2022年7月25日月曜日

母の一周忌

私には三つ違いの妹がいた。

その妹は数ヶ月でこの世から

さようならをした。

父は座敷に並べられている

たくさんのお膳を前にして

少し前かがみで立っている。

父は昔の人にしては背が高かったので

幼い私は父の頭が天井に続くのでは

と思った。

父は白いワイシャツを着ていたように

思う。ネクタイをしていた。

お膳についている大勢の人に

悲愴な顔で何か挨拶していた。

その時、私は母がいないことに気がついて

2階に上がってみたら

母が泣いていた。

私がそばに行くと

あっちに行っていなさいと

言っただけだった。

母が私に見せた最初の涙だった。

実は母が泣いたのはこの時から

15年くらい後の2回だけだった。

もう一回は、いつか書ける時が

きたら・・・・・・。

話を戻します。

私の記憶は曖昧である。

なにしろ3歳だから

父母は生まれたばかりの

赤子を毎日風呂に入れていた。

この時の風呂は大きな木の桶で

割木を焚べていた。水棚と並んで

床はセメントに目ザラが敷いてあった。

赤子の頭に腫れものがいっぱいできて

祖母はその腫れ物のことを

胎毒と言っていた。

赤子の名前はまりこと名付けられていた。

数ヶ月でこの世から消えてしまった。

まりこのことを祖母は

父と母のせいにして

訳のわからない幼児の私に

腫れものをいじり回し石けんをつけて

洗ったせいだと言い続けた。

何が原因だったのか

聞く人もみんな居なくなった今では

わからない。

多分、今なら治せる程度の病気だと思う。

それから4年が過ぎて妹ができた。

この妹はふたりの姉(私とまりこ)と違って

病気らしい病気はしたことがなく、

近所でも有名なわんぱく小僧

いや、小僧は男の子だから

小娘だろうか

元気の塊のように

丈夫で賢かった。

祖母はよく言った。

この子が男の子だったらよかったのに。

幼稚園の運動会には園児代表挨拶を

堂々とした。と父母は大喜びで

帰ってきた。

みかん箱は妹のステージである。

水前寺清子さんの涙を抱いた渡り鳥

はお箱で、親戚中の人から喝采を受けて

いた。

そりゃあそうです。

泣き虫で、人の前に立てず

どこに行っても祖母の後ろに隠れている

引っ込み思案の私とは対照的存在でした。

私と違って運動も良くできた。

父母は母に懐かない私を祖母に

任せ、中学三年まで姉ちゃん(叔母)と

私と祖母の3人と父母と妹と言う

2組の組み合わせ家族のようだった。

妹は母に可愛がられ、私は祖母という

関係がは幼少の時は気にしなかったけれど

だんだん成長していくにつれ

寂しかったかもしれない。

いつも母と一緒に寝床に入っている

妹が羨ましくて

私は母に愛されていないと思っていた。

今日は母の一周忌だった。

後を継いでくれた妹夫婦、妹家族と

私の娘家族とお寺に行き

読経を上げてもらう。

母は母に懐かない私をみて

さぞかし、寂しかっただろうと

私は娘を授かった時に

初めて母の気持ちがわかったような

気がした。


だから、私は娘が生まれた時

絶対に娘を手離さないと

心に誓って、絶対義母とは寝床を一緒に

させなかった。

それでも娘はばあちゃん子に育った。

住職の唱える読経に合わせ

妹の読経に

母が優しくありがとうと言っている。


私が67歳 妹60歳 

母の命日は7月8日 忘れないように

書いておこう。

日日是好日






2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

幼い頃の淋しい思いは何時までも残りますね。
読んで涙です。
礼子ちゃんは他人を大事にする素敵な大人になった背景だったのね。お母さんは嬉しく見守っていられると思います。合掌

匿名 さんのコメント...

おはようございます。ブログを読んでくださって
ありがとうございます。
寂しかった思い出も、今は懐かしい記録の
一ページです。