2016年5月31日火曜日

夕暮れの帰り道



帰り道
家並み、遠くに見える守門岳、お花たちはもう少しでお休み色です。
川の音は、哀しい鳴き声です。
私は一日の終わりに、明日の憂鬱な仕事(書類作成)の算段をします。
そのうちに今週のお休みはどう過ごそうかと、あれこれ考えます。
そして、1年後に、この道を歩いているだろうかと・・・・・・。
だんだんと2年、10年15年の先を想像するのです。

でも、今日が最後かもしれないと、やっと車を運転してきた義兄にとって
一日はどうなんだろうか
命の限りを突然、医師から告げられた人の気持ちを神様は
どう思っているのでしょうか

車の窓を半分あけて、わたしと目を合わせると
涙がにじんでいるのです。

「兄さん。あれ飲んでいますか?毎日飲んでね。なくなったらすぐ持って行くから、
免疫力アップして、がんばってよ」と私は強い口調で言います。
義兄はうなずくだけでした。



2016年5月28日土曜日

伝説のスピーチライター

先日読み終えた、原田マハさんの「本日は、お日柄もよく」の主人公はスピーチライター
OL二ノ宮こと葉は、想いをよせていた幼なじみ厚志の結婚式に最悪の気分で出席。ところがその結婚式で涙が溢れるほど感動するスピーチに出会う。それは伝説のスピーチライター「久遠久美」の祝辞。言葉の魅力に取りつかれた、こと葉は久美に弟子入りし「政権交代」を叫ぶ野党のスピーチライターを引き受けることになる。この小説の中にOさんのことが出てきます。Oさんの演説のうまさは「We」にあると書かれていました。「私は!私は!ではダメ」、「あなたたちと一緒にやりましょう」と演説する。そして「チャンス」と「チャレンジ」のキーワードこそ民衆に感動と期待を持たせてくれたと分析していました。私の頭の中では読んだばかりのこの本の余韻が残っている中で、今回の伊勢志摩サミットや歴代大統領で初めての広島訪問がやってきたのです。


このブログを書き始めてから、書き直しの連続でした。それには、理由があります。
書き終わって、「よし、書いた」と思う後から新しい情報が飛び込んできました。
そのひとつは、オバマ大統領が肩をそっと抱きしめた被爆者である「森重昭」さんの記事でした。
40年もの間、森重昭さんは、広島で原子爆弾の犠牲になった14万人余りの人々に含まれていた被爆米兵捕虜12人の記録を探し続けていた、その情報がアメリカのオバマ大統領の耳にいつしか届いたそうです。
被爆者の肩をそっと抱きしめた、アメリカ大統領オバマ氏と自らが被爆者でありながらアメリカ兵士たちを探し続けた森重昭さんの間には、敵も味方もなく、戦争の犠牲者を、もう二度と出してはならない。そんな世界は終わりにしましょう!とお互いの気持ちがひとつに溶け合った瞬間だったのではないでしょうか。もし仮に、これがスピーチライターのシナリオだったとしても、オバマ大統領の真の気持ちが絶対に、ライターに届いたからだと思いました。
もうひとつは、 アメリカ大統領オバマさん自身が広島に来たくて何度も機会を探っていたことを知ったからです。ここまでたどり着くまでは、アメリカ政府と日本政府、それぞれの立場の谷間で、先送りにされていたようです。任期満了前に果たしたかったオバマ大統領の強い信念に感謝します。
このふたつの情報が私に、もう一度ブログを書き直さなければと思った本当の理由です。 みんなの願いは、ただ一つ。核のない、戦争のない平和な世界です。
その架け橋となって、オバマ大統領の広島訪問があったことを私は一生忘れないでしょう。

そしてブログとは自分の反省日記だということを知ることもできました。


2016年5月27日金曜日

中古品に必要なものは自然と夫です。








一日中、取り付けられた心電図の結果は良好でした。
しかし、どうも別の不整脈が出没したようです。
その正体は高血圧です。
そして、根源は肥満にあると夫は言います。
食事については、大豆製品中心の手作り料理を
心がけています。食事には問題はないはず・・・?
あるとしてたら、スイーツの食べ過ぎです。
そして、つまりは運動不足が一番の理由なのです!
(わかっていますよ)
そこで、夫にお願いして、城山散策をしました。
岩の鼻から階段を歩きます。400メートルくらい
木道の坂道を歩きます。
登り始めると、心臓がだんだん高鳴るのです。
ドキドキとハアハアの繰り返し。
無理をしないように、何回も立ち止まり、呼吸を
整えて、上りました。
オットセイのような木、ジャングルにあるような
雰囲気の木が目に留まります。
森の木々はそれぞれが個性をむき出しにして生きています。
頂上に着くと、ヒョウモンらしき蝶がふわふわと
目の前を通り過ぎて行きます。
夫に「早く望遠出して、撮って、Nさんは守門で
ギフチョウとキタテハを撮ったんだよ」と、
ちょっとだけ、ライバル意識を促した私。
「よーく、Nさんは上手に撮っているよな、三脚
か一脚使ってんじゃないかな?」と夫。
「一脚?買ったら」とそっけなく応える私。

中古の体に油を注ぎ、生きていくには、自然と夫
が一番の良薬と再確認しました。



2016年5月26日木曜日

献体とは

FBのお友達Eさんの投稿を読ませていただきました。
Eさんのお母さんは生前、献体をご希望なさり登録なさっていたとのこと。
多くの患者のために捧げたご自分の体、尊敬のふた文字でした。
「献体」の文字と慰霊祭の菊の花から、献体の意味を想像しながら、とても気になっていたのです。

それには訳があります。
もう15年も前のことです。私には姉妹のように仲良しの叔母がおりました。
叔母は56歳のある日、宣告を受けました。
私はその日から、一年間病院と叔母の家に通い、励まし続けました。
それでも、あらゆる場所に転移した細胞は、叔母の骨を食い荒らし、壮絶な痛みを課したのです。叔母の生前の言葉の中に「私は今まで悪いことは一つもしてこなかったのに、どうしてなの?」問われる言葉に絶句でした。「苦しいのは姉ちゃんだけでないよ、家族も私もみんな苦しいのだから」と私は血も涙もないような返答をしました。今なら「そうね」と一緒に涙を流したでしょう。泣き虫の私なのに、叔母が天に召される、その時まで涙を流しませんでした。その、すぐ直後に、家族と私の父に主治医から解剖の要望がありました。家族の出した答えは「no」でした。
父はそっと耳元で「礼子の気持ちはわかる、でもここは子供達の気持ちを優先してやらなければならないぞ」と言いました。私の目には溢れんばかりの涙がいっぱい溜まり、胸が苦しくなったことを昨日のように覚えています。

この経験から15年が過ぎ、FBのお友達の投稿で、知った「献体」について私はどうしたいのか、私の娘はどうするのだろうかと結論の出ない迷路に入っています。

2016年5月24日火曜日

今日が過ぎて、明日が来て、春が過ぎて、夏が来て

悲しそうな顔をしないでください。
切なそうな顔をしないでください。
義兄が全てを覚悟して、「お願いします」と無理を押しながら自分で運転をして私のところにやって来た。
病魔は、患者の気持ちなんて無視して増殖を繰り返す。
何人の身内の病魔を見てきただろうか
祖母、叔母たち、父とみんな同じ種類の病魔だった。
励まし、そして看取って来た時、私はまだ40歳から50歳ころである。
今は60を過ぎている。
いつか必ず私にもやってくる「死」をどう自分はうけとめるのだろうか。
夫に話す。義兄の涙について……。
私たちにできることは、気休めの励ましである。
それでも、私は今日生きられたら、明日も、そして春から夏へと
奇跡を信じて祈る。



2016年5月22日日曜日

餡をたぎる

思いつきで、おはぎに挑戦してみました。
小豆を丹精込めて作っている義母に、一応お伺いを立て、小豆を一晩お湯に浸してもらうようお願いをすると、大事そうに大豆袋をかかえ、「おかあさん、4合でいいかの?」と私に聞く、その声には張がありとても嬉しそうでした。

さて、晩浸した小豆を柔らかくなるまで煮ることは、私の生まれて初めての経験です。レシピだと高圧鍋を利用と書いてありましたが、義母は普通の鍋で火にかけ一晩浸しておいてくれたので、私はそのまま昔のやり方で挑戦。皮を軽く指で押し、豆がビチュと出る感じと動画レシピを見ながら、なるほど。これでいい塩梅。では小豆を潰して、茹で湯を入れ、こします。さらに水を加え、うわ水だけ捨てる。その繰り返しを3回もしました。でんぷんは沈んでいるのか、いないのか?これでいいのだろうかとだんだん不安になり、途中で、数回友達に電話して、伝授してもらいました。
樹木希林さんの映画「あん」を思い出す。そうだった、そんなに簡単にはできなかったな。心で餡を煮るなんて、100年早かった。必死でこすのみ。必死で餡を炊ぎるだけでした。もち米と白米は半々にして炊きました。
餡の味付けは、まあ良し。ご飯も炊けたので、早速ご飯をまるめ、餡をつけ、少し大き目のお皿に並べはじめると・・・。義姉妹を招いては、おはぎ作りを楽しんでいた、元気な頃の実母の顔が浮かんできました。『今日は私が作るからね、待っていてね』と少しだけ涙ぐむ私。
一つ二つ、十個と皿に並べながら何個作ればよかったかと指を数えてみると、11人分のおはぎが必要でした。
あら、まあ、なんだか、炊飯器の中のご飯と餡の量に差があり過ぎです。餡は丁度いいのですが、釜のご飯は半分も残ってしまいました。餡とご飯の分量を確認しなかった私の大失敗。
とりあえず、冷凍にすることにしました。あぶらげ作りも面倒ですが、餡作りも大変。何かを作るって骨が折れることなんだと再度実感した次第です。

出来あがったおはぎを一番先に食べたのは、ディサービスから帰ってきた義父です。
「おかあさん、ようできて、うまい」と嬉しい一言をいただきました。


2016年5月20日金曜日

流す涙の数は同じでした。


 「殿 利息でござる」と「海の上のピアニスト」の二本を観ました。私の少女期には映画と言えば2本立て。何十年ぶりの二本立てだったことでしょうか。
「殿 利息でござる」は映画館で観ました。「海の上のピアニスト」はDVDを朝方3時に起きて観ました。邦画と洋画の違いはありますが、片方が正義ならばもう片方は哀愁でしょうか。
「殿 利息でござる」は日本人好みの内容です。水戸黄門タイプでしょうか。心臓病を患っている私には精神の安定が一番の良薬です。ひと癖ふた癖もありそうな悪人面が、だんだんと良い人になっていくのです。悪人顔なら日本一と言っていい顔立ちの山崎努。
悪人を装っても、どこかに人のよさそうなお坊ちゃん雰囲気の妻夫木聡はやはり良い人だったのです。喜劇タッチで面白い。何よりスケートの羽生さんの友情出演は観る人を楽しませてくれました。
この演出には観客動員を図った話題性もあるのでしょうが、結構いい感じ。スケートの次は俳優もありかと思ってしまいました。
一方「海の上のピアニスト」は最初から重い。ヴァージニアン号に捨てられた赤ん坊はレモン1900と呼ばれる。黒人機関士ダニーに育てられ、「ママってどんな人」と尋ねるところから、切なくなっていきました。ダニーとレモンのコミカルな会話に心が落ち着き、笑いも生まれました。ところが、ダニーは事故に逢い、あっけなくに死んでしまうのでした。「殿利息でござる」のように話が良い方へとは進まないのでした。その後、レモン1900はヴァージニアン号から一度も陸に上がることなく、海の上のピアニストになり、友人マックスと出会う。船上で見かけた女性に恋をして、一度は陸に上がろうとするがタラップを降りることはできませんでした。この映画はなぜ観る人の心をこんなに切なく、悲しくさせてしまうのだろうか、素晴らしい映画とは心を寂しくさせることでしょうか。まったく真逆の世界を表現するふたつの映画。心臓に良い映画は「殿利息でござる」
心臓には少しきついが心に残り、人生の終わりについてを考えさせられるのは「海の上のピアニスト」、どちらも流す涙の数は同じで、感動の映画でした。


2016年5月19日木曜日

ある介護施設の老人たち

長岡にある介護施設から豆撰に一本の電話が入りました。
車椅子の方から認知症の方々様々な人が、「一週間順番に豆撰の栃尾の油揚げを食べに行きたいのですがいかがでしょうか」という内容でした。毎日、認知症の母をみている私たちです。受け入れには即答で「どうぞ、お待ちしております」となりました。
初日は車椅子の方が2名、介護人の手が必要な方が2名、そしてヘルパーさん2名、合わせて
6人でした。車からの乗り降りにはリフトを使っていました。ご自分の足で歩ける人には肩を貸し、片方の手は腰を支えるヘルパーさんの親切で、きめ細やかな心配りに感心させたれました。
優しい言葉かけでした。我が家の91歳の義父が喜んで施設に通う理由がよくわかりました。
そして、時間はかかりましたが、テーブルに着くことが出来ました。揚げたての油揚いつもより食べやすいように細かく切り、豆撰自慢のお豆腐「ざるとうふ真心」とお惣菜のロールまきを添えました。
みなさん、とても喜んで「おいしいおいしい」とにこやかな顔でした。
次は、おのおの方々がショーケースをのぞき込み好きなものをヘルパーさんに言って、お買い物をしてくれました。はじめての受け入れでしたが、私たちは「ようこそ豆撰へおいでくださいました。ありがとうございました」の気持ちにさせていただきました。仕事に追われているとボランティアはなかなかできません。でも、こうして豆撰を訪問していただければ、私たちも少しは役に立つことが出来ると思いました。そして、4人の老人たちがヘルパーさんにほしいものを伝える時の表情は、介護されている人ではなく、自立した顔になって見えました。それからも続いた介護施設の老人たちはだんだん軽度になって人数も増えていきました。おしゃべりも盛んになり、狭い店内が割れんばかりの笑い声でいっぱいになりました。
そして、ご自分の財布からお金を出して、ご自分でお買い物をするのです。
このことは、とても脳の刺激、活性化につながり生き生きして見えました。

2016年5月18日水曜日

指揮者 佐渡裕


拍手は長く、何回も続きました。
トーンキュンストラー管弦楽団とマエストロ「佐渡裕」さんに対する感謝と賛美の拍手です。
幕が下りると、会場アナウンスが入りました。
「ただ今から、熊本地震の募金を皆様にお願い申し上げます。募金をしていただいた方は佐渡裕さんと握手が出来ます」と言う内容でした。
早速、列に並びました。
緊張の中で佐渡裕さんと握手です。私の身長は150センチ、佐渡裕さんは外国人と同じか、それよりもちょっと高いかもしれませんでした。私は握手しながら、佐渡さんの顔を見上げました。すると、額からは玉のような汗が噴き出していました。
 玉のような汗です・・・・・。
会場は長岡市立劇場です。私はA席19列2番。
クラッシック音楽を是が非でも聞きたいと言う訳ではない私。指揮者の名前に惹かれ、世界の「佐渡裕」さんをこの目で一度見たかったからです。
さて、開演直前です。バイオリンの音合わせ、 これは映画「マイストロ」で松坂桃季が演じていた役だなと、ひとりでうなづいていました。

いよいよ本番です。タクトは優しく、時には荒々しく、大きな体と一体になって振れています。
バイオリン、チェロ、などの弦楽器は曲の流れの中で一斉に波を打ちます。ベートーヴェンピアノ協奏曲第一ハ長調作品15の演奏になるとステージの中央にピアノが移動されました。ドイツと日本人の両親をもつアリスさんです。スタイルは最高、体のシルエットがはっきりとする薄紫色のドレスに身を包み、背筋をピーンと伸ばし、颯爽と中央に登場。10本の指が鍵盤を軽やかに、力強くタッチします。指揮者とのアイコンタクト。もう世界が曲に包まれているように感じました。
休憩をはさみ、2部で長い43分、47分の曲が演奏されました。そこで私は一番感動したのは花形の弦楽器、管楽器ではありません。打楽器のテンパニーと トライアングル?(これは遠くだったのではっきりとはわかりません)この楽器は、脇役から主役に変るのですから。テンパニーのバチはきめ細かな技術で作り上げられる日本製が一番とテレビで見たことがありました。きっと日本製に間違いないはずです。曲の盛り上がりで、ラストで、存在感を表現する。そして、出番を「待つ」ことがどんなに重要かを強く感じました。トライアングルの音色は天使のベルそのものでした。
ひとつの楽団をまとめ、全身全霊でタクトを振り、感動を与てくれる佐渡裕さんに会えたことは
一生の想い出となりました。

2016年5月16日月曜日

初恋

保険証探しをしていました。すると、あの7・13水害の瓦礫の中から奇跡的に取り出すことができた、私の宝物箱が目に止まりました。この箱を開けたのは15年ぶりです。蓋を開けると、いちばん上にドイツの学校に行ったばかりの娘からの手紙とハガキが数枚積み重ねてありました。その中の一枚には、『お父さん、お母さんお元気ですか?後一年したら日本に帰ります。一緒に旅行がしたいと思っています……。』と殊勝なことが書かれていました。この一文は全く守られることなく、今ではアメリカ暮らしです。この宝物箱にはたくさんの想い出が詰まっていました。この手紙の数だけ私の人生に深くかかわった人たちの私へのメッセージなのです。
そして、一番箱の下になっていた封書を手に取ると、切なくて胸が締め付けられるような切ない気持ちがよみがえりました。
15年前、私の大好きな姉のような存在だった叔母が肺がんのために、この世からいなくなりました。それから数十日後のことです。叔母の親友だったYさんが突然、豆撰に私を訪ねてきたのです。
42年ぶりの再会でした。風の便りで私の叔母の死を知り、いてもたってもいられなくなって、叔母のところにお参りし、その足で、今まで一度も訪れることなかった栃尾へ立ち寄ったとのこと。私と私の母のことが懐かしくなり、どうしても、会いたいかったと嬉しそうに私の顔をみつめました。叔母との想い出、話はつきませんでした。叔母が生きていたなら、どんなに喜んだことでしょう。叔母の最期の様子を話し終えると、お互いの顔は涙でぐちゃぐちゃでした。
そのYさんには弟がいました。私と同じ歳でした。名前は「よっちゃん」
5歳の時によっちゃんはお父さんの仕事の都合で引越しをしたのです。ある夏の日、池のふちを歩いていると、足を滑らせたのでしょう。私は池の中に落ちてしまい気絶したのか、溺れかかったのかわかりませんがよっちゃんのお母さんの背中で目が覚めました。よっちゃんの浴衣を着せられていました。それが、とても恥ずかしいようで、嬉しかったことを今でも覚えています。
春になると、お互いのおばあちゃんからランドセルが届き、一緒に小学校へ行く約束をしました。
そして、大きくなったら私をお嫁さんにすると言ったのです。
別れの朝、よっちゃんと家族は坂道を下りて行きました。
この話はお姉さんのYさんに話しませんでした、別れ際になって、「よっちゃんは今どちらにお住まいですか」と尋ねました。すると一枚の紙に住所を書いてくれたのです。
私はその住所のよっちゃん宛てに、一気に手紙を書きました。私の記憶をたどり、無我夢中であの時の約束覚えていますかと。
しばらくすると、丁寧に私の名前が書いてある封筒が届きました。
その封筒には、近況報告が便せん2枚にびっしり。そして最後に「ごめんなさい、残念ながら、あまりにも幼少で覚えていませんでした」と結んでありました。このお手紙をいただいてから早15年が過ぎました。私の探し物はこの切ない気持ちだったようです。

2016年5月14日土曜日

母ふたりと歩く森







母の日に何もしてやらなかった私の罪滅ぼしに、
91歳の義母と85歳の母を連れて道院高原へ。
駐車場から、ゆっくりと歩き始めました。
義母は手押し車の代わりに、木の枝を見つけ杖にしていました。
15分くらい歩き、沼で一休みです。
妹が買ってくれた、どら焼きを食べお茶を飲む、
老婆ふたりと夫と私。
平和なひと時です。そして、贅沢な時間だと思いました。
夫にせがんで、ブナ林を回ってもらいました。
木漏れ日の中に見つけた不思議な木。
森の精霊が邪悪な心を持つ森の悪魔の魂を抜きとって
この木に次々と貼り付けたと思いました。
こぶの木は邪悪なものを全部自分で背負っているのです。
トムハンクス主演映画「グリーンマイル」の世界のように。
そして、
森の出口には黄色のマイルが続いていました。


2016年5月13日金曜日

スタンド バイ ミー

庭の花たちの背丈は随分伸び、
山はあっと言う間に真っ青になりました。
「年をとるってことだよね」と妻がつぶやくと、夫は「そうだな」とうなずく。
久しぶりに老夫婦一緒に映画「64ロクヨン」を観に行きました。
映画終了とともに、雨はあがっていました。
そこで、榎木トンネルを過ぎた山の棚田を見学することにしました。
車から降りた夫は「お母さん、爽やかだぞ」と弾む声で私を誘う。
田植えのはじまりです。田んぼは、まるで魔法をかけられた鏡のようでした。
「気持ちがいいわね」と大満足で帰宅しました。
夫は畑に義母と農作業に行きました。
私は借りてきた「スタンド バイ ミー」のDVDを観ました。
光と影は、線路や森をキラキラと映し出して、とても素晴らしい風景でした。
また、映画のシーンと同じように、
子供の頃、友達と一緒に線路の上をドキドキ、ハラハラしながら走りぬけたことを想い出しました。

「スタンド バイ ミー」の映画について、娘に知っている?と
尋ねたら娘は小さい頃に私と夫と一緒に観に行ったと言います。
ヒルが体中に張り付いたシーンで怖くなり
最後まで観ることなく、映画館を出たそうです。
私はすっかり忘れていました。だから見たことあるような気がしたのですね。
これもまた、いい想い出です。
そして、今はこの線路道を夫に支えられ、歩いています。
これからも・・・・・・。

2016年5月10日火曜日

お父さんの老眼鏡と間違ってしまいました。





今朝はもう大変な大騒ぎでした。
時計は4時を打ったばかりなのに愛猫マメは、
「お腹がすいたよ、早く起きてよ、お母さんいつまで寝ているんだよ」と 大きな声で泣き叫ぶのでした。
私はこの叫びに「うるさいわよ、まだ早いでしょ」と返事をして
布団をかぶりました。
すると、猫に優しい夫は「よしよしわかった」と言いながら、リビングに行くのです。
すでに私の目は覚めていたので、ベットに戻ってきた夫とすれ違いに、仕方なくリビングに下りました。
すると、もう大変なんてものではありません。冷蔵庫の前のマットから床、玄関と食べたばかりの餌をもどしているではありませんか。(夫に言わせると、かまってほしいからだそうです)
後始末を終えやれやれ・・・・・・。
庭で、この大作業をみつめ、苦笑いする牡丹たちの撮影を夫に半ば、強制的に依頼しました。
と言う訳で、猫騒動で私の時間は失われましたが(娘との電話、フェイスブック、ブログをすることです)
朝食、お洗濯などは早めの完了。
そこで、通勤は今年初。自転車で行くことに決めました。
風を切り、つばめにご挨拶しました。赤、薄いピンク、オレンジ色のつつじの垣根を通り、花壇を見つめる老人の背を見つめながら走る。
やっぱりいい気持ちです。

さて、今日一日張り切って早く仕事を終わらせて、自分の時間をつくらなくっちゃと栃尾の油揚げの印字作業のお手伝いをはじめたのです。
ところが、なんだか変。日付確認するのですが、はっきりと見えないのです。心臓ばかりでなく、老眼も進んでしまったのかな?
いいえ、3月にメガネは新しくしたばかりです。
変だなあとメガネをはずしてみました。
あっら~。
お父さんの老眼鏡じゃん!

2016年5月9日月曜日

心が嬉しくなると、メガネがくもってしまいます。





ここにアップした一枚の絵手紙

マンサクの絵に添えられた言葉
「春満開で心が癒されます
先日は気遣いいただきまして
ありがとうございました。
とてもおいしかったです。
くれぐれも
ご自愛ください。」

私の書いた小さな一言、「一生懸命美味しいあぶらげを作りたいと思っています」が
こんな大きな気遣いになってかえってきました。
嬉しくて嬉しくたまりません。

また、昨日のことです。
私が保育園の時お世話したSさんのご家族と一緒に上野のあるお店で食事を楽しみました。
奥様が選んでくださったバイキングのお店です。まだ11時だというのに、待っている人の多い事。
「予約しておいてあります」と気遣いの奥様。
楽しいひと時はあっと言う間に過ぎました。さて、そろそろ次の目的に向おうとした時に、奥様とお子さんは、なにやらヒソヒソとそしてガサゴソとしていました。
「これね・・・・・」と私に差し出されたものは小さなカーネーションの付いた箱でした。奥様がお子さんの顔を見ながら言葉を添えてくれました。
「今日は母の日だから、先生にプレゼントです」
もう私は感極まって、目から熱いのが滲んでしまい、そっと人差し指でその雫をぬぐいました。
早速、箱を開けてみました。素敵な金魚さんの扇子です。私が忘れん坊だからと「多田礼子」と名前までついていました。金魚の絵は私の好きな絵です。2歳だった娘の浴衣模様に選んだ図柄と同じ感じでした。
そして、今朝Sさんからメールが届きました。
昨日は疲れませんでしたかとはじまり 、『Gは「礼子先生へのプレゼントはお父ちゃんが渡せばよかったんじゃないの? おらはちょっと恥ずかしかったよ」と言っていたので、「礼子先生は、Gのことが大好きだから、Gから渡してほしかったんだ」と答えたら、嬉しそうにしていました。』と書かれていました。
このメッセージを読み、またまた感動してしまいました。





2016年5月7日土曜日

母の日に想う

91歳の義母は腰が曲がっています。鍬で田を耕し、鎌で草を刈る仕事を80年以上もしてきたからだと思います。今年も夫と一緒に畑に行っています。

私のひとり娘は義母に育ててもらったようなものです。
育児休暇の制度がまだまだの、36年前です。義母は娘をおんぶして、私の勤務先まで片道30分以上かかる山道を歩いて、四ヶ月も通ってくれました。それも、私の休憩時間に合わせてですから大変でした。日中の一番気温の高い時です。雨の日は長靴を履いて、傘をさして来てくれました。それはおっぱいを飲ませるためでした。
私が仕事から帰ると、夕飯は出来ていました。おまけにオムツの洗濯も終わっていました。全部義母はひとりでやってくれました。
あの時、義母は55歳。今の私より、ずっと若いおばあちゃんでした。感謝の言葉を何百回言ったらいいでしょうか?
それなのに、私はとても意地悪なのです。耳の遠くなった事を理由に、なるべく会話をしないようにしているのです。本当に鬼嫁です。

明日は母の日です。お友達のところ行きます。
ふたりの母のために、何か美味しいものを買って来たいと思っています。罪滅ぼしのため……。

2016年5月6日金曜日

ニューシネマパラダイス

「キネマの神様」を読み終えたら、もう絶対に、一秒でも早く「ニューシネマパラダイス」を観たくなりました。仕事帰りに、借りてきました。三時間の長編作品ですが、まるで時間を感じさせないのです。トト少年は映画が大好きでした。母親に叱られても、劇場に通い、大人の映画をのぞき見するのです。トト少年をまるで父親のように愛する映写機技師のアルフレードとの絡みの数々、牧師さんも観衆も子供たちも、私を笑いの渦の中に引き込むのです。 
少年の顔にフイルム技師が手をかけると。少年から青年に俳優さんが変わるのですが、それがとても自然でした。それは、この映画の演出のうまさなのでしょうか?そして、主人公トト青年は恋をするのです。恋人エレナに会える日までカレンダーの日付に丸で囲んでいくのです。あら、あれ!このカレンダーは1954年です。私の生まれた年ではありませんか!これって偶然でしょうか?いいえ、キネマの神様の仕業です。私の生まれた年の世界を観せてくれたのです。トトとエレナの恋物語はまるでロミオとジュリエットのような切ない恋。映写機技師のアルフレードは父親のようにトトを愛するがゆえに、ふたりを別れさせてしまうのですが、ここは、あまりにも切なさく、涙無くして観ることはできませんでした。
ラストではカットされたキスシーンを一本のフィルムにまとめておいたアルフレードの遺品を中年になったトトが涙ながらに観て、何を思ったのでしょうか?エレナとアルフレードが自分に注いでくれた、ふたつの愛・・・・・・。
シネマの神様にお聞きしたいと思いました。

映画が最高の娯楽だった時代をテーマに作り上げた、この映画は素晴らしいと思いました。この先何年たっても、言葉には言い尽くせないこの感動は私たちの次の世代に続くことでしょう。
その反面ラストに気が沈み、なんだか心がもやもやしました。

私にとって、映画とは最高の哲学書なのかもしれません。

2016年5月5日木曜日

ラスト

カテーテル治療を終えた私は、仕事に対する意欲のなさから、二冊の本を読み、三本の映画に没頭しました。私の治療結果は良好であり、快適な生活に入っているはずなのに、この二度とやりたくない治療経験が私に本や、映画の「ラスト」を考えさせるのです。ラストとは事の終了と命の終わりのふたつがあるような気がしました。まずは命の終わりとは、病に倒れてしまうこと。もうひとつは外部接触によることがあります。病は仕方がないことと、最後は諦めてしまいます。死を経験していないので、看取る側の立場からです。諦めることなく、死を迎えるとしたら、老衰でしょうか。
私の思ったラスト、私の想像する未来ラストに意見を申し立て、感動を与えてくれた本「キネマの神様」では、アメリカの友人の死に深い哀しみ、立ち直れそうにない絶望から、立ち上がる80歳の老人とその仲間の素晴らしさに思わず涙があふれるのでした。
映画「あん」も悲しみの中で、妙に納得する諦めが私の心にありました。ラストシーンで樹木希林さん演じるハンセン病の老人が若者たちに生きることの大切さを伝えて、この世から去ってしまう、じーんと心に届くのです。
外部接触には、自動車、飛行機などの事故、そして熊本地震、その前には津波などがあります。私自身、家屋の倒壊を経験し、命拾いをしているのですから、実に運の強い人間だと思っています。また、今回の心臓カテーテル治療でも命を救ってもらい二度の運をいただいたのです。
それにしても事故、殺人ともいえるかもしれない「レヴェナント」と「追憶の森」では納得のいかない、興奮が怒りに変わってしまうのです。それが肉親だったらと思うと、想像できない苦しみでしょう。「なぜ」「どうして」と映画の中と現実の世界を彷徨い、悔しさみたいなものがこみあげてきました。こんな残酷な映画をなぜ作るのかとさえ思うほどです。
ところが、映画の中のラストには未来の光が朝陽のように射してきました。
生きることへの希望は、亡き人から与えられているのかもしれないと・・・・・・。
私にその時ラストが来たときは、病でしょうか、事故でしょうか 、誰にもわからないラストです。
できるならば、生きてきたことに感謝し、親愛なる友や肉親に見守ってもらいたいラストをキネマの神様に今からお願いしておきます。

2016年5月3日火曜日

キネマの神様

ラストは映画も本もかなり、気持ちが高ぶり、人生の終焉がいい感じに終わるかどうかと思うほど重要です。あと数ページでこの「キネマの神様」を読み終えようとしている、まさに感動に涙するその瞬間の出来事でした。
「今頃、ギャク(栃尾ではカエルをギャクと呼ぶ)が一斉に鳴くけど、お母さんにはどう聞こえる?」とわざわざ窓を開け、カエルの大合唱を聞かせる夫。おまけにカエルの種類と鳴き方まで教えてくれる。ギャクギャクギャク・・・とうるさく鳴くのは「ニホンアマガエル」、ゲロゲロゲロ・・・と鳴くトノサマガエルと思っていたのは「トウキョウダルマガエル」だそうです。カエルが大合唱するのは求愛のため。代掻きの後、彼らは卵を産み、田植えの頃になると、オタマジャクシになる、などなど夫は丁寧に説明してくれています。でも、私は生返事を繰り返すのです。そんな私に「ブログのネタを提供しているんだけど、お母さんは本に夢中だね」と夫は少し腹を立て、寝室へ行ってしまいました。悪い事をしたなと思いつつ、「ああ、良かった」と思う私。私はこの、初めて読む「原田マハ」さんの本に感動しているのです。この感動がさめないうちに、思ったことを書き留めておきたかったのです。
「キネマの神様」はお友達が送ってくれた本です。心臓の手術をして、仕事復帰したものの、意欲がわかず 、元気のない私への「お見舞い」と称した叱咤激励の贈り物 でした。
ブログを書くようになって、かれこれ、4年以上になります。夫と娘は私のブログは自分で読み返した形跡がなく、間違いだらけで、誤字脱字も多く、人様に見せられたもんじゃない、と言います。そんな言葉に心が折れそうになることもありました。でも、「キネマの神様」の重要人物の人が、そんな私に、このふたりの忠告を無視して書き続けていいんだよ、と教えてくれたのです。その他にも、この本でたくさん感動するところがあるのでが、この本の中でカギとなる映画「ニューパラダイスシネマ」を観ていなかったのがちょっと残念でした。「キネマの神様」に会えるまで、私なりのペースで鑑賞しましょう!

でも、不思議に思うのです。この本を送ってくれたお友達は出版社にお勤め、私が密かに応援している人は映画監督。なんだかこの小説の世界のようです。また、登場人物のひとり清音さんはまるでアメリカに住む娘のようです。知識も、学歴もない私がどうあがこうが、豆撰のおばさんです。それ以下でもそれ以上でもないのです。だからこそ、この三人に私の夢を託したいと、強く思いました。突き進む勇気と若さはだんだん薄れますが、若者の未来を応援していきたいと思っています。応援することは人生の張り合いとなるはずですから……。
耳を澄ませば、カエルの求愛。夫につれなくしたことを少しだけ反省しています。

肴豆栃尾の油揚げの一部は熊本地震の義援金として寄付させていただきます。

5月3日、4日、5日は長岡野菜「肴豆」の栃尾の油揚げ販売いたします。
肴豆栃尾の油揚げの一部は熊本地震の義援金として寄付させていただきます。
初日は「大丈夫だろうか」と不安の気持ちがいっぱいでした。
はたして、賛同いただけるかどうか?
でも、善意の輪が広がっているようです。
おかげさまで、3日分は完売いたしました。
4日、5日と販売させていただきます。
引き続きよろしくお願い申し上げます。





また、皆様に喜んでいただけるよう、お惣菜コーナーも
美味しい越後姫豆乳プリンなどたくさん、取りそろえて皆様をお待ちしております。


2016年5月2日月曜日

NPO 法人国際ボランテイア学生協会からのお願い







NPO 法人国際ボランテイア学生協会からのお願い

長岡野菜である「肴豆」大豆100%で作りました。
売上の25%を熊本地震の支援活動に
役立たせていただきます。
皆様のご協力をお願いいたします。

肴豆の栃尾の油揚げ・・販売価格一枚400
豆撰店頭にて5月3日から5月5日まで
限定販売 一日100枚販売させていただきます。