2014年1月31日金曜日

基本的生活習慣


お金持ちの人ほど肥満は少ない、お金持ちの人ほど朝食をしっかり食べる、
お金持ちの人ほど運動をする・・・・。いろいろな項目のある記事をみつけました。
基本的生活習慣のしっかりしている人ほどお金持ちとか・・・。
お金持ちか貧乏人かの区分けは良くわかりません。
ただ、基本的生活習慣の身についている人は、頭の回転も速く、受け答えがしっかり
できるような気がします。基本的生活習慣は小学生になる前に見につけることではなかったのか?


2014年1月29日水曜日

コーヒーは無料

時々友達と食事をして映画を楽しんでいます。
先日、いつものように食事をしてから映画鑑賞へ
レストランのメニューに書いてある「野菜のグリル」プラス「鶏肉のグリル」で
1,280円の説明を受け「ではこれを1個ずつとかぼちゃのスープにパンをお願いします」と頼みました。
パンとスープは二人分がテーブルに運ばれ
続いて、「野菜のグリル」プラス「鶏肉のグリル」が私と友達の真ん中に
1セットおかれたのです。
鶏肉は 6切れ、キャベツにエレンギ、タマネギ、かぶ・・これは二人分?
「これじゃあ、足りないよね、2人分なの?」とひそひそ中年おばさんは話し合い
その結果、勇気をもって聞いてみる事にして「あの・・これは2人分でしょか?」
すると「お二人でたいてい分け合ってお召し上がりいただいていますが、量が多すぎましたか?」
「いえ、私たちには足りないのですが・・・」
「他にもお選びいただけるものがございます、どうぞ」
と言われ早速追加しました。

「ねえ、あれ2人分で1,280円は高いよね」とおばさんはぶつぶつ・・
お会計の伝票がテーブルに・・
「あら、1人分じゃないの」
お会計でお代を払い私は一言「野菜と鶏肉グリルはもう一つほしかったのですが・・」と私。
レジのお嬢さんは「あらそうでしたか、それはすみません」と笑うのでした。
私たちは大食いなのでしょうか?
まあいいか、映画のチケットを見せるとコヒーが無料のこともわかったし・・・



2014年1月28日火曜日

遺言

帰り道はだれともすれ違うことがありません。
1番目の橋を渡り、東町から旭町の堤防を歩きます。
歩いていると川の音がその場所によって違って聞こえます。
川の石や川の中の雪の量など物理的な条件に関係し
流れのスピードが違うからでしょうか
川の音を聴きながら歩くと
父との最後の別れの瞬間を想い出しました。
7年前のある日、付き添いとして病院に泊り
妹と交代する瞬間です。
父は私を「もう行くのか」と言いたそうな目で私を見つめました。
私は父の寂しそうな、悲しそうな目をみて、「明日また来るからね」と言って病院を
後にした、この瞬間が私と父の別れでした。
父はもっと何か言いたかったかも しれない
川の音が強く聞こえるのです
「もう少し生きたかった」
川の音が弱くなると
「ありがとみんなのおかげだよ」
川から聞こえてきた、父の声は遺言だったかもしれない・・。

2014年1月27日月曜日

土々町にある社





今日はいつもと違う通りを歩き・・・豆撰に。

通りの名前は本町です。私の子供時代は土々町と書いて
どんどんちょうと読んだような気がします。
この通りの途中に神社があります。神社をめがけて歩いていると
子供の頃、この近くに長屋があったこと、そして
その長屋には友達が住んでいて、時々友達の家に遊びに行くと必ず
この神社で遊んでいた記憶がよみがえりました。
名前を見ると「諏訪神社」と書いてあります。
栃尾の諏訪神社といえば、城山への登り口にある神社、同じ名前とは
今朝まで知らなかった・・。
このあたりの家も新しく造りかえられているところが多く、時の移り変わりを
感じました。
懐かしく思い出していると、
昔が今よりもゆっくりとしていて「昔は良かった」気分になり
過去の.時間を楽しみ、感激している自分を発見。
豆撰に到着すると同年齢のスタッフに
「ねえ、ねえ、土々町の神社の名前知っている?
長屋があったのどこだったけ?覚えている?」とまるで子供のように
はしゃぎながら話しました。

2014年1月26日日曜日

太宰からはじまり、最後は足尾からきた女

テレビと向かい合って、約6時間を昨日は費やしてしまいました。
BS金曜劇場「太宰治物語」は録画しておきました。
夕食の餃子を作りながらの鑑賞です。それぞれの俳優の持ち味が
うまく、引き出されていたように思いました。そして、この作品を見て
人間失格や斜陽をもう一度読んでみようかと思いました。
続いて、途中から見た映画「ブラッド・ダイヤモンド」
最後に自分は死ぬことを
悔やまずに息をひきとる場面に「助けて、助かって」の気持ちでいっぱいになりました。
そして、後編ドラマ「足尾からきた女」を見ました。
残念なことは前編の面白さが中途半端に終わった事です。
映画もドラマも、それぞれに面白く、心に残る3作品でした。
貴重な休日を活動せず、6時間も画面とにらめっこしてしまいました。
果たして、休日の過ごし方はこれでいいのでしょうか?
私の仕事を私は人にお願いしていながら、6時間を過ごした事と
休日に痴呆の実母の世話をしなかったことに後ろめたさを感じながら
豆撰へ出勤しました。

2014年1月24日金曜日

朝陽に照らされて

平橋をわたり、豆撰までたどり着くまでには
4本の橋を見ながら歩きます。
それぞれの橋から見渡す栃尾は
町並みも山も真っ白い雪におおわれて
とてもきれいな風景を映し出しています。
その風景に一番似合うのは川です。
川の大きな石、小さな石に綿帽子のように積もった
雪は昔話を想像させてくれるようです。
いろいろな事を考えながら歩いていると
40分の時間はとても早く過ぎます。
守門を眺め、朝陽 に照らされる豆撰を見上げ
なんだか生きていることがとても素晴らしいことだと思いました。
今日一日笑顔を忘れずに頑張らなくっちゃ!


2014年1月22日水曜日

アルツハイマー

母が脳梗塞からのアルツハイマーと診断されてから
もうかれこれ3年くらいでしょうか?
娘の名前を間違ったり、衣服の着替えに時間を要したり
言葉が出てこないから会話が成立しなくなり・・
少しずつ、母の生きる機能が低下しているようです。
「鼻の長い動物は?」の質問に対して
象を想像できなくなってしまった母に愕然としました。
私と妹が「ぞうさん」の歌をハミングしてみました。
すると、「ゾ・ウ・さん」と答えが返ってきました。
アルツハイマーや痴呆症には「歌」はとても効果的であることを
実感しました。
それと、母は歌と相撲が大好きななことは今も昔も変わらないようです。
好きな事がいつまでも続きますように・・・。

2014年1月21日火曜日

命日


祖母は明治の夫人らしく、いつもきりりと着物を着ていました。
買い物でも、保育園の送り迎えでも
おしろいを塗り、紅をさし、髪を結い、母と比べると
実にハイカラな、おばあさんでした。
祖母は、着物が大好きで、よく呉服屋さんに行きました。
呉服屋さんの帰りには魚屋さんと果物屋さんに寄ります。
私の記憶ですと、一度もお金を出して買ったことはありません。
つまり、「つけ」で買うのです。
月末になると、我が家にいろいろなお店の人が集金に来ます。
現金収入がなくても、平気で買い物をする祖母。
祖母が病気になり入退院を繰り返すと
はじめて我が家は貧乏でお金がなく大変なことを父から知らされたのです。



そんな祖母の最期は、病院のベッドで家族、親戚に囲まれ見守られている時でさえ
気丈に振舞い、「夜遅いこの時間、みなさんから帰っていただくように」と
言った事をはっきりと覚えています。

もちろん、私は家に帰され、妹と生まれたばかりの従妹を背に
仏壇に手を合わせ、祈り続けました。
しばらくしたら
雪の中、そりにのせられた祖母が家に担ぎこまれました。私は中学生でした。
悲しくって、せつなく、泣き続けたことを思い出しました。
私の父は末っ子の叔母と私を火葬場には連れて行けないといいました。
これ以上悲しい場面をみせたくないと父の配慮だったようです。
次から次へ祖母を思い出し、豆撰から自宅へ雪の中を歩いていたら、あっという間に
昨日は家に着きました。家にたどり着くほんの少し前に「命日」だったことに気づきました。


2014年1月20日月曜日

小児癌

娘より1歳年上のSちゃん.瞳がおおきく、見つめられると吸い込まれそうな
きれいな目でした。
娘はもうじき33歳になります。Sちゃんが生きていたら34歳です。
私たち家族とSちゃん家族で上野動物園に行きました。サンシャインでラッコをはじめてみた
2家族は子供たちの成長と笑いの中で家族の幸せを感じていました。
ふたりはお揃いのトレナーを買ってもらい大喜びでした。
Sちゃん家族は東京住まいでしたから
ふたりは文通をはじめました。
それから5年の歳月が過ぎると、彼女は重い病気になってしまいました。
まだ小学6年生になったばかりの時です。
闘病生活はどんなに辛く悲しいことだったでしょうか
それでも、彼女は明るく天真爛漫に振舞い
病院での写真や、中学校に入ったら英語を勉強して、テニスクラブにはいりたいと
希望を娘への手紙に綴ってくれました。

一字一字丁寧に書く文字は何時間もかかって書き続けたそうです。

計り知れない病魔との闘いの中
彼女は自分の辛さや痛みよりも、娘に喜んでもらいたい気持ちの方が強かったのでしょう。
それから途絶えた手紙。

あれから20年以上も過ぎました。
あなたのこと忘れません。あなたの優しさ笑顔ありがとう。
昨日、あなたを思いださせてくれる方にお会いしたんですよ。


2014年1月19日日曜日

アルツハイマーかどうか?

朝ごはんの時、「昨日テレビでやっていたぞ、1分間で動物の種類を12種あげられなければ、アルツハイマーだそうだ、俺は言えた」と夫。
朝食の途中で指を折る私、犬、猫、猿、馬、、羊・・途中、つっかえるものの
12種を並べ「私も大丈夫だわ」
夫「当たり前だろ」

「その場面を想像できるかどうかだそうだ 」
「例えば動物園を想像したら、すぐにでてくるだろ」
数える途中でちょっとつっかえた時に私は広大な草原を想像し、象、ライオン、ハイエナ
と指を折ったことを思い出し
「なるほど、そうね」と私。そして私の視線は斜め横で食事をしている
夫の父を見つめ・・鬼嫁はつぶやくのです。「こりゃあダメかも・・」と。


2014年1月17日金曜日

伏見稲荷さんのお札のご利益は?

新年を京都で過ごした私。
初めて詣でた「伏見稲荷さんのお札」をたくさん買ってきました。
まだ渡していない友達に電話をしました。
「京都のお土産なんだけどさ、あんまりおそくなると困るから、今日夜いる?」
友達「いるよ、なあに?」
「伏見稲荷さんのお札だよ」
「えっつ、まさか長生きのご利益じゃないよね」と爆笑。
家内安全のお札です。
長生きにも問題は山済み。2025年問題はすぐそこですから・・・。

2014年1月16日木曜日

記憶


平から鈴倉を通りすぎると立派なセレモニーホールがたっています。
このホールの建つ前は何が建っていたのかしら?と思い出せない私。
しばらく歩くと路地の向こうに、善昌寺へ上がる階段が見えました。
路地手前には忘年会でよくお邪魔した割烹が見えます。
その前は誰のおうちだったかしら?
ここは魚屋さんのめぐちゃんのお家、その前はもう一人のめぐちゃんのお家
かな?と遠い記憶をたどります。駄菓子やさん家の和君のお家がない?
なかなか思い出せない・・
昔歩いた道には
想いがたくさんつまっていることに気づかされながら豆撰に歩く私。

2014年1月15日水曜日

刈谷田川にかかる橋を


歩いて通勤をはじめて5日目くらいです。今日はお天気も良く
ただ歩くのはもったいないとカメラをもちました。
平橋から旭橋を通り抜けると、ようやく夜が明けたような明るさになりました。
東町堤防を歩く人はいません。ときおり、民家から外の様子を見に玄関戸を開ける人に
出会うだけです。
橋の向こう金沢の堤防は車やバス、トラックが走ります。
静かな朝は対岸の車の音まで聞こえます。
路面は凍って、転びそうになります。川も氷がはって流れる川の水からは
白い霧のようにもやがかかり、ちょっと幻想的気分になります。
「手袋をしなさい」と夫の忠告を無視した、私のカメラを持つ手は
冷たくかじかんでいました。
豆撰に到着するころお日様が顔をだし
豆撰の屋根や花火の上がる鳩峰をきれいに照らしています。
昨日は悔しいような困惑した目で見つめたこの景色が
今日は銀世界の美しさを感じさせているのです。



2014年1月14日火曜日

困惑

雪国の宿命です。
夕べから朝にかけて50センチほどの雪が、町、屋根、道をおおい
夜が明けないうちから、除雪車は活動。
家の前の田んぼは雪の山になり
「いっぺいになったね」と屋根を見上げながら
豆撰までは歩く時間を想定して、夫に送ってもらう。
「帰りは歩くっけん、でも歩き始めが 嫌でね・・歩き始めればいいんだけどさ」
と私。店に到着したら妹が除雪していました。
妹は店の隣が住宅です。「雪が降ると休みが休みじゃなくなるよ」と渋い顔。
そのすぐ直後に社長が除雪に入りました。
私は、店に入り・・・やれやれと腰を下ろしました。
私は60年この雪を見続ける。
東京に行ってしまった、友達や知人、叔父さん叔母さん、みんなに
伝えたい、雪国で雪国を守っている、お父さんお母さんのいることを・・。
そして、雪国であなたたちを待つことが一番うれしいということを。

2014年1月12日日曜日

ガリバーのような優しさ

3連休の中日ですが、空模様は悪く朝から雪です。
それでも、お客様は雪の中、豆撰に足を運んでくださいました。
事務室にいる私に「礼子さん、お手伝いお願いします」と声がかかり、
私がお店に小走りすると、テーブルにたくさんのお皿がちらかって・・・。
すぐに、その皿をかたづけようとしたら、ガリバーのような大きな男の人が
2人で油揚げをお買いになられていました。背の低い私はお客様の顔を見上げ
「ありがとうございます」と声をかけると、
大きな男の人は、優しいまなざしで私を見て微笑んでいました。
「あら、S君、帰ってきたの」「まあ、黙って行かないでよ、ちょっとまってね」とお連れの
お兄ちゃんと一緒にあつあつの油揚げを食べてもらい、
3人で話が弾みました。
お兄ちゃんの「先生は変わらんですよ」の社交辞令に「いえいえ」なんて
本当は「そうでしょう」って心の中では思っていたのです。
あんまりおしゃべりしていて、あつあつの油揚げの感想を聞くことも忘れてしまいました。

二人とも大きくなって心もガリバーのように優しく・・。また来てね待っています。


2014年1月11日土曜日

ジャッジを観る


「ジャッジ」を観てきました。
久々に痛快な笑いの中、とても楽しい映画でした。
最近になく、主演男優と主演女優がはっきりしていて
単純人間の私にはとてもわかりやすかった。
また、先日ミラノのサッカチームに移籍した本田選手の
英語スピーチを思い出しました。
英語力というより伝える側の一生懸命さが妻夫木さんの役、演技と
ダブりました。
作品については美味しいケーキをたくさん食べて
満足した時と似ています。
なぜなら、内容が難しくない。良いことは良い、悪いことは悪い
美味しいものは美味しいと白と黒がはっきりしていたからでしょう。


2014年1月10日金曜日

地獄へ行くか天国に行くか

「自分で言うのもなんですが
私は絶対に天国に行きます。
こんなに朝から晩まで仕事をして
閻魔様が私をお呼びになるはずがありません」と
言い切った後・・しばらくして・・・
「今夜は大変だね、今年一番の寒さだね」 と
私のひとり言を聞いているスタッフ
「礼子さん、私はもうこんな日はこたつから離れられません」
私は
「まあね、私もきっとそうよ、だから居間にはこたつとれないのよ
お年よりは、こたつでぬくぬくして、寝るまで居間で過ごすと思うからね」と
絶対に天国行きを確信していた私の会話。
今の話はどうか、閻魔様聞かなかったことにしておいてください。
お願いいたします。

街灯に雪が舞う

片道四十分歩きます。
夕方の6時半頃に豆撰を出て、金町を通り抜け
金沢橋を渡ります。
鈴倉さんの手前から7時にもならないのに、人はいなく
工場の電気もついていません。
舞う雪は静かにアスファルトに落ち、積もっていきます。
私は足跡のない、真っ白い雪を踏みしめます。
長靴と雪とアスファルトのぶつかる音だけが
悲しい歌に聞こえてきます。
振り返っても、そこには誰もいなくて・・
私の歩いた足跡だけが残っています。
さらに、しばらく進むとあたりは真っ暗で、10メートルおきくらいの
街灯が舞う雪を照らしています。
いつもなら、早足なのに昨日の足取りは重くて
早く家に帰りたいと思わなかったようです。
とめどなくこぼれる涙をぬぐい、家に入り、夫の作ってくれた
夕食を食べ・・何もせずにベットにもぐりこんでしまいました。

気持ちが沈んでも朝がやってきました。
朝になれば、元気もでます。
さあ、頑張りましょう。

2014年1月9日木曜日

雪を降らさないで下さい

昨日までは気温も下がらず、雨模様の一日でした。この時期に雨はありがたいものです。
そして 、今朝も、気温は思ったより下がらず・・
でも、夕方になり足元が急に冷えてきました。
仕事の山を少しずつ片付けては外を眺めて、ちらちら舞う雪に
「どうか積もらないで下さい」と訴えます。
屋根に積もれば、屋根の雪下ろし
道路はブルがしっかりと大きな雪の固まりを店先に置いていきます。

なんだか憂鬱になってしまいます。
雪が降って楽しいのは子供たちと犬かしら?
「さあさあ元気を出してください。あなた」ともう一人の自分に話しかけている私。



2014年1月5日日曜日

竹林の中で





私の生まれた家は竹林に囲まれていました。

竹など珍しくもない、ごく当たり前の風景かと思っていました。
しかし京都嵐山の
竹林は全く違う異質な世界でした。
その理由はまっすぐに伸びた竹の美かもしれません。
竹と竹の隙間を光が通り抜けると
そこには、静かな音が流れているような
とても不思議な気持ちになりました。

まっすぐに伸び、美を競う竹と雪に負けまいと一生懸命起き上がろうとする力強い竹
どちらも竹には違いありません。
仏の顔もみな笑っているわけどもない、怒っている顔もある
あまのじゃくを足で抑える仏もある

京都の旅は私に私も人も同じ顔では生きられない。
時には泣き、怒り、笑う
様々な顔を持って、あっちへ転び、こっちへゆられていく・・それでいい、それでいいと
自分流に自分や人を認める旅になったようです。


2014年1月4日土曜日

危機管理体制はどうなっているのでしょうか

昨日のJR東海線に乗って、京都から東京へ帰るはずなのに、
例のパチンコ屋さん火災から、大幅な列車の遅れに遭遇してしまいました。
京都駅の電光板 には17時26分に乗るはずの案内はありません。
13時?発はおおよそ2時間遅れと表示されているだけ。案内所や改札口は長蛇の列。
並ぶ事1時間後、ようやく私たちの列車発車時間がなんと後10分と駅員さんの話。
ホテルロビーにおいてきた娘夫婦と、ご両親を呼びに姪っ子から走ってもらい・・
ようやく、ホームへたどり着くものの・・電車は発車してしまいました。
がっくりと肩を下ろし娘夫婦はイタリア語から英語に変わってのバトルがはじまり・・
まあまあとなだめているうちに次の列車が到着・・もうとにかく乗ってくださいと号令をかける私。
列車の中は大勢の人です。みんなで車両を渡り歩き・・グリーン車にたどり着く。ガラガラでした。
お金を払いますからご両親だけでも座らせてくださいと懇願。それは出来ません、臨時なので
どこの席が空席か把握できません。あららららら・・この現代社会にどうして???と5分くらい掛け合ってようやく、座らせてもらいました。「お願いです、お年寄りの方と小さいお子さん連れの方も座らせてあげてください」と私は腹を立てながら懇願するが・・「そういうことは指示がでていないので出来ません 」との弁。押し問答の末私を無視して機嫌悪く去り行く始末でした。
縦社会の融通のなさをまたまた実際にみてしまいました。事故が起きた時の咄嗟の判断力を持ってはいけないと教えられているのでしょうか?それと判断できない職員ばかりなのでしょうか?
結局2時間以上、グリーン車はガラガラでした。