2016年7月30日土曜日

沖縄の海は青くきれいだったけれど・・・・・・。最終回

楽しいはずの沖縄旅行
とんだハプニング続きでどうなるのだろうと思いました。

人力車に乗って万座ビーチを走ってもらいました。
風が少し強くて、叔母は大丈夫だろうか
日に日に、足も手も思うように動けなくなっていることを
私たち以上に叔母は感じ取っていたはずです。
叔父と私は叔母の手となり足となりました。
途中で猛撃な痛みが襲いかかります。必死でさすりました。
ホテルにつくとすぐに手当てをします。
私と娘で琵琶の葉を叔母の肩に湿布するのです。
叔母の肩は肺がんからの骨転移で腫れあがって変形していました。
それでも、私たちは
本当の目的地宮古島に向かったのです。
小型飛行機は座席も狭く、叔母にとっては難儀だったことでしょう。
宮古に下りてタクシーで廻るビーチの果てしない青!透明な水。
どこまでも、白い砂浜が続き、まるで夢の楽園でした。
「きれいね、きれいね」と髪が風に撫でられるのを左手で押さえながら
つぶやく叔母でした。
私の心も娘の心も叔父の心も、この時はきっと同じことを考えていたことでしょう。
「どうして、どうして、どうして・・・・・。」と。

沖縄の海を見つめる叔母は何を思ったのでしょうか
襲い掛かる病に対して、あきらめることなく家族のために
そして、自分のために「生きよう、命の限り」と叔母の瞳から
聞こえてくるのでした。

沖縄を後にして、那覇空港 から新潟に飛び立つ
しばらくすると、アナウンスが流れました。
悪天候のため、新潟空港に着陸できない時は羽田空港に変更となります。
ハプニングはまだ続いていたことを
4人は確かめるはめになってしまいました。
それでも運良く、新潟空港に無事到着することができました。

この奇跡の沖縄旅行はだれのための旅行だったのでしょうか
私の娘は叔母の娘に頼まれたビデオ撮りに一生懸命でした。
時々、叔母は「もういいよ」と訴えることもありました。
それは、恥ずかしさというより、これが自分の最後となることを
恐れていたのでしょう。
私は私で、身の回りの世話から食事のこと、どうしたら痛みを
和らげてやれるか、叔母の喜ぶことはなんだろうと
必死でした。
だからでしょうか、この沖縄旅行で鮮明に覚えていることは
海は青かったことだけ。

この日から半年後に叔母は青い海の向こうに去ってしまいました。
目を閉じると、ブーゲンビリヤの花がとても
似合う叔母の優しい微笑みが浮かぶのです。青い海と共に。

沖縄の海をみつめて 3

沖縄旅行計画書を含め、飛行機、新幹線チケット、もちろん
宿泊ホテルのクーポン、その他の大事なものが入っていたバックを忘れた私。
私のあわてんぼう人生の中で一番の失脚、失敗、失態、過失、これらの失の文字を
いくつ重ねたらいいでしょうか、東京タワーいえスカイツリーの高さを超える
惨事だったのです。
まず、首里城付近にある警察派出所を探しました。
道行く人に恥も外聞もなく尋ね、やっとたどり着いた派出所は無人でした。
無人派出所にはメモがおいてあり、緊急の場合はこちらに連絡ください。と書いてありました。
悲鳴に近いかん高い声で私は事の次第を
必死に訴えました。新潟から旅行に来たこと、大事なものが全部詰まっていることを神様にお願いするようにすがって話したのです。
それでも、結果は無残。届けられたら連絡します。といわれ電話を切られてしまいました。
私以上に落胆した叔母夫婦を想像してみてください。
次にタクシーの色からタクシー会社を割り出し、電話してみました、しかしここでも、あっけなく、届けはありません。
仕方なしに、とにかく昼食を済ませ、
叔母が車いすに乗っていたので首里城では特別の通路を通り、並ぶこともなく、すんなりと見学ができました。とは言え、今となっては王の椅子があった事くらいしか記憶にありません。

その後、警察からもタクシー会社からも何の情報もないまま、宿泊ホテルの名前をタクシーの運転手さんに話していた事で場所も特定する事ができ、取りあえずホテルへ初陣のように、娘を筆頭に、籠の中に叔母夫婦を乗せホテルフロント、すると、なんとバックが届けられているではありませんか。
さっきまで警察とタクシー会社のそっけない
態度に憤慨していた事は全く忘れ、沖縄人は神様仏様と思った次第です。
ホテル最上階階でリッチな食事。叔母の食欲は病の重さに比べ旺盛。
でも、右手の不住さと痛みは相当ひどく、左手を添えて、やっと口にするのでした。
ステーキは食べやすいように一口サイズに切ってもらいました。

満足そうに、美味しい美味しいを連発する叔母をみていると
こみ上げる涙を必死に堪えるのでした。
ピアノの伴奏リクエストに叔父は
事もあろうに「ママと最初のデートに観たあの曲を頼んでくるよ」と
ああ、叔父は空気が読めない。
どうして、この曲を今リクエストするの、
その曲を聴きながら、叔母の心は何を感じたのだろうか
一瞬、遠くを見つめ黙ってしまう。
その曲は映画「ある愛の詩」でした。
1日目の珍道中から
那覇を一周し、いよいよ沖縄の青い海を求め
島に四人は旅たつのでした。
続きはまた……。









2016年7月29日金曜日

沖縄の海を見つめ 2

私の小さな心臓は天まで届きそうな唸りを上げてしまいました。
上り線に乗車してしまった私と娘は急いで、越後湯沢を降り、次の新幹線を待ちました。
その間に叔父の携帯にことの次第を説明し、新潟駅ホームで待ってもらうように連絡。
次の新幹線の来ることの遅いこと。30分はまるで悪魔によって、時計を逆回転させられたようでした。
新潟駅にて待つ叔母の顔色と言ったら、顔面蒼白、瞬きもせず、
私を見つめる瞳は切なく、悲しい気持ちがいっぱいでした。
ごめんね、ごめんね。と謝る私に、
「もう行けないかと思った」と一言、そして安堵の笑みをのぞかせていました。
タクシーで空港に到着。
到着と同時に痛み止め薬も効かなくなり、足に刺す鋭い痛みが叔母を襲ってきました。
そして、 それは痛みだけではなかったのです。
右半身の運動機能がおかしい。足が前に出にくいのです。
この時、すでに病魔は脳を侵略し始めていたのです。

とりあえず、痛み止めを服用し、なんとか搭乗手続きをすませる私。
私が車椅子移動を提案するものの、叔母は断固として拒否。
叔父の肩につかまり、支えられ飛行機になんとか乗ることができました。
窓から、新潟の地を見下ろし、雲の中に入ると、それはそれはうれしそう、まるで少女の顔をみているようです。叔母の夢はスチュワーデスだったこと。英語が得意で、いつも英語の辞書を楽しそうに開いていたこと。叶わなかった夢を見ているような大きな瞳はキラキラしいました。

痛みも和らぎ、新幹線騒動もなんとか切り抜け、
さあ、いよいよ沖縄の地に。
首里城を目指して、突進です。タクシーのおじさんに今夜泊まるホテルの名前を話すと、ここですよと教えていただきました。
首里城に到着し、お腹も空いていたので、まずはお昼を食べることにしました。
この首里城見学では、さすが叔母も観念して、私のすすめた車椅子移動をしぶしぶ受け入れ……。
チケット購入場所に。
あれ、どうしたの?ないないない。ない。クーポンから財布を入れた小さなバックが
私の手にない。全てがない。
叔母は二度目の顔面蒼白。

今度は目の前での失敗です。叔母はまたまた、瞬きもせず、私を見つめるのでした。
さてこの先はどうなったでしょうか?
次回に続きます。

2016年7月28日木曜日

沖縄の海を見つめ



夕暮れの沖縄、写真を撮る暇も余裕もなかった。数枚しか残っていませんでした。

病が見つかってから半年後の出来事です。
手術不可能で、抗がん剤もワンクール試みただけ。
レントゲンに写っているのは、悪魔の群衆でした。
肺から骨、肝臓に転移。脳にも悪魔たちは押し寄せていました。
誰が考えても、奇跡は起こらない最悪の状況でした。

12月は事の外、豆撰は忙しい。
1年中で一番忙しく、一番の稼ぎ時なのです。
今ほど、ネットやFAXがまだまだ浸透していない時代でした。
鳴り続ける電話の注文に、ありがたいと思いながらも悲鳴をあげていました。
私も若く、妹はもっと若かったのでなんとか交代であぶらげ製造と事務
をこなすことが出来ました。
助っ人に従妹をお願いし、夜に伝票作りです。
従妹にも仕事があるのに、よく手伝ってくれました。
今思うともっともっと感謝しなければならなかったと思います。
家に帰るのは夜10時を回っていることが多く、家には寝に帰るだけでした。
夫も祖父母も娘も、文句ひとつ言わず、私の大変さを見守り、協力してくれました。

ようやく、お歳暮の贈り物を無事にお客様の元へ届け終わった12月31日。
娘(大学生)を連れて、決行したのです。
本当は夫と一緒に行くはずだったのですが
夫の温かい申し出、「娘と叔母さんは血がつながっている、他人の俺が行くよりいいだろう」
夫に感謝しながら大晦日に出かけたのです。
青い海を見せるために。

叔母夫婦と私と娘4人の「思い出旅行」が始まりでした。

全く準備をしていない私はカバンに適当な着替えとお財布、
そして全てのチケットを詰め込み、娘といざ出陣。
新潟空港からの出発です。叔母夫婦は越後湯沢から新幹線に乗り、
私たちと長岡で合流するはずでした。
夫から長岡駅まで送ってもらい、行ってきまーす。と喜び勇んで新幹線乗り場に向かうと、
危機一髪、新幹線は直ぐに到着です。
ふたりで慌てふためき、乗り込む。この日の新幹線の混雑は想像以上でした。
これでは、叔母夫婦を見つけることは不可能、新潟駅にて合流するしかないと思い
走る新幹線の外を眺めていると、反対車線に叔母夫婦が立ってみえるではないですか?
えっ、どういうこと。私たちは、いえ正確に申せば娘の後をついて行った先は「上り」
ホームだったのです。
命の限り叔母を楽しませてやりたかった思い出旅行は
出だしから、ハラハラドキドキの開幕となってしまいました。
さてはてどうなったことでしょうか
この続きは次回に……。

2016年7月27日水曜日

生きがい

夫の作った「麻婆茄子」をつまみに
小さなグラスに注がれたビールを飲み干す。
時計を見ると8時を回っている。
携帯を取り出す。
そろそろ昨日送った荷物が彼に届く頃と
夫に話していると
GOODタイミングで携帯が鳴る。
ありがとうと喜んで電話をかけてくれる彼に
こちらこそありがとうと伝える。

夫が作る野菜を
贈り物をすることが私のささやかな生きがいであることに気づく。

彼とは私が保育園の時お世話し、今では私を助けてくれている相棒のことです。

2016年7月23日土曜日

モネと映画 新天地はひまわりのように


映画「レミングスの夏」に登場する少女ヨーコはひまわりの花のよう
新天地は青い空に向かって笑うひまわりであってほしい。

2度目の取手市訪問でした。
一回目は「レミングスの夏」映画化が実現し、原作者竹吉優輔氏と
メガホンをとる映画監督五藤利弘氏の制作発表会でした。、
そして、二回目は映画撮影開始から3日目、
取手駅に到着ホームを下りると、ビルの屋上にカメラらしきものが目に入りました。
 「レミングスの夏」の犯人を監視する場面だったようです。
さて、昼食を済ませ、タクシーに乗り、目的地に。
スポーツセンターの建物に向かって歩くと、見覚えのあるタオルを首にかけ、
私のことなど目に入らないほど、
私が存じ上げている監督とは全く別人のような雰囲気が漂っていました。
そっと、邪魔にならないように見学させていただくことになりました。
主役ナギを演じるのは前田旺志郎さん。
キリッとした目が、とても凛として、今時のアイドルと違う。
プールの向こうには犯人が椅子に座っています。
犯人が追っているのは中学生くらいの可愛い女の子、
そして、犯人をを見つめるのはナギです。
小さなクレーンの先にはカメラ(進化している撮影道具にビックリ、ちょっとアメリカ風)、
その先にもカメラ、カメラのモニターを覗くのは監督です。犯人の演技に釘ずけの私。
目線だけではないのです。手と足の微妙な動きはさすが演技者です。
周りには、たくさんのスタッフが駆け足、汗だくで動き回っています。
同じシーンも角度を変えて2台のカメラから何回も撮っていました。
GOサインはもちろん監督。(真剣勝負)
撮影の緊張感が見ている私にも伝わり手に汗を握っていました。
この後、帰りの新幹線の中で読了した原田マハ著「ジヴェルニーの食卓」が
撮影風景をよみがえらせました。
映画は原作から脚本家の手に委ねられ、演じる俳優にカメラが容赦なく回っていきます。
モネのアトリエは、睡蓮の庭、青い空の下、撮影現場も青空の下、モネがキャンバスに描くのは「光と影」、監督の追うのも「光と影」
キャンバスに描かれるのは睡蓮、カメラに収められるのは若き俳優たちです。
睡蓮と若き俳優たちはモネと監督に操られるのです。
想いは「光」となり、描写されていくのでしょう。
「ジヴェルニーの食卓」を読み終えてみると、モネという画家が世界中に愛されたのは、
モネの才能を愛し、信じていた人たち「影」の力であり、それは、角度を変えたら
光かもしれない。

読み終えた本を閉じ、その表紙に手を当て祈りました。
 「レミングスの夏」を支えてくださる方々こそ、大切な「影」ではないだろうかと・・・・・・。




2016年7月21日木曜日

朝顔の折り紙にに込めたきもち

ほんのきもちなのです。
この夏、お中元に、ご自宅に
栃尾の油揚げをお届けさせていただけることへの感謝のきもちです。
箱を開いたら、折り紙の朝顔が
「おはようございます、こんにちは」と
微笑むような気がしたのです。
ご依頼主様から大切な方へのプレゼントに
ほっこりと懐かしさが栃尾の油揚げと一緒に届いたら
忙しい忙しいと私のように余裕のない方
病を背負っている方
育児に困っている方
夏を待ちわびていた方
栃尾の油揚げが届くのはいつかしらと思っていた方
いろいろな方へのご挨拶のつもりでした
すると
「素敵な折り紙ありがとうございました」とメッセージが届けられたり、
お電話でお礼を言われたり……。
こっちもほっこり良い気分になりました。

ところが一本の電話
「栞と一緒に、間違って折り紙が入っていたようです」

悲しくって泣いてしまいました。