2016年4月17日日曜日

心室期外収縮治療を終え

皆さまお元気ですか
私の治療日は、熊本の大きな地震日と重なりました。
多くの犠牲者、そして多くの地域の混乱損壊、交通麻痺と様々な被害に遭われているときに、私ごとのブログを書いて良いものかと、迷いましたが、お見舞いに来てくれた私の大好きな姉ちゃんの家族が「礼子ちゃんのブログ楽しみにしているから書いてね」と言ってくれたので書くことにしました。
オーバーですが、これも生きていればこそ出来ることです。
さて、病院の入院日、カテーテル治療日は前から予約して、わかっていました。
心臓の鼓動はきまった場所で電気信号を送って、その電気信号で規則正しく鼓動しているようです。
私の心臓にはその電気信号が別のところでも発信しているらしく、それが不整脈を起こしているとのこと。治療そのものは難しくないらしいが、場所が悪いと言われ、呼び出された夫とともに、「無理はしないつもりです。見つからなかったら止めます」「医師は3人つきますから大丈夫です」と言われました。
急患のためスタートが一時間遅れ、いよいよカテーテル室に入ると、私は犯罪者のように、体中にペタペタとシールを貼られました。その前には新人医師から点滴のための注射。
「ぼくが点滴をうちます」と言われました。これは内緒ですが、隣の88歳の患者さんの左手首は青くなっていました。「練習用の手」と笑って話していました。そこで私は新米先生に「練習してきてね」と頼みました。さて、いよいよ二本の針を刺します。ここでいいかどうか付き添いの医師に確認しながら、丁寧に血管を見つけて、針を刺す。ちょっと痛かったけど、大成功。二本目も成功でした。わたしは新米先生に100点を差し上げました。彼は嬉しそうに微笑みました。「先生、これから何人も何百人もの方を助けてください」と心からお願いしました。「はい」と答える彼の爽やかさに目が潤みました。話を元に戻します。私の体は狭いベットにがんじがらめに縛られ、身動きできません。主治医の他に応援に駆けつけてくれた新潟大学病院の先生も爽やかに「応援に来ましたよ」と私を気遣ってくれました。その他技師の方がモニター操作、ガラスの向こうにはテレビか映画のように、治療を見学する人たちが6人、腕を組み私の治療を凝視しています。私の置かれた横にはモニターが5台、後ろで操作するところにも2台あったような気がします。総勢16人ほどです。まな板の鯉になってしまった私。でもまな板の鯉は自ら動かないのではありません。足も手も縛られては到底動けないのは当たり前です。3本のカテーテルを首と足の付け根に入れます。その前に部分麻酔です。一場所に10本くらい打ちました。次第にその部分は麻痺し、痛みはなくなりました。さあ、いよいよスタートです。担当看護師さんも優しく声をかけてくれます。主治医の先生はことさら優しく、丁寧に順番を説明してくれます。首は左向きに固定されていたので、小さなモニターを見ていました。だんだん、緊張と不安と何と言っても腰が痛くてしょうがないのです。私の訴えに対して、筋肉を和らげる注射、次には痛み止め、と何本もの注射を受けました。時計は私の場所からよく見えます。この部屋に入ってから、まだ一時間しか経っていない。患部は見つかっていないようです。緊張のあまり私は嘔吐の連続、その度に治療は休止。吐き気止めを点滴に注入。「気分をやわらげる注射をしましょう」と優しく私を諭す主治医。4時半を回っていました。腰の痛みと吐き気がおさまって、少し眠ったようです。しばらくして、意識を取り戻すと、時計は5時半を回っていました。先生たちの声が少し変わっていました。治療場所がなかなか見つからないようです。立体画像を早く回してとかアルファとか専門用語が次々に出てきます。私は「もういいです」と心の中で覚悟を決めかけていた時、ふと思ったのです。特攻隊の人たちは帰還することができないと知りながらゼロ戦に乗ったことを。ストレスを超えた、諦めの心の中は想像の域をこえていたことでしょう。それから真央ちゃんのことを考えました。期待に答えなければならない、プレッシャー、ストレス。こんなことを無理に考えていました。それは私自身を奮い立たせるためです。局部麻酔は地獄の川を渡るようなものです。何もかもがわかるのですから。やめてくださいと叫びたい気持ちを抑える辛さ。もう耐えられないと思ったその時に、先生たちの声、ようやく患部発見。治療に入ることができました。2時半から7時半過ぎまでの長い長い戦いは終了をむかえたのです。
この後がまたまた大変!続きはまた。


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