2017年8月15日火曜日

新しい家族にさようなら


アメリカで出産を決意した娘、生まれてきた小さな命を見つめていると
なぜか母を思い出しました。私が娘を産んだ時のこと。
母は一生懸命私と赤子の娘の面倒を見てくれました。

栃尾の春にはまだ遠い 昭和56年の3月。郷病院の窓から西谷川が見えます。
川には除雪で運ばれた雪でいっぱいです。
その向こうで仕事をしている夫の建物まで橋を渡らなくても
ポンポンと跳んでいけそうに川は残雪で埋め尽くされていたのです。
病院から実家に帰る。
父と母が迎えてくれる 、これが本当の私の家族ではないだろうかと思った。
ストーブに石油を入れ、朝食を部屋まで運んでくれる。
ご飯と味噌汁と卵焼きくらいだったと思う、おかずまでは思い出せないけど
とにかく、お腹が空いて 空いて、5分もかからずに食べたような気がする。
おっぱいを娘にやるので、喉が渇いて仕方なかった。嫌いな牛乳がなぜかその時だけは美味しかった。大きなサイズの紙パック一本では足りなかった。
母は夜中に部屋を覗き、私が爆睡して、オシメ(オムツ)を替えないので、わざわざ来て交換してくれたていました。
母はこの頃、ほとんど一人でお茶屋を切り盛りしていました。
お店にお客様がくれば飛んでいかなければなりません。
洗濯も途中でお客様のお相手です。
洗濯開始から終了まで半日はかかっていました
それから産婆さんが湯を使わせにやって来ます。

この産婆さんは私を取り上げてくれた人です。親子二代お世話になりました。

母にとって初孫の娘はとても可愛くて仕方ないようです。

忙しい日々の中少しでも時間を見つけては娘に笑いかけます。
そんな母を見て、父は自分に言い聞かせるように、この子はうちの子ではないから
可愛がっても仕方ないというのです。
36年前が走馬灯のよに私の心のまわりを廻るのです。

とうとう最後の時間がやって来ました。孫を婿殿に任せ、娘と夕方散歩に出かけました。
娘は怒涛のようにすぎた日々だったと言います。
それはそうでしょう、産後三日目にして退院し、その二日後には自分が生んだばかりの娘をおいて、入院する羽目になったのですから、家に帰してくださいと泣きじゃくる娘の気持ちを考えると胸が張り裂けそうでした。母として冷静さを装いながら
頭の中は真っ白になったり、真っ黒になったりでした。
この三日は私も病院に寝泊まりし、娘を私なりに励ましました。治療の甲斐があったのでしょうか、なんとか退院にこぎつけました。このアメリカ入院で、体験したアメリカ医療は流石だと感心させれました。今では母子ともに健康です。
そんなわけで、次から次へと新幹線に乗っているように日常は過ぎたのです。
平和な日々はこ二日くらいでしょうか
孫を抱きしめ、孫を寝かせ、孫に話しかけます。
今度いつ会えるかね、泣いてばかりいてはダメよ、新米ママが困るでしょ
と名前を何回も呼びながら話しかけました。
名前を呼ぶと泣いていても泣き止むのです。娘はお腹の中の赤ちゃんに名前で話しかけていたからでしょうか?
そして、ロサンゼルス空港に
私の気持ちは日本に向かっています。空港ロビーで搭乗まではかなりの時間がありましたが、孫が車の中で待っているからもう行きなさい。私は大丈夫だから
そりゃあそうでしょう、私はたった一人の娘とのお別れ時間が長ければ
溢れそうな涙を抑えられなくなるから……。







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