2017年1月30日月曜日

賽の神…願う













栃尾の平地区で、1月29日に行われた伝統行事「賽の神」。
雪の上に竹や藁でほこらを作り、中にご神体を祀る。大勢の住民が、古いしめ縄やお守りなどを持ってお参りに来て、新しいお守りのお札をもらって帰る。 そして豊作祈願や無病息災、家内安全を願い、目隠しされた人がほこらの周りを3回まわってほこらに火をつけます。 最後に子供たちも大人もさおにスルメをつけて残り火で焼きます。スルメを食べて今年一年元気に過ごせますように…と、ほおばっています。

2017年1月28日土曜日

佐藤隆介先生と豆撰Ⅲ 希望と感謝


「翼の王国」が豆撰に届き、
間もなくのことです。
突然、奇跡のように電話が鳴るのです。
「翼の王国を読みました。栃尾の油揚げを送ってください」
嬉しくって、嬉しくって、それは、一週間以上も続いたのです。

こだわって、こだわって、作ったはずの栃尾の油揚げでしたが、
思うように売れず、資金繰りに四苦八苦、「こんなはずでなかった。
どうしてあぶらげやをはじめたのだろうか」と
当時の私は後悔ばかりして、何度もこっそりと涙を流していました。
辛い日々でした。
それが佐藤隆介先生の記事のおかげで、予期もしない反響です。
私たちの失望は希望に変わっていきました。
栃尾で一番美味しいといわれる「栃尾の油揚げ」を作ろうと
夢を掲げ、豆撰を立ち上げたはず。
後には戻れない、進むしかないと気づいたのです。
それからも、数回佐藤隆介先生の著書に紹介していただきました。
・・・・・・それなのに、ここ数年その御恩も忘れ音信不通の不義理をしていました。
「池波正太郎の愛した本」を今こうして読み返すと
この本の中に
越後のほぼ真ん中の山中にある栃尾の「豆撰」から油揚げを取り寄せて食べるたびに、
ああ、これを一度亡師に食べてもらいたかったな・・・・・・と思う。と書かれていたのです。
とても、熱いものがこみ上げてきました。
あれから25年も過ぎ、今ではあの頃よりお客様も増え
豆撰にあつあつの油揚げを食べに、わざわざ遠くからおいで下さる方もいます。

佐藤隆介先生に出会えて良かったことを今あらためて
思い出しています。
そして、28年目を迎えた豆撰です。その間にたくさんの方と出会いました。
皆様、ありがとうございます。
挫折しそうになったら、この道、この本を思い出すことにしようと思っています。


2017年1月26日木曜日

佐藤隆介先生と豆撰Ⅱ

大失敗から
数か月過ぎたある日のことです。
ANAグループ機内誌「翼の王国」から突然の電話が豆撰に入りました。
その頃の私といえば、午前中は工場に入り、工場のみんなと一緒に
油揚げの生地を切ったり、栃尾の油揚げを揚げたり、清掃をしたりと
てんてこまいでした。
午後からは、事務仕事、手書きの、伝票、送り状作成です。
今では信じられない手作業ばかりでした。
次には、妹と二人で夕方遅くまで発送用の荷物作り、
受注生産の栃尾の油揚げ作りです。揚げる枚数も少ない代わりに
ひとりで三役はこなします。でも売上は伸びず、四苦八苦の毎日です。
美味しい油揚げを作ることを目標に頑張っても
資金繰りに悩まされ、この先どうなるのだろうかと頭を抱えていた時にかかってきた
一本の電話は私たちを失意から希望へ導いてくれたのです。
「翼の王国雑誌を制作しています。
是非、豆撰さんの栃尾の油揚げを取材をさせていただきたいのです。
佐藤隆介先生の一番推薦です」
受話器を持つ私の手は震え「何?どうしたの?」なんだか頭に血が上って
ぽっーとしてしまいました。
だって飛行機会社です。今でこそ娘が海外に住んでいるおかげで
飛行機に乗る機会もありますが、航空会社なんて、とんでもないことだったのです。
そして、佐藤隆介先生と初めてご対面することになったのです。
すでに、大きな失敗をしているのですから、気取ってみたところでどうしようもありません。
ありのままの、豆撰と私たちを見ていただきました。
米屋稼業の元社長、現社長そして私。
撮影も初めて、インタビューを受けるのも初めて、元社長はざいご弁(方言)まるだし、
現社長は寡黙、私はおしゃべりウーマンと
奇妙奇天烈の三人でした。
そして、2日間びっしりの撮影も最終段階へ。
揚げたてのアツアツ油揚げを食べていただくとになりました。
さすが、佐藤隆介先生は食通の池波正太郎先生の最初で最後のたったひとりのお弟子さん。
「生搾りだからうまいね。栃尾の油揚げにかぎって油抜きは不要なんだね。
揚げたてはまた格別だね」

(栃尾の油揚げにかぎって油抜きは不要…とは一枚一枚串にさし吊るすことによって
余分な油をきるからです)
と豆撰の生搾り、新潟産大豆へのこだわりを表現してくださったのです。

三人のエピソードを交え、ユーモアたっぷりに書かれた
ANAグループ機内誌 「翼の王国」は4ページもありました。
今まで雑誌に掲載された中で、この記録はいまだ塗り替えられていません。
そして、突然鳴り続いた電話の音・・・・・・。びっくり仰天でした。
さてこの続きは次回最終回も是非ご覧ください。







2017年1月25日水曜日

佐藤隆介先生と豆撰

長い事、豆撰の本棚で眠っていた一冊の本、 佐藤隆介著「池波正太郎の愛した味」を
手に取ってみると
豆撰が創業して、間もなかった頃のある事件が懐かしく蘇ってきました。

それは
郵便箱に眠っていた一枚のお手紙からはじまりました。
「栃尾の油揚げを友から頂きました。今まで食した栃尾の油揚げとは違う・・・
送ってください・・・」

この手紙は発見された時の半年くらい前から、
誰にも気づかれずに、壊れた郵便箱の下に挟まれていたのです。
それを見つけたのは亡き父でした。…手渡されたお手紙を開封した時の
私の慌てようといったら、
今思いだしても心も体も凍りそうです。
なぜなら、栃尾の油揚げを送ってくださいと書かれた白い便箋と
一緒に1万円札が入っていたのですから。
今日ある郵便箱はその時、二度とこのようなことが起らないようにと
亡き父が新しく買ってきてくれたものです。
あれから25年も過ぎてしまいました。
それから、事の次第を書き、申し訳ございませんの謝罪文を書きました。

すると、お手紙の主、佐藤隆介先生からお電話がかかってきたのです。
「どうしたのかと思っていたけど・・・そういうわけだったんだね、じゃあ、油揚げ送ってもらえるかね」の声に、人の優しさと寛容な心に感謝するのみでした。
そして、佐藤隆介先生は新潟ご出身であること。池波正太郎さんのお弟子さんだったこと。
文筆がお仕事であることを教えていただいたのです。

この大きな失敗が大きな転機を迎えるのでした。
この頃、栃尾の油揚げは世の中に知られつつ、ちょっと有名になりつつも
「豆撰」のことを知る人は、ほとんどいなかったのですから・・・・・・。

この続きはまた。


2017年1月24日火曜日

ただいま、74歳の僕。




ここの家族に拾われて14年。

僕は3ヶ月の可愛い赤ちゃんだった。
今じゃあ、人間に例えたら74歳。

テレビを見ていた僕のご主人が「ああ、あと9年か」つぶやいた。
なんだよ。それって僕の歳だろう。変んなこと言わないでほしいな。縁起でもない。


「素浪人 月影兵庫」とかっていう時代劇に出ていた新潟生まれの近衛十四郎
の息子の松方弘樹という有名なマグロ釣り名人の死亡ニュースを見ていての一言だった。

僕はもちろん近衛十四郎なんて知らないさ。
家の奥さんから聞いたんだ。
侍姿が粋で、めっぽう強いらしい。刀が普通よりも長くて、
胡桃と胡桃を合わす鈍い音が良かったらしい。
おっとと話がそれちゃった。
主人のつぶやきに、僕の前で右手を枕に、まるでトドのように横たわっている方が
「あらあ、それは困るわ。私、すぐに老人ホームに行くわ」と、即返答。
これじゃあ、主人もかわいそう~。
だいたい、奥さんは二言目には、「マメはいいわよね、一日中寝ていられてさ、
たまには私と代わって仕事に行きなさいよ」」なんてひでえことを平気でいうのさ。
僕だって一日中寝てるわけじゃないんだよ。
たまにはシャバの空気も吸いたいよ。
三丁目の色白の彼女の顔も見たいし、それなのに、玄関がちょっと開いていたから
ジェームスのごとく大脱走を企てたら、どこかの大統領のように、
ファースト、ファースト、家が一番と奥さんは僕を引き戻すんだ。

まあ奥さんのいいところは
僕を風呂場に入れてくれるところかな?
奥さんの姿形には全く興味ないけど、風呂のお湯は僕が飲むには
最適な温度なんだ。左手でお湯をすくうこと数回。左手が疲れるから
そっと、顔を近づけてお湯を飲むと、心配そうに見ている優しい顔かな?

僕は74歳だけど
今朝のビッグニュース
92歳のおじいちゃんの叔母さんが亡くなった・・・
長生きだと、未知との遭遇?かな。叔母さん92歳、甥っ子92歳

僕は後3年半で92歳かな??



2017年1月22日日曜日

湯を沸かすほどの愛とは

宮沢りえ主演映画「湯を沸かすほどの愛」を観ようと思った、きっかけは
日本アカデミー賞候補に「怒り」と並ぶ映画かもしれないと思ったからです。

そこで、対抗馬となる「湯を沸かすほどの愛」はどんな映画なのかと思い観ることに。
家業のお風呂屋さんを飛び出した、ボサボサ頭の優柔不断な夫にオダギリジョーさんはもってこいのお似合い役。その妻に宮沢りえさん。
松坂桃季さん演じる青年巧海、探偵役の駿河太郎さんもいい感じ。
映画って不思議なんです。
物語の内容はさておいて、出演されている俳優さんの知名度が観る人を洗脳するのです。
特に娘役の杉咲花さんは可愛らしく、この少女が
飽きさせることなく、物語は進みます。
3回ほど涙がこぼれるシーンがあります。
その最初は、「あなたは末期ガンです。数ヶ月の命です」と医師に宣言されたら、どうしますか?
肉親を癌で亡くしている私。
映画を観ながら、中学生だったSちゃん、叔母、そして実父の
闘病生活、そして死に至るまでが駆け足で巡ってきました。
いつか私もそうなるかもしれないとふと思うのでした。
さて、ここから、先が何とも言えないのです。
とても悲しかった、とても辛かった。これが愛だろうかと・・・
観終わったばかりの時は、いつものように感動したのですが
振り返ると
このタイトル「湯を沸かすほどの愛とは」の意味がわからなくなってしまいました。
映画って本当に不思議です。
赤い煙ってどうなのだろうか・・・・・・。







































2017年1月15日日曜日

大雪の合間に「果し合い」

降り続ける雪にため息をつきながら
車庫の雪おろしの手伝い。腰は痛いやら、腕は痛いやら
おまけに、暖房がストップ。土曜、日曜は業者はお休みです。
仕方なく、エアコンをつけて寒さをしのぎました。
家の周りは雪、雪、雪。まだ降りはじめなのに、もう何日も降り続いたかのように
我が家の老人たちは「こんげんいっぺふって、大変だ大変だ」と大騒ぎで、
何度も何度「こんげんいっぺふって、大変だ大変だ」を繰り返します。
仕方ないでしょ!92年も生きてきてまだ慣れないの?とあきれ顔の嫁。
嫁の切り替えは早い、雪なんて心配してもどうなるものでもないでしょと
新聞のテレビ欄広告をみて
藤沢周平ドラマスペシャル「果し合い」を観ることに!

兄が家督を継いだ庄司家の部屋住みとして生涯の大半を過ごした庄司佐之助に仲代達矢。
緊張感とニューモアを交えた佐之助にぐんぐんと引き付けられました。
佐之助のお気に入りは、甥の娘、美也。その、美也に想う相手がいるのに、両親は家柄の良い男を押し付けるのです。
それは、まるで若かりし佐之助が許婚を失った昔の自分と重なるのでした。
ここで初老夫婦も自分たちの若かりし日をちょっとふりかえるのでした。
さすがに駆け落ちはしませんでした (笑)。


佐之助を待つ許婚のシーンは桜並木です。その桜の木の下に石仏が並んでいます。
このシーンは栃尾の七曲り(今では近代的な美術館になっています)を想像させました。

つぼみがふくらみ、開花し、はなびらが散ってゆく・・・嬉しさもあり、華やかさもあり、
そして寂しさも…人生のようなものを感じます。
このドラマは、時代劇というより
日本版ロミオとジュリエットのようにも感じました。
切なく、悲しい物語でしたが、意外!涙なし。
颯爽と裃を身にまとった佐之助の姿とラストの部屋に置かれた刀のシーンに
納得。いい映画だった、いえとても心に残る素晴らしいドラマでした。
佐之助にように、人生の終わりは自分に納得したいものだと
思いました。

さてはて、私の老後はどうなることやら、ドラマのようにはいきません。
老後を考えるより、まずは春を待ち、桜を楽しみましょうか?儚い桜ではなく
希望の桜を夢見て・・・・・・。










2017年1月12日木曜日

やっぱり雪国でした。



雪のないお正月は雪国に住む私たちにとっては
「もうけもの」といいます。標準語に直したら「得をした」でしょうか?
そのもうけものの日々が元旦から10日まで続いたのです。
2017年1月10日は特に温かく最高気温は8度くらい。
豆撰の正面からは守門岳(高さは1537メートル)が白くきらきら輝いて見えました。

お昼を食べるよりも、この雄大で美しく輝いて見える守門の写真がたまらなく撮りたくなりました。
刈谷田川沿いからでは、きらきら輝く姿は撮れないと思い、ちょっと車を走らせ
菅畑まで行きました。菅畑の田んぼにさえ雪はまったくありません。
農道は乾き、冬なのに雑草は生きています。
田んぼには、少しだけ水が残っていました。この道から見上げる守門岳を春も夏も秋も
撮影しています。でも雪の多いこの季節にはとても、この場所からは撮れないのです。
この機会を逃してなるものかと、心ウキウキで、あっちからこっちと
どの場所がいいかと歩き回っていると
先日観たばかりの映画「少年時代」にとても似ている風景だと思いました。
雲と守門岳が重なり、うまく撮れません。
冬の雲は駆け足で通り過ぎるのですが、その後から後から雲はやってきました。
まあ、仕方ないな、これくらいでと自分で自分を納得させ、豆撰に戻りました。
それは、たった一日限りの「夢」でした。






11日から雨はだんだん白くなり、雪になってしまいました。


12日の今朝、我が家の窓から見渡す道路と田んぼは信じられないほどの
量です。そのいっぱいの雪道を歩く小学生たち。色とりどりのカサが目に留まりました。
子供たちは長靴を履いた足で雪を蹴っています。
その動きをみていると、同じことしたと一人笑いする私。
昔のゴム長はゴムは薄くて長さもなく
雪道を歩くと、足の底が冷たくなったことや
学校から帰ると、雪がいっぱい長靴に入って
靴下も長靴もびしょびしょになって・・・・・・。
いつも、祖母が堀炬燵で乾かしてくれたことを懐かしく思いだし、
子供たちに「雪国の子だから頑張って」と心のなかで叫びました。

やっぱり栃尾は雪国でした。

2017年1月11日水曜日

海賊とよばれた男


映画館での観賞は、その作品を最大限に引き出してくれます。
スリーンの大きさと音響効果でしょうか。
最近、私の観る映画は戦争が背景にあるものが続きました。

今回の映画は「永遠の0」に続く、岡田准一主演映画「海賊とよばれた男」、
モデルは実在人物、出光創始者、出光佐三氏が国岡鐡造の名前で登場します。

60歳の国岡鐡造を演じる岡田准一は実年齢を全く感じさせない、違和感のなさにまずは驚き、若い国岡、白髪混じりで少し前かがみの背広姿の国岡、そして最後は90歳を過ぎ病床に横たわり、家族に看取られる国岡の演技に奥行の広さを感じました。
戦争に負けた日本の復興には、たくさんの人の想いとたくさんの人の努力、そしてたくさんの人の犠牲もあったことでしょう。人生を賭けた大博打なのか、国岡鐡造の行動と決断は会社の危機を何度も乗り越えます。そして幾多の危機に直面しても、従業員のために、諦めることなく挑戦する姿、それ以上に、信頼と絆を演じる従業員のひとりを演じる吉岡秀隆とその同志にも感動します。
また、 国岡鐡造という人間性に、投資する木田章太郎を演じる近藤正臣もまたいい。
私が子供の頃、学生役で岡崎友紀の相手役としてNHKドラマに出演していた頃からの近藤正臣ファンとしては、「お互いに年をとりましたね」と心の中でつぶやいていました。
戦争を体験し、戦後を生きる、切なく哀しい女性を演じる綾瀬はるかは国岡鐡造の先妻。
出番は少ないのにとても印象に残りました。先妻の遺品を持ってきた姪、その遺品とは国岡鐡造の功績の数々のスクラップ、それを車椅子姿の国岡鐡造が手にする場面に涙があふれました。
この映画の見せ場の一つは
オーケストラの音色と重なる、日章丸乗組員の歌声です。
ちょっとした小ミュージカル仕立。私の緊張感は、希望へと変わっていきました。

国岡商店が大企業になるまでの道のりは歴史的背景に関心を持たせてくれたのではないでしょうか?


今度は百田尚樹原作を読んでみようかな?と思っています。

















2017年1月10日火曜日

味噌おにぎりの思い出

石段の坂道を駆け足で上る
「ただいま」と大きな声で叫び
ランドセルを玄関に投げる

母ちゃんのにぎった味噌おにぎりがおひつに
二個はいっている
私の手の平よりもでっこい
手を洗うこともなく
頬張る
勢い良く口の中にいっぺいつめこむと
祖母が白湯を持ってきてくれた

しゃっこい味噌おにぎりなのに
絶品の美味しさ

今朝は味噌おにぎりにしよう



2017年1月2日月曜日

少年時代 ちょっと加筆して

元旦に届いたものは
セピア色の真新しいDVDでした。
私は嬉しくって嬉しくって、すぐに開封し、観ました。

ラストに流れる、蒸気機関車と出演者の名前に重なる井上陽水の歌声の素晴らしさをどう表現したらいいでしょうか。蒸気機関車の窓から手を振る少年とそれを追いかける少年のちょっと悲しい別れに「少年時代」の歌詞が心を震えさせるのでした。

夏が過ぎ 風あざみ
誰のあこがれに さまよう
青空に残された 私の心は夏模様

夢が覚め 夜の中
永い冬が 窓を閉じて
呼びかけたままで
夢はつまり 想い出のあとさき

夏まつり 宵かがり
胸のたかなりに あわせて
八月は夢花火 私の心は夏模様

目が覚めて 夢のあと
長い影が 夜にのびて
星屑の空へ
夢はつまり 想い出のあとさき

夏が過ぎ 風あざみ
誰のあこがれに さまよう
八月は夢花火 私の心は夏模様

終戦前の日本。東京と田舎の子供の違いは、
わらぐつとゴム長、白くて品のある帽子とくちゃくちゃ帽子など。東京から疎開してきた
お坊ちゃんと田舎の大将の心の葛藤と少年たちの友情物語です。
今の社会でいえばいじめととらえられるかもしれません。でもそうではない、時代の流れかもしれません。少年時代のタイトルのように・・・・・・。

私が生まれた昭和29年でさえ、この映画に近い、貧富の差はありました。
こんなに狭い栃尾という地域でさえ、町の子と村の子では生活様式も現金収入の面でも、
とても差がありました。
もちろん、本を読む習慣もない我が家です。町の子、とくに機やさんの友達の家に遊びに行くと、ずらりと文学全集が並んでいたことを思い出します。気の弱い私は(小学校時代に限り)町の友達の仲間にいれてもらうだけで嬉しく、
黙って、友達の後ろについていた覚えがあります。
だから、木の電信柱が立ち並ぶ草道を歩く少年達。雪合戦、古い木造の校舎。桜並木などのシーンに胸がいっぱいになりました。
元旦の翌日に、またこの少年時代を観ました。
今ヒットしているアニメ「この世界の片隅に」に似ていると思いました。戦争という大きな嘆きの中で自分の想いを貫き通す女性を演じた仙道敦子さんはとても純真で、とても素敵な女優さんでした。
母親役の岩下志麻さんが日本が負け、少年を迎えに行った時、田舎でのんびりと過ごせて本当に良かったという言葉に、否定も出来ない、肯定も出来ない複雑な少年の心が映し出されていました。

そして三回目は、豆撰スタッフを呼んで、上映会を我が家で開きました。
良い映画は何回観ても感動します。その度に新しい発見もあります。
この映画が制作された時生まれていなかったという一番若いスタッフから私に近い年齢のスタッフ様々な年齢の8人の顔は映画終了時には頬が赤く、うっすらと目には涙が光っていました。
お友達の伝えたかった想い……私の仲間にも伝えられたのではないだろうか。

これからも時々、仲間と食事を共にし、映画を楽しみたいと心からそう思いました。

元旦に追悼を込めて、乱を観る。

お正月休みは4日間、仕事を忘れ、映画三昧と決めて、元旦は根津甚八さんの哀悼を込めて、いりいろな方が賞賛している黒澤映画「乱」DVDを観ました。昭和60年制作作品らしい。情報は頭の片隅にありました。この頃、私は子育てと保育園の仕事で、忙しく余裕のない毎日でした。E・Tを最後に映画を見た覚えはありません。映画から遠ざかっていた時代のこの作品。
なんとなく、「乱」と昭和の終わりを旅してきたような気分でした。
映画界の大御所黒澤映画の迫力、それは城であり、荒野であり、人物の表情特に仲代達矢演じる領主の乱れはさすがでした。道化師のピーターは一番人間らしい。凄みの演技といえば楓役の原田美枝子です。大怖い、まるで、淀の方のようです。
親子、兄弟の醜い争いは歴史には数々残されているようですが……。
黒澤監督は人間の欲望について訴えているのでしょうか?終盤、三郎の背中に身を委ね、いろいろ話すことがあるというシーンにこそ本来の親子関係のあるべき姿を訴えているような気がしました。これが黒澤監督の本音であり、彼は人間が大好きだったような気がしてならない。さて、次郎役の根津甚八の寡黙な演技は素晴らしいと思いました。楓の虜になる愚かな、それでいて人間臭さを演じた俳優の晩年の映画が見られないことがとても寂しい。映画は時に哲学書みたいで難しいけれど、やっぱり映画は心に残るようです。
乱観賞後、宅配便に乗って素晴らしいDVDのプレゼントが届きました。
この続きはまた後で……。