2016年11月25日金曜日

ある精肉店のはなしを観て

「ある精肉店のはなし」 監督纐纈あや氏
命を食べて人は生きる。というドキュメンタリー映画、
牛の命と向き合う家族の記録です。
その日はとても丁寧にブラッシをかけてもらう牛。
このシーンに牛を育てあげた、深い愛情が感じられます。
そして、屠場に運ばれ
ハンマーで頭部を叩き、牛が命を落とすシーンは
ググッと胸がつまる。
そこに立ち会う、そこで仕事をする家族の語らいから仕事人の
情熱が感じられる。
家族の強い絆は、失う命ではなく、生まれる命の尊さを訴えているのかもしれない。
屠殺することが差別を受けた時代に命をかけて立ち向かった家族の勇気に
こそ命を食べることの意味を感じる。

精肉として、消費者に届けられる牛肉や煮こごり、内臓などをさばく
手際の良さを見ているうちに
だんだんと画像に慣れて、
見えないものが見えてくる。
牛の皮はだんじり太鼓になる。
毛をむしる、皮を張る。
なんだか、凄い。どう表現したらいいだろうか、
太鼓に変ることは命をつなぐことのように思える。
命を吹き込まれた太鼓の音は想像以上の命の芸術品だ。

この映画に登場する家族や
地域の人々の感性と映画監督の鋭い感性が心でつながっている。
最初に映し出された重い映像の感覚は中盤からは、全く感じることはない。
102年の屠場は2012年3月でその歴史に幕を下し
映画は終わる。

映画を観終わると監督が赤いセーターを着込んで登場。なんて若い監督さん。
もうビックリでした。予備知識のなかった私にとって
この作品を作り上げた監督は60歳前後なのではと勝手に思い込んでいたからです。
そして、監督のトークは観客の一人一人に大きなパワーとなって響き渡りました。
観客席からの質問
「この家族の方のセリフは監督の指示ですか」の問いかけに
若き女性監督の応えは
「私はセリフを作ってはいません。全て家族の声です」とそして
最後に
「長い撮影期間だったので、その間に家族の熱気が伝わりました。そしてそれを撮影している私の気持ちが伝わったのです」と……。
つまり、言葉とはうわべでなく
心と心がふれあうと人に響くものなのだということを教えてもらいました。
そして、もう一つ
客席に多くの高校生。この映画に導いた先生の素晴らしさです。
何処におられたかは存じませんが
最高の教育者に私は拍手を送りたいと思いました。





ガマズミの実ばかりが残ってしまいました。





この季節、東京に雪が何十年ぶりかで降った日、
平成28年11月24日の栃尾の午後、
家で昼食をとりながら、小春日和を追う。

ガマズミの葉は、ほとんど落ちて枝には赤い実だけが残っています。
色鮮やかで、つやつやと宝石のように輝いて見えます。
急いで、カメラを手に裏口から外へ飛び出し
お日様と鬼ごっこ。

ガマズミの木のてっぺんのその向こうは水色空です。

細い枝にぶら下がっている赤い実は
なんて、けなげでしょうか。
晴れ間をみて、小鳥たちは赤い実を探し充てるでしょう。


去りゆく命と
新しく生まれ変わる命

ガマズミの詩が聞こえるのです。





2016年11月21日月曜日

モミジの葉をいっぱい入れてやりました



山の実家に帰ってきた叔父は

栃尾の街を見下ろし、守門岳を見上げ
とてもうれしそうです。

朝早くモミジの葉を拾い、お日様で乾かし、
菊のお花とカーネーションと一緒に赤いモミジの葉を
いっぱい、いっぱい棺の中に入れてやりました。
薄ピンク色の紅をさしてもらった顔に
色鮮やかなモミジの葉は最高のお色直し。
それと、今日は最高続きです。お天気は最高!
縁側の戸をあけると、お日様のあったかい陽だまりに心は和らぎ
澄み切った空気の美味しさは最高!

それもつかのま・・・・・・。

黒い煙がもくもくと天を仰ぎます。
その煙に乗って魂は どんどんどんどん昇のです。
そして、たった2時間で
叔父の体は白い貝殻になってしまいました。
悲しくって寂しくって、少し涙しました。

今度いつ会えるでしょうか

きっと、生まれ変わってまた私の前に現れるような気がしてならないのです。

お帰りなさいそしてまたいつか・・・・・・。




2016年11月19日土曜日

私は62歳ほやほや。
性格は泣き虫、強情…ではないと思っています。
でもいつだったか私のこと強情だという
随分図々しく、友達が笑いながら言ったことを覚えています。
気が弱いと私は私のことそう思っています。
まず、私の腕に注射の針を刺そうとする様子は絶対に見ることができません。
でも、子供達や患者の接種は見届けることができます。
感受性は随分強い方だと思っています。
本や映画を見ると、大粒の涙が、我慢しているのに流れてしまいます。
夫や娘、妹と喧嘩をすると、怒っているのに泣いてしまいます。
だから、弱虫です。
今だって、そうです。
叔父の手を握り、虚ろな瞳で時計の時刻を読み、「もう、お迎えに来てもいい」
なんて話されたら、メガネをかけているからいいけれど、もう涙と鼻水が滴り落ちて
困ってしまいす。
忘れ物をすることでは天下一品。
千葉への出張では、確かな場所がわからず、確認のため、ファイルを取り出すと、
ホテルの案内図のみ、要項はなし。
要項はメールで送っていただき、セーフ。携帯電話の捜索願とメガネ探検は日常茶飯事。
なかなか憎めないキャラと言いたいが
夫を含め私の周りの方々は相当呆れモード。
私の苦手は、車の運転。四車線もある長岡の道路は大だいだいの苦手。
どこで車線変更したらいいのか、迷っているうちに通り過ぎること当たり前。
叔父の病院への道は、その四車線を通る。だから、栃尾から長岡大橋を通り過ぎ、ムサシを曲がるコース変更は絶対にできません。自信ありの方向音痴。
これが私。
だから神様こんな私に無理難題を言いつけないでください。




2016年11月17日木曜日

叔父の顔は穏やかに

叔父を長岡の病院に移転させて6日目になります。
ビーハラ病棟に移って2日目だろうか?
なんだか私の方が日日と曜日感覚が失われつつあるようです。
昨日から命の水をいただき、
少し、落ち着いたようにも見えます。
深い眠りを得ることはできないようですが、自分で酸素マスクを調節しながら
大きく息を吐いています。
その都度、胸に組んだ手が揺れます。
叔父は頭の中で、何かを追い求めて、くるくると回っているのだそうです。
何も考えたくないのに、次から次へと追い立てられているといいます。
少し首をかしげる私に
「あのね、例えば赤いセーターが欲しいと思って手に入れるでしょ、それなのにまたそのセーターが欲しくなるんだよ、だからそれをやめさせてほしい」というのです。
私は「そうね、先生にお願いしてみるね」と応えると安心しきったように頷きます。
モルヒネ注射の影響なのか、それとも今旅人になる叔父の道案内人が叔父の魂に宿ろうとしているのでしょうか?
そして、このビハーラ病棟のお医者様、看護師の皆さんの優しい言葉がけに
叔父が遠くを見つめるように
こういうのです。
「こんなに優しく、親切にしてもらって有難うございます。
みんなこの人たちのようなら戦争はおきないね」と。

どの看護師さんも今日の叔父の顔はとても穏やかになられましたねと……。

2016年11月16日水曜日

この世の中で一番おいしいもの知っていますか

看護師さんが素敵なガラスの器に
氷のシャーベットをもってきてくださいました。
叔父の酸素マスクを下げて
そのシャーベットをスプーンに半分くらいのせて
口に入れてやります。
「ああ、美味しい」とくしゃくしゃの顔をさらにくしゃくしゃにして笑みを浮かべます。
この世の中で一番おいしいものは
「水」だったのです。

山登りを盛んにしていた頃
湧き水をすくって飲んだことを思い出します。
どんな飲み物よりも水が美味しく、生き返ったことを……。
叔父も全身の疲れの中で、命の水を口にするのです。

私には叔父の様子が時間を追って厳しくなるのを見ても
不思議と感情が高ぶらないのです。
だって、人間は一度はあの世というところに
旅たつのですから
そして、叔父の魂は、いつか可愛い赤ちゃんに生まれ変わって
私の前に現れるかもしれません。
もしかしたら、外国人になったり、もしかしたら
血のつながりのある人だったりするかもしれません。
私が知ることはできないけれど
きっと、きっと生まれ変わって、
今よりも、もっともっと優しい人になっていつか巡り合うかもしません。

ビハーラ病棟に流れるバイオリンの音色は
心地よくて
私は、うとうとするのです。

2016年11月14日月曜日

髭剃りを買いに、そして桜を愛でる

10時半まで
エイトマンになって、ゆうパックの荷物作りを頑張り135個の包装を終えた私は
実母を横に乗せ叔父の病院へ一直線。
病棟移動の為です。
今までは、普通病棟、これから緩和ケア病棟のベッドを待つ間の
療養病棟での待機です。
「おはよう、具合はいかが」と明るくご挨拶。
ニッコリと手を差し出す。
ぎゅっと握りしめると少しあたたかい。
鼻から管を入れ、酸素吸入をしています。
たった3日の間に、叔父の顔は黄色くなり、くぼんだ目の脇は
大きな皺が波を打ち、難儀さが伝わるのです。
叔父の姉は3日続けて病院に泊まりました。
今日はお風呂に入りたいからと
私に付き添いを委ねてきました。
すぐに承諾する。内心は豆撰にも、家族にも病院に泊まるとは言っていなかったので
ちょっと困ったのです。
でも、叔父の
「そう、礼子ちゃんが泊まってくれるの」と
それはそれは安心したようにうなづくのです。
いくら叔父の姉とはいえ、高齢です耳も少し遠くて、看護師さんや主治医の話が
聞こえないことがあるようです。その都度叔父が繰り返し叔母に伝える。
その時の表情は、昔と変わらない姉弟喧嘩のように私には映り
私は心の中で笑っていました。

お部屋の移動完了。療養病棟の一室は
少し広くて、トイレも広いのです。
でもこのトイレを使うことはもうできないかもしれません。
しばらくすると、
「髭が伸びてね、おじさんは電動式の髭剃り持っていないから」
よーく話を聞くと、電動式なら看護師さんが剃ってくれるのだそうです。
ひとっ走りして買ってくるからと
病院のすぐそばにあるムサシに髭剃り求めて、ダッシュ!
髭剃りを買うのは生まれて初めてです。
店員さんに聞くと、髭が硬いか柔らかいかどっちですかと問われ
私は叔父の髭を触ったことはないのに
「柔らかいと思います」と答えるのです。
だって、頭の頂上はお日様ですもの。
そして、看護師さんから、綺麗に剃っていただきました。
モルヒネ注射は痛みの緩和をしてくれますが、その分浅い眠りが続くのです。
しばらく眠りの道を彷徨った叔父が突然
「来年の桜はどうだろうね」
悠久山の桜福島江の桜の話をするうちに、なんと素晴らしいことに気づきました。
iPadには栃尾の、私の大好きな桜がおさめられていることを。
早速、iPadを開き、木村先生のお家の桜、表町の桜を見せてやりました。
すると、くぼんで半開きの瞳が大きく開き、

「綺麗だね」と声も瞳も輝くのです。
私は夢中になって、五分咲きから満開の桜を次ぎ次ぎに見せてやりました。
そして、もう一つ思い出したのです。
この中に、豆撰の動画があることを……。
叔父は栃尾の風景、秋の棚田を見て、
「なんとも言えないね」と感慨深くつぶやきます。城山が映ると、
「礼子ちゃんと登ったことがあるよね」というのです。
私の心はもう締め付けられ、涙をこらえ、「覚えていたの」と
笑い涙になりました。
栃尾の油揚げを揚げる妹を見て、叔父は嬉しそうに微笑む。
社長で義甥の登場には、「正樹さんだ」と実家の跡取りに対する敬意を表すように
見入るのでした。
それから、この動画を撮ってくださった方は映画監督で私の友達なんだよと少し自慢をしました。メジャーではないけど、いい人なのよ。というと
「そう、風情があるね」と讃えるのです。
豆撰と栃尾を懐かしむ人のために作った動画は、叔父にとって、何よりのプレゼントであり、お見舞いだったと思え、ジーンとしてしまいました。



















2016年11月13日日曜日

八方台から森立峠にて 見送り地蔵で出会う






八方台から軽井沢への途中、森立峠あたりに
「見送り地蔵」と書いてある看板をみつけました。
道よりも少し奥まった、傾斜にぽつんと塔が建立。
道路から見ても、まるでお地蔵様の形はしていません。
近寄ってぐるりと回ると線彫りの延命地蔵が刻まれていました。
長い歴史の中で何回か塗られては落ちたのでしょうか
薄い赤色に塗られていました。
このような、線描きのお地蔵様を見るのは初めてです。
幾度もこの道を通っていたのに、立ち寄ることもなく通り過ぎていました。
この旧道は、栃尾と長岡を結ぶ殿様街道と呼ばれた主要道で
人馬が激しく往来したといわれているそうです。

どこから見ても、自分を見つめているように見えるから「見送り地蔵」
江戸中期以前、栃尾から長岡の殿様のもとへ年貢を納める百姓の父ちゃん、
母ちゃん。子供たちは親の姿が見えなくなるまでこの峠で「はようもどってきて」と
手をいつまでも振ってる顔が浮かぶのです。
牧野家のお雛様もこの峠を越えて栃尾に、病人のための薬も、
みんなこの峠の「見送り地蔵」に見送られたのでしょう。
まるで、タイムカプセルを開いたような、江戸時代に飛んで行ったような
ドキドキした映像が走馬灯のように私の頭を巡りました。
そして、今から40年ほど前に
栃尾からこの峠を越え、越後交通のバスで長岡に通っていたことを
懐かしく思い出しました。

平成の時代は「見送り地蔵」は羽田空港になってしまったようです・・・・・・。
クリスマスになればアメリカから娘夫婦が里帰りします。
その日まで、叔父の命がありますようにと「見送り地蔵」にお願いしてきました。





2016年11月12日土曜日

続・深夜食堂を観るきっかけ……。

私のお友達のSさんはFBでよく、「いいね」をしている「深夜食堂」ドラマ
いつも気になっていました。
そして、ついに
「深夜食堂」の映画版に惹きつけられ、興味深々で観ることに決定。
ミュージカルのように歌から始まり、右手に字幕がつきます。
最初は外国人のための字幕かと思ってしまいました。
なんで日本語で書かれているのにそう思ったのか、
首を傾げたものの。すぐに、これは日本語だと気づきました。
これは、演出なのでしょうか?
新しい映画なのでしょうか、少し慣れるまで戸惑ったり、邪魔になったりしました。その字幕はセリフでも続くのです。これまた新しい企画?
難聴の方のためかしら?と納得する私。

さて、深夜食堂にはいろいろな人が集まります。
焼肉定食をいつものものという編集者、蕎麦屋なのに焼うどんが好きだという息子、捨ててしまった子どもが大好きだった豚汁と三部構成に深夜食堂のメニューがキーポイントで登場する。なかなかにくいシナリオだとニンマリ。
三品とも、とてもいいアングルである。プロですから当たり前なのですが、
横からのアングルというよりやや真上から写している。参考にしよう。
稲荷神社に備える油揚げはこんがりと焼かれている。などついつい、豆撰モードに入ってしまうのでした。栃尾の油揚げを使ってほしかった、お酒は八海山だったのに。
三部作の主人公たちは、皆さん人情あり、笑いあり、涙ありの
水戸黄門タイプです。
その場面に合わせた、歌とクラッシックピアノ曲が映画を盛り上げ
観ている人を自然と惹きつける。
深夜食堂のマスター演じる小林薫の人の良さがこの映画の全てを物語っています。
この食堂に集まる人たちは
「自分にできる時にたすけてやればいい'」というマスターに
憧れているのではないかと思う。
欲張らず、何気なく、それでいて、当たり前のような、あったかいものが
三部作ですから、一本の映画の中で3回感じることができるのです。
私の大好きな俳優オダギリジョーさんが警察官役で登場。
これもいい。鋭く危険な役もこなす俳優さんだと思うのですが私は
この警察官のように優しい癒しの声の役が一番好きです。
最後に、せっかく目を凝らして、出演俳優さんと、素敵な歌声の主をしっかり探そうと
思っていたら、両方が一緒に流れるエンデイングに
見逃してしまいました。残念賞!

映画を観るきっかけにありがとう。今日も素敵な映画を観ることができました。





2016年11月11日金曜日

民間救急車にて、帰ってきました。

朝6時に千葉の病院を出発して
叔父が帰ってきました。
私と叔母が移転先の病院に着くと同時に
民間救急車が長岡の病院に停まりました。
なんて、丁度いいタイミングでしょうか
民間救急車の後部が開きます。
そこに、叔父はベットに寝たまま、腕には点滴でした。
思いっきり元気な声で明るく
「お帰りなさい、待っていました」 と私は声をかけます。
叔父は
「ありがとう、良かった、嬉しい」を繰り返し
少しだけ涙ぐむ。
「難儀くなかった?」と顔をのぞくと
「快適だったよ」と叔父の弾む声。
その傍らで、そっと涙をこらえる叔母のしぐさが心に届きます。

歩くことが無理な叔父をそのまま病室に移動です。
看護師さんと主治医がバタバタと駆けつけ
血圧、熱などを手早く測定。
入院説明を受けます。
一通り終わると
叔父は看護師さんに
「床屋さんのデリバリーはありますか」と少しはにかんで
まるで青年のような顔で問うのです。
その言葉に私、叔母、従兄の三人は
互いの顔を見合わせ大爆笑です。
叔父の姉で5歳年上の叔母は
「どこをかるがあて?毛なんかないねかて」と大笑い。
「姉ちゃん、ここが伸びてるろ」と
耳の脇の髪の毛を指でなでる叔父。
「まあ、楽しいご家族ですね、笑いがあっていいですね」と看護師さんの
声まで笑っていました。

命あるかぎり
笑って、笑って、笑って !





2016年11月3日木曜日

チョコレートドーナツ

映画のはじまりに、少し戸惑ってしまった。
私の年代ではゲイを完全に受け入れられる人は
よほどの見識者であり広い心の持ち主くらいだと思い込んでいました。
ふたりの主人公の出会いのシーンから始まるのですが、そこにダウン症の子どもの登場で
映画を観る態度と興味が一変してしまいました。
子どもの母親は麻薬常習犯で、刑務所に入る。施設に閉じ込められるより
ふたりは愛を持って引き取るのです。弁護士とゲイバーで働くふたりの関係を
表に出さなければならなかった。弁護士は、ゲイバーで歌い手の、本気で、愛情を持って、ダウン症の子どもを引き取ろうとする純粋な気持ちにうたれ、自分も勇気を出すのです。

ゲイへの偏見を取り払ってくれる、感動映画に仕上げたのは、ダウン症の子どもへの関わり方が大です。
ここで考えさせられるのは、自分の中に潜んでいる偏見です。
ダウン症の子どもは保育園時代に関わっていました。他の幼児と一緒に保育園生活を送るにはとても難しく問題は山済みでした。その後、専門家の指導のもとで私はまるで想像できなかったダウン症の子どもの成長を思い出しました。

ゲイであろうと、そんなことは関係ない。必要なのは愛であると思っているふたりが、裁判で負けてしまうのです。
胸が締め付けられました。司法とはたてまえで決めるものなのかと、苛立つ。
最後はもっと切なくなるのです。

この映画で思い出したことは、もう一つありました。
娘がドイツの大学院時代。実習で半年勉強をさせてもらったランドスケープ会社の
社長は同性愛者だったこと。
娘は言いました。日本と違って、偏見はないし、とても素晴らしく、良い人たちだと。
その時は、理屈で理解しようとしましたが、なかなか全部を受け入れることはできませんでした。でも、この映画は、私の中に潜んでいた偏見を取り除いてくれたようです。
映画って本当に素晴らしいものです。この映画を観るまでの私と観終わった今では
全く考え方が違ってくるのですから、観る人の年齢、立場にもよりますが
ゲイや障害児に対する偏見について、考えるきっかけになる映画には間違いないと思いました。

2016年11月2日水曜日

認知症の頭の中は複雑です

実母の認知症が始まったのは
父が病に倒れた頃ですから、13年以上前になります。
症状は、徐々に進行しています。
うつ病と認知症の間のような感じです。
一番変わったことは無口になったことです。
イエス、ノー、わからない(意志表示をしないことです)、この3つの選択肢以外
滅多に言葉を発しません。
唯一、潜在的に脳の中に潜んでいることは
赤ちゃんと同じに愛想笑いをすることです。
豆撰にお越しのお客様で母を知っている人は、「元気だかの」 と声をかけます。
すると、優しそうな笑みを浮かべてうなづくのです。
お客様が帰られた後に「知っている人」?と聞いてみると
首を横に振るだけです。
そんな毎日の中、突然頭の中の入り組んだ血管がつながるのです。
摩訶不思議な現象です。
年に一度か二度の事です。
その日が先日、突然眠りから目をさまし回線がつながったのです。
まるで台風の襲来です。
盛んにおしゃべりをします。そこで私は4枚ほど書き上げたばかりの原稿を
渡してみました。結構長い時間、その原稿を一枚ずつまくり
完読し、4枚書いたのかと確認をするのです。
この原稿は、今週末に豆撰のDMの中に同封する、私のお手紙です。
その内容を把握できたのでしょうか
東京の叔父さんはどこが悪いのかと質問をしてくるのです。
私が答えると、それはそれは悲しそうな顔で天を見つめ、深いため息を漏らします。
この日、回路は全開。
そこで、先日お友達と一緒に紅葉を見に道院で撮った、母の写真をパソコンで
開いて見せました。
満面の笑みで「いい写真だ」と嬉しそうに話すのです。おまけに、他にはないのかと催促します。
もう一枚をアップすると
これもいいと満足そうに言葉を発し
どっちがいいか、さっきの方を見せてほしいといいます。
この繰り返しを数回した後に、やっぱり、こっちが良いと
判断を自分で下しました。
そして
「この写真をでっこうしてくれ」と笑みを浮かべるのです。
この日は、母は味噌汁も作ったそうです。
これまた、びっくりです。
妹曰く、20年くらい前の母に戻っているらしいのです。
そして、夜になり眠りに入ると…朝になってもその日は起きることなく
眠り続けたそうです。
まるで村上春樹著「海辺のカフカ」に登場するナカタさんのようだと思いました。
私自身が自分の中にナカタさんが存在しているように
思うことがあったのですが、私ではなく母であり
その血を受け継いでいるのは私かもしれない不思議な現実です。

2016年11月1日火曜日

母ちゃんの指輪

認知症の実母の左手に、深緑の翡翠を見つけました。
その指輪はどうしたの?と問うと
母ちゃんは、ちょっと困ったように笑います。
どこから出したの?
うちにあった

この翡翠の指輪は、父と私が選んだ指輪です。
突然父が
母ちゃんは指輪を持っていないから買ってやりたいと
街の時計屋さんに、3人で行ったのです。
深緑は子供の私には真珠やダイヤと違って
なんとなく品があって、魔法にかけられた色に見えました。
母ちゃんは45歳くらい、私は中学生の頃でした。

妹にあの指輪はどうしたのと聞きました。
すると、母ちゃんの宝物箱を今日見せたら
喜んではめて、取らなかったと言います。

母ちゃんの薬指にはあの時の翡翠の指輪の物語の扉が開いたのです。
父の買ってくれたもの
思い出せなくても、きっと頭の中で、綿飴のように甘くてふわふわな
感情が湧いてきたのかもしれません。


父の買ってくれたこの指は罪滅ぼしだったことが今の私にはわかります。