大好きな叔母が57歳で癌と闘った時に
私は志村喬さんの「生きる」を観ました。
そして
なんとか、生きている今をがんばってほしいと願い続けました。
私に出来る事は何でもしました。病院から自宅療養になれば
毎日山を越え1時間かけて叔母の顔を見に行きました。帰ってくるのは
12時を廻っていました。
東京にある免疫力をたかめる鮫の軟骨、尿から作るワクチン
放射線治療のために群馬大学病院にも出かけました。
結果は2年と宣告された命より短かった。
いろいろな治療をしながら、春は桜を愛で、死の半年前には
車椅子にのせて、沖縄旅行をしました。
沖縄旅行は手も足も脳腫瘍転移のためとても大変な移動でした。
それでも、叔母は沖縄で食べるものを「美味しい、美味しい」と
連発していました。
今思えば、痛み止めを飲みながら、私と叔母の夫、そして私の娘に
対する感謝の言葉だったのでしょう。
その時は、本当に美味しかったんだと単純に私の方が自己満足していました。
あの痛みの中で、美味しさは薄らいでいたはずです・・・・・・。
月日が過ぎ、13年過ぎてみて、
叔母の人に対する思いやりの気持ちをつくづく感じました。
何故、今日は命日でもないのに、叔母を思い出したのか不思議です。
それは、私が今できる最大限のことをしてみようと思ったからです。
昨日撮り始めていたレシピの写真が思うように出来なかったからです。
「出来るでしょ、礼子、生きているんだから」と叔母が励ましてくれたのでしょか・・・・・・。
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