2025年3月7日金曜日

イタリアの日常

 二日間、これと言った特別のことはなく老夫婦は過ごした。時差ボケもやや解消されてきた。日本にいる時と変わらず、就寝後は4時間で目が覚めてしまう。老夫婦の間には「ババとジジと寝る」となんと可愛いことを言う孫かと思えば、夜中に大泣きしてママのところに行く。あたしゃ疲れているんだから。本当は一緒に寝たくないのに、孫のためと自分を殺して一緒に寝てやっていたのにと心の中だけで思っている。朝食は白飯に目玉焼き、ワカメ味噌汁、持参した味付けのりを娘が用意してくれる。ああ、日本人だよ、湯気の出ている熱い汁を音を出して啜る。一口飲むとふーかあーか感嘆符音。日本の食べ方なんですよ。そばだってすする、ラーメンもビールひと口口にすれば感嘆符音がでる。やれ、音を出すな、すするな、食事のマナーの違いには来るたびに神経を使う。老人夫は気をつけているのだが、ガチャガチャ、ズルズルで孫にも「それやっちゃあダメなんだよ」と言われる。その度にわたしゃあ、娘婿殿に気を使い、ドキッとする。この国は小学校は5年制である。登校には必ず保護者がついていく。まあ日本の保育園と同じである。危険がいっぱいのお国だから仕方がない。重いリュックは大抵保護者が持っている。夫は孫の荷物持ち係だ。それから掃除洗濯と娘が家事をする。その間私は「将軍」を観る。我が家ではみられなかったので、イタリアでは絶対見てやるぞとイタリア企画に入っていたのだ。徳川家康がモデルであることは知っていたが登場人物の名前は変えられていたため、すぐに理解できなかった。2話くらいからようやく理解する。6話まで観た。観終わったら次回感想文を書きましょうか。さて、それからスーパーやら市場に行く。市場は木曜日と土曜日。イタリア人もいればアラブ人もいる。みんな愛想が良い。野菜の品数は日本の倍くらいある。筍のようなミニサイズで青い野菜。イタリアで何度も見るが食べたことがないので買ってもらう。茹でたその野菜を一枚一枚剥いでオリーブオイルと酢と塩のドレッシングをつけて食べていく。2個も当てがえられたので、非常に手間がかかって食べる野菜だ。もうわかったもういらない。市場では魚の種類も大きさも量も日本とは違う。切り身パッケージなんてもんはない。必要な量だけを買う。肉もそうだ。日本はパック社会。だいたい何でもかんでもパックが好きである。もちろん必要ないプラスチックトレーに見た目よく並べられている。自宅用ならバラ売りで十分だ。環境にも優しい。油揚げも袋なしバラ売りを提案したいよ。市場での買い物は夫のカードである。「遠慮しないでジジの食べたいものを言えば」と妻は夫に助言。夫はそれどころではない。両手に3つも大きな袋を持たされ、まだまだこの時とばかりに買い物は続きましたから。こんな日常生活はイタリアに来た時だけです。これを幸せと言ううのかよくわかりませんが

日日是好日


2025年3月6日木曜日

ボローニャと栃尾

滞在5泊目は、ピサの斜塔を後に ボローニャに電車で着く。陽射しも陰り始め駅に降りるとかつて滞在したどの街よりも清掃されて綺麗である。しばらく行くと大きなアーケード(雁木)が続く。中世に建てられたアーケードの長さと広さは何百人もが一度に歩けるようだ。街人も鎧を纏った軍隊も貴族もここを通り抜けたのだろう。雨や風をしのいで、たったたったと大勢の人が歩く足音が聞こえてくる。石ので作られている巨大なアーケードの理由は栃尾の雁木通りと同じである。木で建てられたものもあった。どこの国でも人間の考えには共通点があり、発展がある。中世の発展から現在の発展までの道のりを想像したら人間の能力はとてつもないと思う。また家と家の間を流れる川は小さなベネツィアでインスタ映えの名所となっていた。栃尾にもある。川の上に街が建っている。このふたつもの共通点で町興しができないものだろうか。

マッジョレー広場を中心に権力を誇示するために建てられた塔がいくつか残っている。高い塔もあれば低い塔もある。修復中の高い塔はピサの斜塔のように傾いていた。ヨーロッパで最初に建設された大学は今では大きな図書館になっている。解剖学を学んだ講義室は木の彫刻が目立つ。サン・ペトローニオ聖堂も広場の中にある。アントニオ ディ ヴィンチェンツォの手により1390年に着工が開始されてから長い年月が経っている。建設当初は世界で一番大きな聖堂となる予定が、600年以上経過した現在も完成しないままとなっています。街から離れたらワイン畑などトスカーナ地方の魅力にも触れたかったたが1泊滞在ではじっくりと見学はできなかった。二度と訪れることはないボローニャを後にする寂しさは老人であることの認識でもある。娘家族と過ごす目的も大事であるが、世界のことをあまりに見知らずして歳をとってしまった。と娘に話すと、今からでもできる。と言う。日増しに衰えを感じている老人に何ができると言うのか。今更と頭の中から声が聞こえてくる。でもまだ出来ることもあるはずと今更を打ち消す自分もいる。あっという間のジェノバからピサそしてボローニャの旅は終わって娘家族の新居に戻る。時差ボケと旅の疲れが出て睡魔が今の悩みを救ってくれる。

日日是好日

2025年3月4日火曜日

ピサの斜塔の不思議と魅力

   ジェノバからピサの斜塔観光までは電車を利用し、娘と孫と私たち夫婦で行く。婿殿は仕事のためジェノバ駅でお別れ。私たちは指定席に乗り約2時間の車窓を楽しむ。イタリアの海が続く、海の崖風景は宮崎駿のアニメ風景によく似ている。イタリアがモデルだったかな?モンッツアに戻ったら宮崎駿のアニメをもう一度観てみようか。

ピサの駅から大きな橋を渡たり、街を通り抜ける。この風景は過去のイタリア観光地と似ている。と言うかどこもかしこも同じに見えてくるってことは、記憶力の低下に他ならない。両脇の中世の建物は小さな老人を飲み込み、疲労を与える。孫と一緒にイタリアを回ることができるるのはあと何回だろうか?娘に呆れられるほど、日程を何度も確認する夫を見ていると夫も確実に歳をとっている。私もである。

駅から歩くこと30分、両脇に中世の建物が並ぶその中央にピサの斜塔の頭が見えてきた。夕陽に照らされて白亜の塔はおとぎの国を連想させ美しく、清楚なドレスをまとっているようだ。建物をくぐり抜けそのそばに行くと想像していたよりも傾いて見えなかった、斜塔から大聖堂広場へ歩き斜塔と距離を置くと、傾いている傾いている。4度くらい傾いているらしい。とにかく観光客はみんな手を塔にかざして斜塔を支えるポーズを写真に収めている。ふむふむ我々も同じポーズをこっちであっちで、カメラマンの指示に私の腕は斜塔を支え過ぎて痛くなった。

もういいよ。疲れた。今日は宿で夕食にしよう。

今流行りのフロントもなし従業員もなし、暗証番号をうち、部屋に入る。ベッドとリビングがあり、屋根裏にもベッドあり。螺旋階段の屋根裏はババは落ちたら大変無理。孫は大喜び「まあまあいいじゃあない」と生意気なことを言っている。連日続きのレストランに飽きたので、この日は質素倹約。娘は買い出しに行き、青梗菜の炒め物に豚と牛肉の中華炒めをゲットしてくる。味はともかく移動しなくていいことは疲れない。この日は早く寝て、早く起きて、ピサの斜塔に上るぞ。

大聖堂の鐘楼であり、世界遺産、高さは地上55.86m、階段296段を上るはずである。1173年着工1372年完成。600年以上前の歴史、傾いてよかったのか悪かったのか。

さて、準備万端だったはずだが、ここには純粋たるイタリア人婿はいない。チケットを買う場所がよくわからない娘。当然我々は全くわからない。ウロウロするだけ。行動ではありません。頭と首の運動です。

はてさてどうするの日本人3人は停止。

こうしたハプニングは旅の想い出となるわけで、前日のミステリーの続きをしましょう。婿殿のご両親は結婚45周年、その時以来どんな来客にも使わなかったステンドグラスのワイングラスをこともあろうにあの老人夫は首にかけていた携帯の紐で引っ掛けて、見事に爆破させてしまったのです。唖然、私はちびまる子の顔。どうしてくれるの、何をするの。となったわけです。おまけにもう一つ今度は自分は夫よりしっかりしているとまだ私の方が若いと思っていた私がですよ、夕食レストランで首に下げるバックを椅子にかけて、それを置いたままレストランを出てしまったようで、駐車場で夫が鬼の首を取った如くバックを渡す。呆れることと爆笑の渦。孫のババに対する評価はまたまた減点。寄り道終了。

困った時は本物に聞くに限る。娘は携帯でチケットを婿に取ってもらいことなきを得る。

ピザの斜塔は、その傾いた姿が特徴的です。紀元前からローマ帝国の海軍基地として機能していたピサ市は、11世紀ごろから地中海の貿易国として栄え、15世紀初頭にはフィレンツェ共和国に占領され、その歴史的な背景を甦らせるピサの斜塔に上るぞ。だが入場まではI時間ある。孫は斜塔を描くと言う。夫は警護隊になり私と娘はサンドイッチを買いにと言い訳をしてコーヒーを一杯いただく。孫の描いたピザの斜塔の描写は7歳にしてはうますぎだ。孫馬鹿なり。「みんなが荷物を持っていないよね」と娘が気がつき、係員に聞きに行く。荷物は全て荷物置き場に置くそうな。やれやれよかった。ロッカーに入れて、斜塔入り口に並ぶ。ルンルン気分の孫。だが、斜塔の一階広場の傾きに恐怖を抱きはじめる。狭い大理石の螺旋階段は滑る。石が減って中央が凹んでいる。傾斜を感じる。すれ違った日本人の子供は怖い怖いと泣き叫んでいる。日本語ペラペラさんはそれを聞き、ますます恐怖の渦の中に突入する。「ババ、ネパールに比べたらへいっちゃらって言ってたでしょう」遅れ気味のババに罵声がとぶ。しょうがないよネパールは自分のペースで登るけど、ここは否応なしで上らされる。泣き叫ぶ孫とハアハアゼイゼイのババでした。その後ピサ大聖堂を周り、心の中でみんなおんなじだよなーと呟くババ。

日日是好日


2025年3月3日月曜日

想い出アルバムはここにも

 2025/2/28

夜中の12時近くになってしまった。娘夫婦の新居は白くて、洋風の小さな館だ。夫婦と子供ひとりの新居としては十分すぎるくらいに広い。壁には思い出の写真がいっぱい飾ってある。

どの部屋に行っても娘夫婦の出会いから去年、日本で撮影された孫の七歳のお祝いまでがびっしりとかけられている。その中で小さい額縁の写真に目が止まる。そこには若き日の父がいた。髪は黒く、村一番の美形だった。私は残念な事に母そっくりだ。背は低く、鼻は上を向いている。10歳違いの叔母は父の妹で美人に生まれ、栃尾の三人娘クレオパトラか楊貴妃か小野小町かと言われたそうだ。美人は薄命なりだった。

それはどうでもいい事で、まさかここに父がいて孫たちに囲まれている写真があるとは思いもしなかったので、「どうして、泣いているの」と孫に見つけられた私はそくさくとその場所から離れた。娘は多分十歳で姪っ子は四歳、甥っ子は生まれたばかり。33年前の写真だ。この頃は丁度豆撰を立ち上げたばかりで、死に物狂いで朝早くから夜遅くまで働いていた。休日もなく家族と一緒に過ごすこともできなかった。だから父は娘を頭に3人の孫の世話人だった。私にはこの頃の思い出がほとんどない。込み上げる涙が堪えきれなかった。そして亡き父に感謝した。

思い出のアルバムはどこで見つかるかわからないものだ。

心地よいベッドルームを与えられ、70歳この上ない幸せを感じながら眠りにつく。

普段から寝ることが不得意の私である。3時間後には目覚めてしまい、日本に残した心の重い扉を開いていた。

朝食は新居の目の前にあるパン屋さんに孫から連れて行ってもらい、クロワッサンを買う。生ハムにコーヒーが用意されている。家族団欒の朝食に感謝する。

今日は婿殿のご両親に謁見だ。5年ぶりだ。婿殿の父親は病後、リハビリを拒否をしたため杖なしでの歩行は無理でせいぜい数十歩であった。

私たちは婿殿の母上から手作りのお料理を振る舞ってもらい、ボーノの連発。食器類は結婚祈念のお花のお皿やクリスタルのグラス、この日のために新調したテーブルクロス。そしてコーヒーカップは新婚旅行で求めたギリシャもの。思いっきりの歓迎に感謝する。そして、特に野菜たっぷり煮込んだスープに孫は「見た目はあんまり良くないけど、めっちゃおいしいんだからね」と私に一生懸命伝える。ノンノと孫の血のつながりの深さを感じ、感謝するババでした。

さて、この晩餐のために45年前のクリスタルグラスの一つがどうなったのか、ミステリーは翌翌日に続きます。あとで書きましょう。

翌日は婿殿の別荘へ。くねくね道はどこまで続くのか尾道のようないやそれよりも長くて狭い道を登ること30分。別荘の木の壁、タイル貼り、家具など全て婿殿の父上が手造りで仕上げたらしい。ここにも思い出アルバムがたくさん並べられていた。庭には黄色の妖精がいっぱい咲いていた。幸せ色を届けてくれる水仙さんありがとう。山の上はまだまだ寒くて、別荘を後に街のレストランへ直行する。海の幸がずらーり。アンチョビ、タコ、真鯛などが並ぶ。浦島太郎のように竜宮城でもてなしを受けて、その上ビールにワインに大喜びする我が夫。この国は飲酒しても車の運転は問題なし。自分で自分に合う量のみ飲むからだ。パスタもムール貝にエビ三昧。わたしゃあ、もう食べれれません。

半島に出て入江を歩き、海猫にご挨拶。イタリアはどこに行っても観光地である。

夜は日本の家族だけでレストランにいく。小高い丘の上に1000年前に建てられた教会がある。装飾品などなく実にシンプルであるが古きものの良さを醸し出している。大理石をはじめイタリアは石造りだ。日本の明治時代に建てられた館で見る石畳は木の中に異質が混じるので目立ち感激するが、ここの地では当たり前なので感動はもうちょっと薄れている。

この続きミステリーは明日書けるかな

時差ボケは続き今はイタリアは夜明け前の3:43

日日是好日



2025年3月1日土曜日

イタリアへ関所は厳しい

 2025/2/27

今回のイタリアの旅は成田空港からチューリッヒ経由ミラノの行き。朝5:30に栃尾出発、昨夜作っておいたおにぎりとお茶をかき込み急ぎ、出陣です。スムースに成田到着、スイス空港機のマークは白地に赤く日の丸の丸が十字架ですから全く考える必要がありません。覚えやすい国旗は、簡単便利のレシピ集のようです。15時間の飛行は今までより2時間くらい時間がかかります。ウクライナとロシアの戦争のせいです。東京から太平洋に出てアラスカ経由でなんと無駄なことでしょうか。そしてもちろんエコノミークラスに乗りました。最後のイタリア旅行はせめてビジネスクラスに乗りたいものですが、その最後の時に預金が残っているかどうかが問題だと考える、20年も先なら絶対に預金はない。いや待て、最後が今日だったら一生エコノミーで終わりとなるわけで。と余計な事を考えながら、通路脇の座席は足を十分伸ばせ,スクワットもできました。ただし追加料金は支払いました。長い機内での時間の過ごし方は読書と映画映画映画。いつも思うのですが英語がわからないことは全く持って損です。まるで人生において損をしたような気になりその一瞬のみ落胆するのです。海外旅行の度にこの落胆は続くのですが日本映画を捜すしかないのです。そもそもタッチパネルも英語ですら、日本映画を捜すことも一苦労。ようやく見つけた映画は「52ヘルツのクジラたち」内容は重いけれど、杉咲花の演技力に吸い込まれてしまう。朝ドラにもいい演技をしていた志尊淳の演技もなかなか良い。テーマは最近の社会情勢なのだろう。ネグジェクトやらジェンダーについて投げかけている。この種の映画は実は苦手である。心が拒否反応を起こし、見終わるとドッと疲れが出てしまう。しかしこの映画には拒否反応を超えた俳優の演技力に引き込まれる。脚本が良かったのだろうか。

ご覧になっていない方にはおすすめ映画でした。

乗り換えチューリッヒまで2回の食事と2回のおやつを食し、なんとか苦痛の痛みの時間を過ごす。そしてチューリッヒに到着。この空港は広くて綺麗である。ごみひとつ落ちていない。ゲートA73を夫は間違い、私の記憶とどっちが正しいか確認する以外はスムーズに行きミラノ行きにようやく乗り換え、目指すはミラノ。1時間後にミラノ到着。娘家族が出迎えているはずだ。どんどん歩く、人も歩く、荷物は?でもここではないのかな?その便によって場所が違うかなと立ち止まり考える能力は残っておらず、スタスタスタスタと人の波についていく。あれ 違うここではないやっぱりスーツケースをとりに行かなければと戻ろうとしたら、あのいやらしい警告音でストップされてしまう。絶体絶命だ。立ち止まって身動きできない老人ふたり。この出口一歩手前の監禁に慌てる。ここからどうする老人ふたり。どうすればいいのかと繰り返すこと数分。遠くに係員。監禁室から日本語で叫ぶ。係員は駆けつけてくれるが、日本語は通じない。いつもの和製英語とゼスチャーでスーツケースをとり忘れた事を理解してもらうが、もう絶対に戻れないと言う。「ゴー、レストラン、チンクエ」ふむふむ「レストランをレフトに行き5番のところに入りグルーっと回る」名探偵おばさんはコナンのごとく解読し、OKサインを送り出口に。そうだここで何回も待ち合わせしたこの場所だとババさんは確信する。係員の言う通りにその5番の入り口に立つことはできた。だがしまっていて入れない。待て待てイタリア家族が来ているはず彼らと遭遇する方が早い。彼らはイタリア語は得意なのだから、ババコナンの頭の回転はまだまだ生きている。涙の再開。劇的なハグ。のはずが喜びは待て待てと追わずけ。事の真相を説明。呆れる娘夫婦。何回イタリアにきているのと怒られ、私たちはただただ土下座して謝るのみ。5番の入り口を開けてもらい、そこの係員に事の次第を伝えてもらい、老夫婦は関所に入り通行手形を見せる。ラストワンに行くように指示される。カウンターにはラストナンバーはない。どんどん右に進んでみると先ほどの関所の係員がストップと老夫婦を引き止める。ラストワンとは一番最後のカウンターってことか?と戻り順番を待つこと30分そしてやっと担当と話すが全く通じない。荷物が届かない?荷物の番号がわからない? 問答をパソコンで繰り返すが埒が開かない。娘に電話したいがWi-Fiは繋がっていない。またもや絶対絶命の危機に晒される。コナンババさんはジジに荷物番号の紙を出してと言ってそれを係員に見せる。荷物の居場所確認をとってもらい一件落着。1時間がとっくに過ぎてしまった。

ミラノから娘家族の新居までは1時間。車に乗せてもらいやれやれと言うわけで今回の旅の目的新居見学に辿り着い次第です。

日日是好日