私の中で一番戦争に関する古い記憶は
「長岡の空が真っ赤になってそれはきれいだった、
爆弾が落とされたとはわからんかった」と話す明治生まれの祖母の言葉と
我が家にあった古くて大きなラジオです。
スイッチを入れても
音声を聞き分けるのは雑音ばかりで非常に難しいのものです。
そのラジオから流れてきた玉音放送のことを話す祖母には
戦争に負けたことを悔やんでいる様子は感じませんでした。
「鉄釜、真鋳の火鉢、刀は全部国にとられて、この火鉢しか残らなかった」と
瀬戸物の火鉢で餅を焼く度に話していました。
時々祖母に連れられ、町へ出かけると、頭には 包帯を巻いた白装束の方が片足で
立っていました。子供の私には、わけのわからない人たちでした。
亡き父は高校生で
「勉強なんか全然しなくて、匍匐訓練だった」と話していました。
戦争を知らない私は36年前に夫と結婚
今91歳の義父は終戦の年は衛生兵として内地横浜で迎えたらしい。
義父の宝物は兵隊として戦争に担ぎ出された時に
持参した日の丸です。
今では認知症を患い、一日置きのディーサービス通いですが
以前は終戦記念日になると、親戚、ご近所の方々の名前がびっしりと書かれた、
その日の丸を私たちに披露したものです。
義父は一人っ子です。義父の両親はどんな気持ちで
見送ったのでしょうか。想像絶するものがあったはずです。
内地への配属だったせいか、
来る日も来る日も魚だったけれど、食べ物には困らなかったらしい。
義母は埼玉の軍事工場に働きに行っていて、その日(終戦日) を迎えたと言います。
防空壕へ逃げ込むことは毎日のように続いたといいます。
終戦から10年後に生まれた私が感じた戦争の匂いです。
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