の存在が映画を
盛り上げていたようです。
風景がヨーロッパ、ソ蓮、中国と世界をかけまわり
いつもより、スクリーンが大きく感じました。
イリーナの助けた夫はユダヤ人。
そして、終盤に届けられたイリーナから杉原へ
届けられた手紙の 真意が深いような気がした。
ここで監督は何が言いたいのだろうかと
考え込んでしまいました。
最後に息子のセリフ
父杉原が「今度はどこに行きたい?」と尋ねる。
答えは「日本、まだ行ったことがないから」には
胸が熱くなりました。

 映画の中で何回も聞こえてくる
「世界を変えたい」という杉原千畝の言葉が
心に響きながら映画館を後にしました。





2015年12月4日金曜日

五藤監督撮影最終日

   




(五藤利弘映画監督動画撮影より)

動画撮影最終日は
もちろん、豆撰の工場内とお店です。
この日はお天気もよく
とても穏やかな日でした。
工場には監督しか入りません。
どんな雰囲気の中で、カメラは何を
とらえているのだろうか
いままでは監督の後ろを歩いていたので
何となく、伝わるものがありました。
しかし、今回は私はこの指定席、事務所で
仕事をしていました。
のぞいてみたい気持ちを抑えて・・・・・・。
工場を撮り終えると、お店の雰囲気、
はるなちゃんとしのちゃんを撮影。
「自然に笑ってください。お客様の顔を見てください」と
優しく声をかける監督。
でも、豆撰のスタッフはコチコチのガタガタ・・・・・・。
社長へのインタビュー・・・・・。
無事終了となりました。
この模様は「おてがみれしぴⅢ」にも
掲載しております。

私がついて回らなかった工場の中の一部が監督さんから送られてきました。
社長の顔、社長は妹の夫です。
とても穏やかで社長というより職人の顔になっていました。
工場では社長と妹の微笑む顔が私にはとても嬉しかった。
いままで、私を含め3人で会社の切り盛りを
してきましたが、送らってきた動画写真をみて
26年の歳月は苦しかったけど頑張ってきて
よかったと心から思えるのでした。
ここまで一生懸命、汗まみれになり頑張ってくれた
スタッフのそれぞれの顔も素晴らしいものがあります。
怒られながらも豆撰についてきてくれたことに
感謝しなければなりません。
みんなのおかげなのですから・・・・・・。

さあ、私はこの先ちょっと息を抜き邪魔にならないように
あまり口出ししないように
豆撰を見守っていけたらいいと心から思っています。

    監督の後を歩く紀行4はこれでおしまい!

2015年12月3日木曜日

監督の後を歩く紀行3




  (監督動画撮影より)


前回からのつづき

朝日村の豆畑の撮影を終えると
組合長さんのご案内で アユの簗場へ連れて行っていただきました。アユを食べながら農業の話。
この先一体どうなるのだろうか
若者の農業離れ
このことについては私も何も言えません。
夫一人での米つくりには限界があり
今年を最後に米つくりは知り合いの方にお願いしたのですから・・・・・・。また監督さんも
「僕も農家の長男なんですが・・・・・・」と
すまなそうに苦笑いをしていました。

朝日村を後に栃尾へ
夕暮れ前に「杜々の森の湧水」撮影。
お天気も良くなかったので
杜々の森はいつもより暗く、その暗さがなんとはなしに
寂しくて、私はその場を離れ遠くから
カメラをのぞく監督を見ていました。
同じ場所で立ち止まりカメラをのぞいたり
遠くをみつめています。
ご自分の中で何かをイメージしているように感じました。

数年前に栃尾で撮影された「モノクロームの少女」や
「ゆめのかよいじ」 の想い出を振り返っているかのようで
そおっと、そおっと・・・・・・。
翌朝の城山、棚田
特に石積みの名残を撮影する姿は
遠く離れた場所で監督の後ろにいる私にも
何かが伝わるのです。

石積みは親より先に亡くなった子供たちの替りに
私たちが一年に一度積む
この風景は私にとっては 胸が苦しくなるのです。
あれから35年・・・・・・ともちゃん、かよちゃん元気にしていますか
私の心の中ではあどけない3歳と6歳のおしゃまなかわいい
女の子なのですから。保育園で一緒に遊んだね。

栃尾の風景の中に想いがあります。
想いの中にあぶらげもあります。
栃尾の春夏秋冬をあぶらげとともにお届けしたいから・・・・・・。
                              つづく

2015年12月1日火曜日

監督の後を歩く紀行2




(この写真は監督さん撮影動画より)

前回のつづきから
人面の大豆畑の撮影途中に小雨が降りはじめました。
私は傘をさし監督の邪魔にならないように
少し離れた豆畑を散策、監督はレンズが雨にぬれないように注意しながら撮影を続けていました。
しばらくして、「はい、では行きましょうか」と
栃尾の豆畑撮影から案内人となって朝日村を目指しました。
なぜ新潟産にこだわったのかまた、ここまでの苦労話を聞いてもらったり、
映画の話をしたり
このころ、丁度監督さんのおすすめ映画を
何本か見ていましたので話しは尽きませんでした。

高速を降りて目的地へ・・・・・・
毎年毎年大豆の視察にきているのですが
そこは、サザエおばさんです。
「あら?どっちだったかしら?」
結局、生産者さんに電話をして迎えに来ていただくはめになりました。
組合長さんのご案内で広大な豆畑撮影がはじまりました。

普段はニコニコ顔の監督が真剣な表情に変わります。
ここでも私は邪魔をしないようにひとり豆畑を観察・・・・・・。

朝日村と栃尾の大豆では大人と子供の差があります。
作ってきたキャリアの違いと
面積の違い

この広大な朝日村の豆畑を見て
栃尾の豆もいつか、朝日村に負けないように
たくさん採れたらいいなあと思う。


畑の中での移動も結構な距離となります。
そこで監督はトラックに乗って移動、移動しながら撮影をしておられました。
後でお聞きしたら
「やはり、揺れて無理ですね」と笑って・・・・・・。


(この2枚は私のデジカメより)
                                                つづく