2016年8月16日火曜日

戦争の匂い

私の中で一番戦争に関する古い記憶は
「長岡の空が真っ赤になってそれはきれいだった、
爆弾が落とされたとはわからんかった」と話す明治生まれの祖母の言葉と
我が家にあった古くて大きなラジオです。
スイッチを入れても
音声を聞き分けるのは雑音ばかりで非常に難しいのものです。
そのラジオから流れてきた玉音放送のことを話す祖母には
戦争に負けたことを悔やんでいる様子は感じませんでした。
「鉄釜、真鋳の火鉢、刀は全部国にとられて、この火鉢しか残らなかった」と
瀬戸物の火鉢で餅を焼く度に話していました。
時々祖母に連れられ、町へ出かけると、頭には 包帯を巻いた白装束の方が片足で
立っていました。子供の私には、わけのわからない人たちでした。
亡き父は高校生で
「勉強なんか全然しなくて、匍匐訓練だった」と話していました。

戦争を知らない私は36年前に夫と結婚

今91歳の義父は終戦の年は衛生兵として内地横浜で迎えたらしい。

義父の宝物は兵隊として戦争に担ぎ出された時に
持参した日の丸です。

今では認知症を患い、一日置きのディーサービス通いですが
以前は終戦記念日になると、親戚、ご近所の方々の名前がびっしりと書かれた、
その日の丸を私たちに披露したものです。
義父は一人っ子です。義父の両親はどんな気持ちで
見送ったのでしょうか。想像絶するものがあったはずです。
内地への配属だったせいか、
来る日も来る日も魚だったけれど、食べ物には困らなかったらしい。
義母は埼玉の軍事工場に働きに行っていて、その日(終戦日) を迎えたと言います。
防空壕へ逃げ込むことは毎日のように続いたといいます。

終戦から10年後に生まれた私が感じた戦争の匂いです。
 







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