明治生まれの祖母の言葉をおもいだす。山に登って見る長岡の空は夕日のように綺麗だった。と言った。生まれたばかりの赤子をおんぶして、子どもらを連れていったのだろう。
その日から10年後に私は生まれた。父は24歳母は23歳だった。あの日の父は14歳、母は13歳だったことを今数えてみた。今は祖母はもちろんだが父も母もあの時の赤子も死んでいない。
下記記事をあらためて読む。いつまでもいつでも戦争を繰り返す人間は一体何者であろうか?
8月1日の午後9時6分、長岡の夜空に警戒警報のサイレンが鳴り響きました。続いて午後10時26分、警戒警報は空襲警報に変わり、直後の10時30分にB29による焼夷弾(しょういだん)爆撃(ばくげき)が始まりました。
B29は一機また一機と焼夷弾を投下しました。夜間低空からの容赦無い無差別爆撃によって、長岡のまちは瞬(またた)く間に炎に包まれていきました。
猛火の中を、母の名を呼び、子の名を叫んで逃げ惑う人びと。多くの人が炎に飲み込まれていく様子は、地獄絵さながらだったといいます。
空襲は、8月2日の午前0時10分まで続きました。1時間40分に及ぶ空襲で、市街地の8割が焼け野原となり、1,488人の尊(とうと)い生命が失われました。
925トンものE46集束(しゅうそく)焼夷弾等が投下され、163,000発余りの焼夷爆弾や子弾(しだん)が豪雨のように降りそそぎ、長岡を焼き払ったのです。当時の市域で、焼夷弾の落ちなかった町内はないといってよいほどすさまじい空襲でした。