2016年5月16日月曜日

初恋

保険証探しをしていました。すると、あの7・13水害の瓦礫の中から奇跡的に取り出すことができた、私の宝物箱が目に止まりました。この箱を開けたのは15年ぶりです。蓋を開けると、いちばん上にドイツの学校に行ったばかりの娘からの手紙とハガキが数枚積み重ねてありました。その中の一枚には、『お父さん、お母さんお元気ですか?後一年したら日本に帰ります。一緒に旅行がしたいと思っています……。』と殊勝なことが書かれていました。この一文は全く守られることなく、今ではアメリカ暮らしです。この宝物箱にはたくさんの想い出が詰まっていました。この手紙の数だけ私の人生に深くかかわった人たちの私へのメッセージなのです。
そして、一番箱の下になっていた封書を手に取ると、切なくて胸が締め付けられるような切ない気持ちがよみがえりました。
15年前、私の大好きな姉のような存在だった叔母が肺がんのために、この世からいなくなりました。それから数十日後のことです。叔母の親友だったYさんが突然、豆撰に私を訪ねてきたのです。
42年ぶりの再会でした。風の便りで私の叔母の死を知り、いてもたってもいられなくなって、叔母のところにお参りし、その足で、今まで一度も訪れることなかった栃尾へ立ち寄ったとのこと。私と私の母のことが懐かしくなり、どうしても、会いたいかったと嬉しそうに私の顔をみつめました。叔母との想い出、話はつきませんでした。叔母が生きていたなら、どんなに喜んだことでしょう。叔母の最期の様子を話し終えると、お互いの顔は涙でぐちゃぐちゃでした。
そのYさんには弟がいました。私と同じ歳でした。名前は「よっちゃん」
5歳の時によっちゃんはお父さんの仕事の都合で引越しをしたのです。ある夏の日、池のふちを歩いていると、足を滑らせたのでしょう。私は池の中に落ちてしまい気絶したのか、溺れかかったのかわかりませんがよっちゃんのお母さんの背中で目が覚めました。よっちゃんの浴衣を着せられていました。それが、とても恥ずかしいようで、嬉しかったことを今でも覚えています。
春になると、お互いのおばあちゃんからランドセルが届き、一緒に小学校へ行く約束をしました。
そして、大きくなったら私をお嫁さんにすると言ったのです。
別れの朝、よっちゃんと家族は坂道を下りて行きました。
この話はお姉さんのYさんに話しませんでした、別れ際になって、「よっちゃんは今どちらにお住まいですか」と尋ねました。すると一枚の紙に住所を書いてくれたのです。
私はその住所のよっちゃん宛てに、一気に手紙を書きました。私の記憶をたどり、無我夢中であの時の約束覚えていますかと。
しばらくすると、丁寧に私の名前が書いてある封筒が届きました。
その封筒には、近況報告が便せん2枚にびっしり。そして最後に「ごめんなさい、残念ながら、あまりにも幼少で覚えていませんでした」と結んでありました。このお手紙をいただいてから早15年が過ぎました。私の探し物はこの切ない気持ちだったようです。

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