2025年4月24日木曜日

足元の春 星野富弘様ありがとうございました

 念願かなって

群馬県みどり市の「富弘美術館」に行ってきました。

遡ると20年の間、我が家のリビングのカレンダーは「星野富弘」さんの詩画で癒されていました。

平成7年の⒎11水害で我が家は全壊しました。そして新たに土地を購入して、家を建てました。その時の建築家さんからいただいたカレンダーは野花の水彩画と詩の描かれたものでした。

お父さん(夫)は野花が大好きな人です。ですからそのカレンダーをとても気に入って大切にしていました。毎年月別日数だけのカレンダーを購入して、詩画集はいただいた時のものを再利用してきました。

優しい絵だよね

優し言葉だよね

私たち老夫婦は実はこのカレンダーの作家について知らなかったのです。星野富弘さんが亡くなるまで。

「お父さんこの人凄いね、体が動かないのに、口に絵筆を持って、絵や文字を描くなんて、でも亡くなったんだって」と私が新聞で見つけた記事の話をすると

「おい、オレの作っているカレンダーの人じゃあないか」

とわかって、私は富弘さんの自叙伝やら本を読みました。そして、我が家の歴史を飾り続けてくれたことに感謝しました。なんだか知らないけど感謝と御礼がしたくて、いつか富弘美術館に行きたいと思っていました。

今日はその日でした。4月24日生誕の日だなんて知らなかったのですが、私たちが詩画を観ているとみどり市の広報担当の方が声をかけてきて、いろいろ話をして、最後に「今日は富弘さんの誕生日です」と教えてくださりました。

今日は、お父さんの病院の診察日でしたが変更してもらい、朝6時に出かけたのです。もしかして、星野富弘さんが私たち老夫婦を招待してくださったのでしょうか

ビデオを観て、富弘さんに「ありがとうございました」と言いたいのに涙が溢れて言葉になりませんでした。


またお会いしましょう

星野富弘様へ

            多田礼子


ドキュメント映画のように

 川辺に2列縦隊で並ぶ桜

山のてっぺんで一本咲き誇る桜

公園でスクラム組んだ桜

でも

私は裸足で駆けまわったグランドの桜木が

一番好きだ

古い木造の教室から眺めるていると

ももいろの風がふく

60年前のドキュメント映画を想う

2025年4月21日月曜日

チューリップと水仙

赤 白 黄色

ふくらんだチューリップ3本

白 黄色

水仙2本

我が家の仏壇に供える

手を合わせて

ここからでも聞こえますか

父ちゃん 母ちゃん 姉ちゃん

階段から落ちて23年

ハンモックから落ちて何年だろうか

背中の痛みは

心の痛み

いつになっても続く

もう終わらせてください

ねえ、父ちゃん 母ちゃん 姉ちゃん






2025年4月14日月曜日

拝啓 やなせたかし様

 保育園勤務だった頃発表会に「手のひらを太陽に」を選んだことがあった。今から40年くらい前だった。軽快なリズムと詩が好きだったから選んだ。

作詞:やなせたかし     作曲:いずみたく


ぼくらはみんな 生きている
生きているから 歌うんだ
ぼくらはみんな 生きている
生きているから かなしいんだ
手のひらを太陽に すかしてみれば
まっかに流れる ぼくの血潮(ちしお)
ミミズだって オケラだって
アメンボだって
みんな みんな生きているんだ
友だちなんだ

ミミズだって オケラだって
アメンボだって
みんな みんな生きているんだ
友だちなんだ

ぼくらはみんな 生きている
生きているから 笑うんだ
ぼくらはみんな 生きている
生きているから うれしいんだ
手のひらを太陽に すかしてみれば
まっかに流れる ぼくの血潮
トンボだって カエルだって
ミツバチだって
みんな みんな生きているんだ
友だちなんだ


朝ドラ「あんぱん」がはじまって、

40年前に子どもたちと歌ったことを思い出しました。

子どもたちはミミズやオケラ、カエルが大好きです。

楽しく元気よく歌ってくれました。


もし私がこの頃やなせたかし様のことをもっと存じ上げていたら

子どもたちに歌詞の意味を聞かせてあげられたのに

と今になって残念がっても後の祭りですが。


その後は保育園を退職し、豆撰一筋の生活でしたから

この頃の漫画やアニメへの関心度はゼロに近かったようです。

アンパンマンの正義、生きる喜び、自分を犠牲にして助ける勇気など知ることはなく、知ろうともせず過ごしていたようです。


朝ドラのおかげで梯久美子著「やなせたかしの生涯」の本を購入しました。一気読みしました。幼い頃父を亡くし、母との別れ、伯父を失い、戦争を体験、戦争で弟を失い、

それでもぼくらは生きているんだと生涯を生き抜いたやなせたかし様の生き様が「アンパンマン」につながっていることに感動と自己反省の両方を感じています。


やなせたかし様の戦争経験で一番苦しかったことは空腹とおしゃっていましたね。正義が一変して正義でなくなったとも。このふたつのことが私の心に深く残りました。そして最後に愛する奥様が病気になって亡くなられ、どんなに悲しかったことでしょうか。私まで自然と涙が流れてしまいました。


さて、今日はいとこがやってきたのでふきのとうをとりに我が家の山畑に行ってきました。

ふきのとうの天ぷら写真と自然はいいねの言葉が添えられたメールが届きました。


生きている。食べることは元気の源ですね。

やなせたかし様ありがとうございました。

奥様とワンちゃんと何を食していますか?

お願い事があります。お腹いっぱい食べられるように

戦争をやめさせてください。


天国にお住まいの

やなせたかし様

                 多田礼子


                   敬具



2025年4月10日木曜日

優しい人はだれでしょう

 なぞなぞあそび

「丸くて、優しくて、お腹がブヨブヨの人はだれでしょうか」と孫。

「ジジかな?」と白々しく答えるババ。

「違うよババでしょう!」

おやおや、いつもはバカにしているけど、本当のことはわかっていたのかとニヤニヤ。

ママはお買い物

熱のため学校はお休み。その間ババとスマホで会話。ママ帰宅「お水飲んだ?」

「ババ飲んでいたの?」とババに確認するママ。

「飲んでいたよ」と答えるババ。

慌ててお水を飲みながら人差し指を口に当てシーの合図。ババは親指でグーの合図。

子どもにとって秘密は楽しものです。



2025年4月9日水曜日

白い妖精たち

 栃尾の街から少し離れた所に荷頃とういう村がある。村の一番外れの家から数百メート先の山道を歩く。山道の入り口に手作りの立て看板がある。立て看板には200メートル先と書いてある。

雪が溶けたばかりの山道は秋に落ちた杉の枝や杉っ葉で埋め尽くされて、とても歩きにくい。坂道になればドロドロのどろんこ道だ。長靴を履いてきたから良かったが、滑って転んだらひとたまりもなく服は泥まみれになることを想像して一足一足歯を食いしばりながら上る。ちょっと、よろめいたがセーフだった。このスリルは一体なんだったのだろう。半世紀も前の子供だった頃の私が歩いていた。

道の両脇からかぶさってくる木々が陽の光を遮って小さなジャングルだ。ゾクゾクする。

細長い沼地が見えてくる。ありました。見つけました。緑の葉に囲まれた白い妖精がポツポツ。咲きはじめたばかりだから若い感じがする。こんなところにあるなんて、秘密の場所で妖精たちは自分たちの居場所基地を守ってきたのだろうか。くねくねした沼地は続いてた。ありがとうミズバショウさん。30分足らずだったが、昔を思い出し幸せ気分になりました。

帰り道で出会った老夫婦さんは長靴を履いていなかったけど、大丈夫だったかしら。


2025年4月7日月曜日

あじみあじみはいいもんだ

 ババにはひとりだけ孫がいます。

イタリアに住んでいます。

小学2年生です。

ババと孫はラインでいつもお話をします。

この日も、いつものように孫からラインがきました。

「今日は抹茶ロールケーキを作るの。見ていてね」とペンギンさんのついたエプロンをつけて大喜びです。

まず、紙に材料のメモを書きます。

コムギコ100g

さとう100g

たまご白5個

たまご黄色5個

ぎゅうにゅう40g

サラダオイル40g

メモを書き終わると今度はたまごを割ってたまごの殻に黄身を残し、白身はボールに落とします。

黄身が割れて白身に入ってしまうとメレンゲができなくなるらしく、ママに注意されます。失敗したたまごは5個です。だから全部で10個も使いました。

失敗したたまごは明日のお弁当に入れる卵焼きにする事にしました。

白身を電動泡立て器で混ぜます。孫の手は小さいので結構重くて大変そうです。

「ババみてみて、だんだんフワフワになってきたでしょ」

ママが少しずつ砂糖を入れます。孫が混ぜます。

ババはパソコンの画面をみて「上手だね」と声をかけます。

すると孫は指にフワフワの未完成なメレンゲをちょっとだけのせて

「あじみ、あじみ。ババ美味しいよ」と大きな目をさらに大きくして大満足の笑顔。まるでお日様の顔です。

味見は一回でなく何回もしました。

「さとうの固まりがあったよ」

今度はママが混ぜます。ママはメレンゲの入ったボールをひっくり返しています。抹茶を入れてさらに混ぜ混ぜ

これでメレンゲの完成です。

次にたまごの黄身と小麦粉とオイルを入れて

孫が混ぜます。この時ママは作り方のポイントを孫に伝えています。「混ぜるヘラを縦にして、切るように」と言います。メレンゲの入った生地はトロトロになっていい感じです。孫はここでも「あじみ、あじみ」を繰り返しました。一体何回味見をするのでしょうか?

ママが言いました。「あら、少しオイルが残っています」と。オイルは水と違うのでコップにくっついていた分が残ったのかなとババは思いました。

最後に抹茶を漉し器に入れてトロトロの生地に入れます。もう一度サクサクと混ぜます。

一番最初に準備していた型にトロトロの生地を入れます。ここはママの仕事。

オーブンに入れて待つ事17分。

その間に生クリームを作ります。

生クリームに砂糖を入れて電動泡立て器で混ぜます。孫は手が疲れてきたのでママとバトンタッチ。

フワフワの真っ白い雲のような生クリームの出来上がり。

するとここでも孫は「あじみ、あじみ」と言いながら泡立て器についたクリームを丁寧に舐めていました。

待ちきれなくなった孫はオーブンを覗きに行きました。ババからは見えませんでしたが、

「膨らんでいるよ」とルンルンスキップ声で孫は言いました。

ようやく焼き上がった抹茶スポンジに生クリームを塗ります。ここはママの仕事です。くるくると上手に巻いています。

出来上がりです。さあ食べましょうか?

いえいえまだです。出来上がった抹茶ケーキは冷蔵庫で2時間冷やさないと生クリームが溶けてしまいます。

「ババあと2時間お話ししていないとだよ。いいね」

ババは4時から7時まで、ラインで孫とお話ししています。その上、あと2時間も待っていなければなりません。一体全体全部で何時間ラインをしている事になるでしょうか?

そこにジジが帰ってきました。ママが言いました。「ババも疲れたから、抹茶ケーキが冷蔵庫に入っている間お風呂に入ってくれば」

そこでババはジジとバトンタッチしてお風呂に入りました。

さて、いよいよ入刀です。

あら、あらお皿にとり分けられた抹茶ケーキの真ん中に赤いものが入っています。

ババはその赤いものを入れるところを見逃していたようです。

美味しい美味しいとペロッと食べ終えるとお皿についた生クリームを舐めている孫。

ババは「お皿がピカピカになって洗わなくてもいいね」と言います。

するとジジが言います。

「パスタをズルズルと音を立てて食べるのと同じだよ。皿は舐めないんだよ」

ババはニヤニヤ、孫もニヤニヤ。

してはいけないことは楽しい。

抹茶はババがイタリアに持って行きました。抹茶ロールケーキを作ろうとアイデアを出したのは孫。抹茶ロールケーキの指導はママ。

親子3代の共同作業でしょうか?








2025年4月5日土曜日

くまさんのハンカチ

 このお話はババのお友達のお話です。

お友達の犬のボニーが天国に召されました。

お友達は悲しくて、寂しくて、仕方がありませんでした。

ボニーと一緒に散歩した小道をひとりで歩くと元気だった頃のボニーを思い出して、涙があふれました。

ある日、ボニーと一緒に歩いた道に、ポリ袋やタバコの吸い殻、空き缶がいっぱい落ちている事に気がつきました。

そこで、お友達は小さなキャリーバックとトングを用意しました。

そしてボニーと散歩した道に落ちているゴミを拾いはじめました。

ある日、電信柱の隅に小さなハンカチを見つけました。ハンカチにはくまさんの絵が描いてありました。とてもかわいいハンカチだったので、トングで拾わずお友達は腰を曲げて、自分の手で拾いました。そして、ゴミ袋に入れることはやめにしました。

もしかしたら、このハンカチを落とした人がこのハンカチを探しにくるかもしれないと思ったのです。

そしてそばにあった杭の上にくまさんのハンカチを広げてみました。

すると自転車に乗った少年がやってきて、言いました。

 「おばあさん、そのハンカチ僕のです」

少年はお家に帰ってポケットの中にハンカチが入っていなかったので帰ってきた道を急いで戻ってきたのです。

「僕のハンカチを見つけてくれて、ありがとうございました」

おばあさんも少年もとても嬉しそうに微笑みました。

ババはこのお話を聞いてハートがドキドキジャンプしました。








1個から2個そして8個

 いとこからいただいたアマリリス

一個の球根から

2本の芽が出て

膨らんだ

そしたら4個の花が咲いた

もう一個も4個の花が咲きそうだ

心がフワフワになって

ご褒美をいただいたようだ

美味しいものを食べたみたいな気分

ありがとう ありがとう ありがとう

あなたの優しさが8個の花を咲かせてくれた

ありがとう

2025年4月4日金曜日

リンゴ四分の1

 ひとりの朝

冷蔵庫の冷凍ご飯と

白菜菜花をザクザク

味噌とたまごを入れて

出来上がり

メールが届く

「今日はラーメンを食べて帰る

8時頃になる」

それからリンゴ四分の1だけ切って

皮を剥き食する

四分の3をラップに包み

冷蔵庫に


2025年4月2日水曜日

長岡空襲

明治生まれの祖母の言葉をおもいだす。山に登って見る長岡の空は夕日のように綺麗だった。と言った。生まれたばかりの赤子をおんぶして、子どもらを連れていったのだろう。

その日から10年後に私は生まれた。父は24歳母は23歳だった。あの日の父は14歳、母は13歳だったことを今数えてみた。今は祖母はもちろんだが父も母もあの時の赤子も死んでいない。

下記記事をあらためて読む。いつまでもいつでも戦争を繰り返す人間は一体何者であろうか?

8月1日の午後9時6分、長岡の夜空に警戒警報のサイレンが鳴り響きました。続いて午後10時26分、警戒警報は空襲警報に変わり、直後の10時30分にB29による焼夷弾(しょういだん)爆撃(ばくげき)が始まりました。


 B29は一機また一機と焼夷弾を投下しました。夜間低空からの容赦無い無差別爆撃によって、長岡のまちは瞬(またた)く間に炎に包まれていきました。
 猛火の中を、母の名を呼び、子の名を叫んで逃げ惑う人びと。多くの人が炎に飲み込まれていく様子は、地獄絵さながらだったといいます。
 空襲は、8月2日の午前0時10分まで続きました。1時間40分に及ぶ空襲で、市街地の8割が焼け野原となり、1,488人の尊(とうと)い生命が失われました。
 925トンものE46集束(しゅうそく)焼夷弾等が投下され、163,000発余りの焼夷爆弾や子弾(しだん)が豪雨のように降りそそぎ、長岡を焼き払ったのです。当時の市域で、焼夷弾の落ちなかった町内はないといってよいほどすさまじい空襲でした。