夜空といっても、長岡の街のネオンはうるさいくらいに明るい。
だから空が違う。
栃尾の空と違う。
ネオンの向こうに見える花火が本当の空に打ち上げられたら
もっと綺麗なのにと思った。
それでも久しぶりに見る花火は
大きく、いっぱい上がった。
さすが、栃尾の花火とは比べものにならない。
見ごたえのある、これでもかと打ち上げられる花火に
酔いしれる気持ちがわかる。経済効果も大きいはずである。
大きな尺玉が上がり大きな円を描くと、そのすぐ後に流れて
消えていく。
この尺玉が一番好きだ。
でも、不思議である。
流れる様は哀しいと叫んでいるようにも映る。
まるで、戦地で亡くなった人々の嘆きが聞こえてくるようだ。
長岡の空は真っ赤で綺麗だったと話した、
明治生まれの祖母を想い出す。
しかし、「長岡の空を綺麗だった」の後に続く言葉がどうしても思い出せない。
何かとても大切な言葉が続いたはずなのに。
戦争を知らない私に何を語りたかったのだろうか。
信じられない光景にただ呆然と立ちすくんだのだろうか。
長岡は負けないと打ち上げる花火に
少し疑問が残るのは間違っているのだろうか。
ここまで豪華でなくてもいい。
昔、娘を連れて河原で長岡花火を見た30年前とは規模が違う。
最後に打ち上げらる三尺玉を背にしながら帰ったあの時が
なぜか情緒があり懐かしい。
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