2018年7月1日日曜日
ミサコのピアノが喜んで 栃尾被爆ピアノコンサートより
第二回栃尾被爆ピアノコンサートを無事に終えることができ
実のところ、ホッといています。
初めて参加した豆撰のRちゃんに感想を聞いてみました。
すると、「ミサコさんのピアノが喜んでいました」と言いました。
「そう思える、そう聞こえることこそが平和のしあわせだ」と妹がつぶやく。
朗読をしてくださった遠藤悦子さんのお話にもこみ上げてくる優しさを感じました。
遠藤さんが高校の時クラスメートのお父さんがご病気で亡くなられ、
その時、少しでもお役に立てばとの思いで、お見舞いのお金を集めたそうです。
でも、そのお友達はお金には全く困っていなかったそうです。そしてお友達は、広島の原爆ドーム保存のために、みんなの集めてくれたお金を寄付してもいいでしょうかとおっしゃったそうです。きっと、広島原爆ドームの一本の柱に想いが届いているのではとお話してくださいました。
矢川光則さんには、被爆ピアノコンサート中のお話コーナーでお聞きできなかったことがありました。
すると、矢川さんとふたりっきりになるチャンスが
「矢川さんは何故調律師になられたのですか?」とお尋ねしてみました。
「僕は高校の時、音楽の先生にすすめられました。吹奏楽をやっていましたから
楽譜も、もちろん読めます。でも、僕にとって楽譜を読むより、聞いた音を楽器で再現する方が簡単でしたから・・・・・・。」
「凄いですね。ご両親からの影響はなかったのですか?」
「いやあ、なかったですね。でも父親はトランペットを吹いていました。
祖父母は三味線を教えていました。ご近所から笑いの絶えないちょっと風変わりの家のようでした」
それから、矢川さんはご両親の被爆について、叔母様の被爆について語りはじめました。
黒い雨をあびても、その人にはそれぞれの生命力があって、長く生きられる人もいる、すぐに亡くなる人もいる。
「父の妹は生きられなかった・・・・・・。」と寂しそうに話す。
どうして傷ついたピアノを修復し、被爆ピアノをトラックに積んで夜どうしで
走り続けるのか、その意味がわかったような気がしました。
絶対音感を持って生まれ、その才能を見出してくださった高校の先生に導かれ、調律師になり、被爆ピアノと運命をともにする。
なんだか、生まれた時から矢川さんの運命だったのではないだろうかと思えてなりませんでした。
最後に、「僕が今日こうした活動ができるのは、妻、家族のおかげですよ。面と向かっては言ったことはありませんが感謝しています」
妻に感謝、家族に感謝、人間としての原点はここにありだとほろりとさせられました。
私も、被爆ピアノコンサートのお手伝いができたことに感謝し、私の手となり足となって
補佐してくれる豆撰スタッフに感謝、そして最後まで私を助けてくれる夫に感謝しました。
ミサコのピアノが笑っている
私もミサコのピアノのように生きたい
ミサコのピアノさん!絶対に、絶対に戦争はいけませんね。
五藤利弘監督の映画はいったいどんなふうになるのかそれも楽しみです。
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