2025年10月8日水曜日

ゴッホと原田マハ

 ゴッホ展開催をFBで知った。行ってみたかった。上野なら日帰りが可能である。

バスツアーが続いていたので新幹線の速さと快適さを改めて感じる。

さてはて会場は東京都美術館はと歩き出し、西洋美術館を過ぎ国立博物館の横と思い歩いたが、田舎者にはわかりにくく、通り過ぎること2回。スマホ持って歩いているのに、5分の距離に辿り着かない。老人は哀しや。

3周目でゴッホポスターに遭遇。ここじゃあん、この茶色の建物だった。やれやれと会場に。チケット購入。65歳以上1600円とは、なんだか歳をとるのもラッキーである。

何故ゴッホ展がみたかったかと言いますとゴッホの絵が特別好きと言うわけではない。実は原田マハさんの「リボルバー」と重なっていたからです。

展示室には画商だったゴッホ兄弟の集めた有名どころの絵から始まっていた。ミレーや浮世絵の収集とゴッホへの影響などなど、ゆっくりペースで一つ一つの作品と解説を読み進む。だいぶ混雑だった。

これだ。この木の中にピストルが隠されていたはず。私が本の中で想像していた林と同じだった。そんなことあるかと不思議に思ったが、多分この絵はどこかで見ていたのかもしれないと思い直す。私に透視能力があるわけではないから。

精神のダメージは天才を生むのだろうか。

もし、若くして死することがなかったら、どんな画風になっていただろうか。世界史に残る画家の物語は生まれていなかったかもしれない。

ゴッホを守ってくれた親族の力あってゴッホの物語が完成し、絵についてなんら知識のない私をもこの会場に足を運ばせている。


日日是好日


2025年10月5日日曜日

今まで生きてきて一番辛かったことが想い出に

 扇沢からバスに乗って黒部ダムに着いたのは、9月30日。200段の階段を登ると前方に立山連峰が広がる。丁度雄山のてっぺんに雲がかかっていたが、それはそれでいい景色であった。

22年前のことだ。叔母は一年の闘病生活に疲れ死を覚悟し、遺言を残した。叔母の夫には「N子は強い子だから大丈夫だけどHのことは頼みます」と叔母の娘と息子を叔母は夫に託した。そして「母ちゃん、父ちゃん、姉ちゃん達を頼む」と姪の私に託した。母ちゃん父ちゃんは私の父母のことである。姉ちゃん達とは叔母の姉と兄のことだった。一番末っ子の叔母にとって自分が看取るはずの番狂せだった。今では父のふたつ下の叔母だけになってしまった。

癌という病は若かった叔母を容赦なく蝕みあっという間に命を奪ってしまった。

叔母の自宅2階のテラスから陽が昇ると叔母は手を合わせ大きな瞳の中に祈りを映していた。

ある日今まで生きてきて一番嬉しかったことはと尋ねたら「N子が生まれたとき」とこたえた。

もう一度行きたい所はと二度といけないと知りながら私は質問した。「立山かな」と弱々しい声でつぶやいた。

「行こう、つれて行くよ」と叶うはずのない返事は何故か力がこもった。

そして叔母の死から半年過ぎの秋 叔母の写真を持って線香を持って立山の石碑に飾って手を合わせた。

同行したのはN子と私の娘そして夫の4人だった。

黒部ダムから立山連峰を望む。23年前の記憶が走馬燈のように甦る。今まで生きてきて一番辛く悲しかった叔母の死も、いつのまにか心の中で溶けて悲しさというより懐かしい想い出となっている。

日日是好日